23. 3月 2016 · (273) 管弦楽組曲《エスタンシア》 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

1940年、ヒナステーラの出世作《パナンビ(蝶)》((272) ヒナステラの《エスタンシア》??参照)のバレエ版を初演したアメリカン・バレエ・キャラバンは、彼に新作を委嘱。25歳のヒナステーラは、国民主義のバレエを作ります。1つはアルゼンチン人の生活に基づいた題材を選んだこと。アルゼンチンの大農場エスタンシアにおける、夜明けから翌日の夜明けまでの忙しい活動をバレエにしたのです。

もう1つは、そこで暮らすガウチョ(アルゼンチンなど南米で牧畜に従事する人)の伝統を結びつけたこと。バレエ音楽(なの)に、ガウチョ文学の代表であるホセ・エルナンデス(1834〜86)の2,316行から成る叙事詩『マルティン・フィエロ Martín Fierro』(1872, 1879)の一部を、歌あるいは語りとして取り入れました1 。都会の男と、彼が心を奪われた美しいエスタンシアの女、彼女の周りのたくましいガウチョという三角関係で味付けし、1941年にバレエ音楽《エスタンシア》完成。

初演前にアメリカン・バレエ・キャラバンが解散。ヒナステーラは《パナンビ》のように《エスタンシア》も管弦楽組曲にし、1943年に初演。すぐに評判に(『マルティン・フィエロ』からの引用は、全て除かれました)。3拍子系リズムの変化や、ガウチョにつきものの楽器ギターの模倣など、民俗音楽の直接の影響が見られます。トロンボーンとテューバの無い2管編成のオーケストラと言えば、ベートーヴェンの時代。でも、様々な打楽器とピアノが加わり、カラフルでにぎやかな音楽になっています。

バレエ音楽《エスタンシア》より4つの踊り op. 8a 

  1. 農場で働く人々〉:3小節フレーズ、3小節目だけ拍子の取り方が変わる(6/8拍子で書かれていますが、3小節目は3/4拍子)「ザザザザン、ザザザザン、ザンザンザン」リズムが、準備無しで平行移動する転調を伴って繰り返されます。クラシック音楽とは異質な野暮ったさ。活気に満ちた農場で働く男たちの、野性的で荒々しい様子を表現しているのでしょう。開けっぴろげな雰囲気のまま終了。
  2. 小麦の踊り〉:4曲中この第2曲のみ、ゆったりと静か。印象派の音楽のような響きも。冒頭はフルート、最後はヴァイオリンの叙情的なソロが入ります。それにしても、なぜこのタイトル Danza del Trigo(Wheat Dance)? エスタンシアの生活と小麦、小麦とダンスとこの音楽がどのように関係するのか、わかりません……。
  3. 牛追い〉:タイトルを英語に直訳すると Laborers of Property 土地で働く者。ガウチョのことですね。リズムが特徴的。シンメトリーを避けていて、先が予測できないのです。8/9拍子で始まりますが、3拍子ではなく3/4 拍子1小節の後におまけの3/8拍子部分が付いて、尻切れトンボみたい。このパターンが、3/4拍子や5/8拍子、7/8拍子の部分を挟みながら繰り返されます。なんだか音楽がバタンバタンしている印象。ティンパニのソロの後、勝ち誇ったように唐突に終わります。
  4. 終幕の踊り(マランボ)〉:マランボは急速で激しいアルゼンチンの民俗舞踏。男たちは機敏さと(肉体的な)男らしさを競います。ヒナステーラはマランボで、農場の女の心を得るためにガウチョたちと競争する都会の男を描きました。高域のピッコロで始まり、ギターをかき鳴らすような忙しい伴奏も。後半は同じ主題が何度も繰り返され、熱狂的なお祭り騒ぎに。タンブリンのロールはセミ、ホルン・セクションは象の騒ぎ、フルートは鳥のさえずりなど、自然の模倣も登場します2

と言葉で説明しても、ヒナステーラの《エスタンシア》の音楽を想像するのは難しいでしょう。是非聖フィル定期演奏会にいらして、実際に聴いていただきたいと思います。

  1. この傾向は、ヒナステーラよりも前の世代から始まっています。Schwartz-Kates, Deborah, Alberto Ginastera: A Research and Information Guide, Taylor & Francis, 2011, p. 5.
  2. Fleming, Beth, Program Notes, Symphony Sillicon Valley.
25. 5月 2011 · (30) スメタナとドヴォルジャーク はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

第5回聖フィル定演では、国民楽派の作品を取り上げます。国民楽派とは、民族意識が高まった19世紀に、ロシアや北欧・東欧などで、西洋音楽の主流(イタリア、フランス、ドイツ、オーストリア音楽)の影響を受けつつも、それぞれの地に固有の民族的特色、たとえば民謡のメロディーや民族舞曲のリズム、地域の民話や伝説などを活かしながら、芸術音楽を創造しようとした作曲家たちを指します。

藤森亮一先生が共演してくださるチェロ協奏曲を作ったドヴォルジャーク(1841〜1904)は、「チェコ国民楽派の祖」スメタナ(1824〜1884)の業績を受け継ぎ、発展させた作曲家です1。チェコは17世紀以来ハプスブルク帝国に支配され、公用語はドイツ語。チェコ語は日常語や下層社会の言葉とされていました。

スメタナは、チェコ語で苦労しています。1859年にイタリア独立戦争に負けたオーストリア政府は、非ドイツ系民族への締め付けを緩め、文化においても大幅な自由を認めました。チェコ独自の音楽創造を目指すスメタナは、チェコ語による国民オペラの作曲に取りかかりますが、ドイツ語で育ったため、母国語であるはずのチェコ語をうまく使いこなせなかったのです。困難を乗り越えて1866年に発表した、ボヘミアの農村を舞台にした喜歌劇《売られた花嫁》が大成功し、国民劇場仮劇場の正指揮者に迎えられます2

ドヴォルジャークの場合は、ドイツ語が作曲家への道を開きました。父は彼に家業の宿屋兼肉屋を継がせようと、経営に必須のドイツ語を学ばせたのですが、幸運にもドイツ語教師リーマンが優れた音楽家だったのです。彼は、ドヴォルジャークがプラハのオルガン学校へ進む際も力になってくれました。卒業後は、生活費を得るために国民劇場仮劇場オーケストラのヴィオラ奏者になり、1866年以降はスメタナの指導を受けます。

ブラームスの紹介で出版した《スラブ舞曲集》で名前が知られるようになったドヴォルジャークは、音楽界の大御所ハンスリックから「ウィーンに出てドイツ・オペラを作曲するよう」勧められます3。オペラで成功すれば、国際的な名声のみならず経済的な安定も得られます。在学中も卒業後も貧困に苦しめられたドヴォルジャークが、心動かされなかったはずはありません。

しかし彼は、チェコの作曲家として生きる道を選びます。支配国オーストリアに対する複雑な思いはもちろんですが、1871年にオーケストラを辞めるまでの5年間薫陶を受けたスメタナの、国民音楽創造への情熱を受け継いだのでしょう。その後ドヴォルジャークはイギリスやロシア、アメリカなどでも活動し、チェコ国民音楽の魅力を広めることになります。

  1. 彼の名前はドボルザーク、ドヴォルザークとも表記されますが、このコラムではドヴォルジャークに統一します。チェコ語の発音に近いのは、ル無しのドヴォジャークだそうです。
  2. 昨年ようやく、チェコ語による「コンサートオペラ」上演を見ました。噂にたがわずとても楽しい内容でした。早い時期にすぐれたドイツ語に訳されたおかげで、各地の歌劇場のレパートリーに加えられ受容が進んだというのは、皮肉ですね。
  3. リストやヴァーグナーの革新的な音楽を攻撃し、ブラームスを高く評価したハンスリックは、交響曲や協奏曲、室内楽などを中心に作曲したドヴォルジャークを好ましく思ったのでしょう。