21. 3月 2013 · (125) バレエ音楽史を変えたチャイコフスキー はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

単なる踊りの伴奏とみなされ、単純な楽曲が大部分を占めていたバレエ音楽((124)《白鳥の湖》がうけなかった理由参照)。作曲家は、振付師に完全に従属する存在でしたから、作曲のプロセスも独特でした。振付師が必要な音楽の小節数、拍子、リズムなどを予め細かく指示し、作曲家はそれに従って作っていたのです。しかも、作曲後も製作現場で、曲の変更や訂正が求められました。そのため、当時の一流の作曲家は、オペラの中のバレエ以外はバレエ音楽を積極的に作ろうとはしませんでした。

ペテルブルクの帝室マリインスキー劇場支配人ヴセヴォロジュスキーが台本を書いたバレエ《眠りの森の美女》(文字通りの訳は《眠りの美女》)の音楽を作曲する際、チャイコフスキーも振付師マリウス・プティパに、音楽を詳細に指定されました。ヒロインのオーロラ姫が、命名式で邪悪な妖精カラボスから受けた呪いのとおり、成人式で指に糸紡ぎの針を指して倒れる、第1幕最後の部分の指示は:

……突然オーロラ姫は紡錘針を手にした老婆に見とれる。2/4拍子で。しだいに3/4拍子のワルツに代る。ややポーズ。姫は何もいわない。姫の苦しみと叫び、手から血が流れる。4/4拍子で8小節。姫は踊り、突然目まいが生ずる。一同の驚き。この動作は長くなく、じきに発狂する。姫はあたかもタランチュラ蜘蛛に噛まれたかのようにあおむけに倒れる。これは24か32小節で書いて欲しい。終わりはトレモロが好ましい。そこで王と妃の嘆きにしたい。ややあって人々は老婆をみつける。カラボスの老婆は静かにマントを脱ぐ。ここに全管弦楽の半音階が欲しい……1

この細かい注文に対して、チャイコフスキーはどのように答えたでしょうか(動画参照)。第1幕第8番のコーダは初めト長調2/4拍子ですが、後半は変ホ長調3/4拍子(0’53〜)。同じ旋律が調と拍子を変えてワルツになるあたりは「しだいに代る」の指示どおりでお見事。第9曲フィナーレ冒頭の苦しみの場面は指示よりも長いですが、4/4拍子(1’26〜)。タランチュラに刺されたように苦しげに踊り回る部分は32小節ぴったり(2’11〜)。注文どおりにティンパニのトレモロが響き渡り(2’42〜)、アンダンテ・コン・モートの嘆きの部分(動画はここまで)。アレグロ・ヴィーヴォに変わってカラボスの主題(単独でも演奏されるイントロダクション冒頭の激しい旋律)がトゥッティで現われ、半音を多用した旋律がつけられます。

指示に忠実! でも、無邪気に陽気に踊るオーロラ姫が、血のにじむ指を見て驚き恐怖に陥るドラマティックな転換が、実に自然に描かれています。プティパの指示はチャイコフスキーにとって、足かせというよりもむしろ、創作の大きな助けになったようです。リハーサルにも出席し、土壇場での手直しも行いました(8小節と指定された苦しみの音楽が実際には28小節なのは、手直しの一部でしょうか)。一方、経験豊かなプティパにとっても、力強く変化に富み、リズムが複雑なチャイコフスキーの音楽は、それまでとは全く異なるチャレンジングなものでした。

残念ながら《眠りの森の美女》の初演も、評判は良くありませんでした。新聞評は、「チャイコフスキーの音楽は演奏会用作品でまじめ過ぎ、重厚過ぎた」2。でも、この批評は彼の音楽の本質を突いていますね。単なる踊りの伴奏ならば、踊り無しの演奏会用作品として成り立ちませんから。チャイコフスキーが、交響曲やオペラを作るのと同じ姿勢でバレエ音楽に取り組んだからこそ、《白鳥の湖》や《眠れる森の美女》《くるみ割り人形》の抜粋が、演奏会用組曲として成立し得るのです。現在では、むしろバレエ以上にコンサートで頻繁に演奏されています。

音楽が踊りと一体になって物語や登場人物を活き活きと描き出すよう、主題や調の選択、オーケストレーション、全体の構成を工夫し、バレエ音楽を、交響曲やオペラと同じ芸術的水準まで引き上げたチャイコフスキー。彼以降、バレエ制作は振付師と作曲家の共同作業になり、グラズノフ、ストラヴィンスキー、プロコフィエフらに受け継がれていきます。

  1. 小倉重夫「チャイコフスキー《白鳥の湖》」『名曲解説全集5』音楽之友社、1980、229ページ。
  2. 前掲書、236ページ。
10. 3月 2013 · (124) 《白鳥の湖》がうけなかった理由 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

今ではバレエの代名詞になっている、チャイコフスキーの《白鳥の湖》。しかし、作曲家の生前には真価が認められなかったことは、広く知られています。

1877年2月20日、モスクワの帝室ボリショイ劇場での初演は、あらゆる面で不評でした。衣装や装置は貧弱、振り付けや演出は芸術性を欠いており、オーケストラ演奏も不完全、しかも主役オデットを踊ったのは全盛期を過ぎたバレリーナ。プリマを代えたり、振り付けを変更したり(3回も!)しながら6年間で41回公演されましたが、評判にならないまま、1883年を最後にモスクワでの上演が打ち切られました1

音楽に関しては、「《白鳥の湖》の音楽はすぐに広まり、音楽のよくわからない人達までもがこのメロディーをくちずさみ……」のような好意的な批評もありました2。しかし、最後には全体の1/3近くが他のバレエ作品からの音楽、それも必ずしも良いとは限らない音楽に替えられていたそうです3。甘くロマンティックなメロディー満載、ドラマティックでゴージャスな管弦楽法のみならず、登場人物や物事を音楽で表した大傑作((122) 「音楽の悪魔」(123) 物語を音楽で説明するには?参照)なのに、差し替えられるなんて、いったいなぜ?

それはある意味、傑作すぎたから。当時のバレエは、バレリーナの曲線美や優美なポーズを活かすことのみを意図して振り付けられた踊りを、単純な舞曲にのせて羅列した、見せ物のようなものでした4。音楽は、踊り手のための伴奏。ロシアでは、バレエ音楽専門の作曲家たちが、踊り手が好む規則的な拍子と類型的なフレージングの、決まりきった様式でバレエ音楽を作曲していました。バレリーナの技巧を誇示するためには、複雑な音楽は逆効果とさえ考えられていたそうです。当時のバレエ作品に親しんだ観客や批評家たちには、チャイコフスキーの《白鳥の湖》の音楽はシンフォニックで複雑すぎたのです。

当時のバレエ音楽専門作曲家の代表が、ミンクス。代表作《ドン・キホーテ》においても、シンプルで調子のよい魅惑的なフレーズや、小節数を増減しやすい作りなど、職人的テクニックに気づきます(動画参照。第3幕よりキトリのヴァリアシオン)。1881年にペテルブルクの帝室マリインスキー劇場支配人になったヴセヴォロジュスキーは、バレエ改革の第1歩として、専任作曲家ミンクスを解雇。以前から注目していたチャイコフスキーに作曲を依頼しました。こうして生まれるのが《眠れる森の美女》と《くるみ割り人形》。ただし、第1作目《白鳥の湖》の酷評にショックを受けたチャイコフスキーが次のバレエ音楽にとりかかるには、10年以上の年月が必要でした。

《白鳥の湖》の評価が一変するのは1895年。チャイコフスキーの急死直後、スコアをモスクワから取り寄せた振付師プティパが、イヴァーノフとともに新しい演出と振り付けで改訂初演。これが大成功を収めてからです。このとき、指揮者ドリゴによる編曲と、弟モデストによる台本の改訂も行われました。現在の《白鳥の湖》の演出は、この改訂版が基礎になっています。

  1. 森垣桂一『音楽之友社ミニチュア・スコア』の解説、vii ページ。
  2. 前掲書、vi ページ。
  3. ピアノ独奏用編曲を最初に行ったニコライ・カシキンの言葉。Goodwin, Noel, “Ballet, 2,” New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 2. Macmillan, 2001, p. 583.
  4. 小倉重夫「チャイコフスキー《白鳥の湖》」『名曲解説全集5』音楽之友社、1980、177ページ。
19. 11月 2012 · (108) 熱狂の理由:《第九》の初演 (5) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

1824年5月7日に行われた、《第九》初演やミサ・ソレムニスのヴィーン初演(3つの楽章のみ)を含む、ベートーヴェンの大音楽会(アカデミー)。演奏の出来にはかなり問題がありましたし、皇帝や貴族たちは不在((107) 練習は何回?参照)。でも、ヴィーン音楽界の多くの有力者が出席し、大変な盛況でした。聴衆は熱狂! ベートーヴェンにとって、生涯最大の芸術的勝利となりました(ただ、総収入2,200グルデンから写譜代700グルデンなどの経費を除くと、作曲者の利益はわずか300グルデン1。経済的勝利にはなりませんでした)。

演奏に不備があったのに、聴衆は何に熱狂したのでしょうか。もちろん、ベートーヴェンの音楽自体に感動したのでしょうね。歌詞がわかりにくいため、シラーの詩500部が当日配布されました(印刷することが決まったのは前日)2。歌詞に込められた歓喜、自然、兄弟愛、自由、平等などの理念を、聴衆も理解できたはずです。

新しい交響曲への関心も高まっていました。ベートーヴェンはそれまでの8つの交響曲を、あまり間隔をあけずに作曲・初演しています。でも、交響曲第8番を作曲したのは1812年。1814年2月の初演から数えても、すでに10年が経過。彼の交響曲に対する渇望感があったのでしょう。

そして、「2月嘆願書」が、新作への期待をさらに煽ることになります。ベートーヴェンは諸事情により、《第九》をベルリンで初演することを考えました。それを知ったリヒノフスキー伯爵らベートーヴェンの支持者たちが、ヴィーンで初演するよう運動を開始。1824年2月に30人もの連名で、ベートーヴェンに嘆願書を出しました。この「2月嘆願書」が4月に『一般音楽新聞』や『劇場新聞』で公開され、人々の興味をかき立てたのです3

でも、人々が熱狂した最大の理由はおそらく、そこにベートーヴェンがいたから。当日のプログラムの下方には、「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン氏自ら全体の指揮に参加」と大きな活字で強調されています(図1)4。ヴィーン市民にとって、彼らのヒーローが姿を見せることに大きな意味があったのでしょう。

図1:1824年5月7日の演奏会プログラム

このため当日は、「シュパンツィク氏はヴァイオリン・パートで統率(=コンサート・マスター)、楽長のウムラウフ氏が指揮棒を執り、作曲者自ら全体の指揮に加わった。すなわち彼は(中略)自分の原スコアにあたりながら、各々のテンポの入りを指示したのである(『一般音楽新聞』7月1日号)」 という、三重の指揮体制になりました5。演奏の不備にふれつつ、『一般音楽新聞』は続けます。「だが、感銘はそれでも筆舌に尽くしがたいほど大きくて素晴らしく、崇高な楽匠に力の限り示された歓呼の声は熱狂的であった。彼の尽きることのない天賦の才は私たちに新しい世界を開き、未だ聴いたことも予感したこともない聖なる芸術の奇跡の神秘を露にした」6。ベートーヴェンを大絶賛していますね。

でも実は、総指揮者ウムラウフが演奏者たちに、ベートーヴェンのテンポ指示を無視するよう(!!)言い渡していました7。作曲家はそこに「いただけ」だったのです。

  1. 児島新(構成・解題:平野昭)「ベートーヴェン《第九交響曲》の初演について:会話帳に見られる新事実」『ベートーヴェン全集10』講談社、2000、205ページ。
  2. 同上。
  3. 土田英三郎「神話の醸成」『ベートーヴェン全集9』講談社、1999、142ページ。
  4. 土田、143ページ。児島氏はこれを、プログラムとは別の、初演当日の劇場広告と書いています。
  5. 土田、144ページ。
  6. 土田、145ページ。
  7. 土田、143ページ。
11. 11月 2012 · (107) 練習は何回?:《第九》の初演 (4) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , ,

1824年5月7日に行われた「大音楽会」、演奏する方はさぞかし大変だったことでしょう。《第九》交響曲 op. 125 は世界初演1。《ミサ・ソレムニス 》op. 123 は半月前の4月18日にペテルスブルクで全曲初演されましたが、ヴィーンでは初めてです。曲が長くて難しいうえ、《ミサ・ソレ》と《第九》終楽章は合唱と独唱とオーケストラのアンサンブル。しかもその合唱やオーケストラは、ヴィーン楽友協会のアマチュアたちも加わった混成部隊でした((84) 倍管は珍しくなかった参照)。

いったいどれくらい練習したと思いますか? 『一般音楽新聞』はリハーサルが3回と伝えていますが、全員による総練習(ゲネラルプローベ)は2回だけでした2。当時の演奏会の総練習は1回ということもあったそうですから((22)《運命》交響曲の初演参照)、これでも念入りな方!?

  • 4月20日頃     初演用パート譜、作成終了
  • 5月2日 9〜14時 最初のオケ総練習、声楽(独唱者を含む)のパート別練習(女声は少年合唱)
  • 5月3日 午後     合唱練習、アマチュアのオケ・メンバー練習
  • 5月4日(時間?)劇場合唱団の練習
  • 5月5日 9〜14時 劇場オケと合唱団の第1回ゲネプロ
  • 5月6日 9時〜? 第2回ゲネプロ(管楽器第2奏者が初めて加わる)
  • 5月7日     本番

初演の日程は何度も変更されました。当初の予定では4月8日3。しかし、パート譜作成に時間がかかり(長いうえに、大編成ですから)、初演日を4月27日、28日に変更。楽譜の校正作業も必要で練習時間がとれず、再び延期せざるを得ませんでした(校正したにもかかわらず、第2楽章スケルツォの反復記号が抜けていて、5日の第1回ゲネプロで混乱が起こっています)。

ベートーヴェンは、皇帝が5月5日にヴィーンを離れる前に演奏会を開きたいと強く希望していました(5月1日付け『一般音楽新聞』に「5月4日」という誤った予告が掲載されたのは、そのためかもしれません)。でも、この日程を見ると、練習が間に合わなかったのは明らかですね。結局、5月7日金曜日午後7時という最終的な初演日時が告知されたのは、本番2日前だったそうです。ヴィーンの演奏会シーズンはすでに終了。皇帝一家の臨席は叶わず、ルドルフ大公をはじめ多くの貴族たちも領地に戻っていました。

肝心の演奏の出来は? 各楽章の途中や終わった後で大喝采があったとか、第2楽章スケルツォではアンコールも求められたとか、アルト歌手のカロリーネ・ウンガーが、歓呼に気づかないベートーヴェンの袖を引いて客席の方を向かせたとか、聴衆の熱狂ぶりが伝えられますが、演奏自体は不備であったと報告されています。『一般音楽新聞』は、「少なくとも声楽パートに関しては決して十分に仕上がっていなかった」と書いていますが、先を読むと仕上がっていないのは声楽パートだけではなかったことが伝わって来ます4。また、16日後に行われた再演の評は「あちこちに改められるべき余地が多々認められた」5

当時の曲としては(私たちにとっても ?!)長く、複雑で、途方もなく難しい《第九》。作曲者の生前にヴィーンで演奏されたのはこの2回と、亡くなる11日前の演奏会の、計3回だけでした。

  1. 《献堂式序曲》op. 124 の初演は、1822年10月3日でした。訂正しておわびいたします(12/11/13 追記)。
  2. 土田英三郎「ベートーヴェン《第九交響曲》作品史のための資料」国立音楽大学『音楽研究所年報』第17集(2003)。同研究所ホームページの研究報告より。
  3. 児島新(構成・解題:平野昭)「ベートーヴェン《第九交響曲》の初演について:会話帳に見られる新事実」『ベートーヴェン全集10』講談社、2000、202ページ。
  4. 土田英三郎「神話の醸成」『ベートーヴェン全集9』講談社、1999、144ページ。
  5. 同上、148ページ。
15. 8月 2012 · (94) モーツァルトとドヴォルジャーク はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , , ,

アマ・オケ演奏会のプログラムは往々にして、「弾ける曲」あるいは「弾きたい曲」を並べるだけになりがち。共通点を持つ曲を組み合わせるとか、全体でストーリーを構成するのは、なかなか難しいのですが……。聖フィル第7回定演のプログラム3曲は、1つのラインで結ばれています。モーツァルトとドヴォルジャークに共通するものは、何でしょう?

答えは、プラハ。ドヴォルジャークはプラハ近郊に生まれ、プラハに建てられた「国民劇場仮劇場」楽団のヴィオラ奏者として、指揮者スメタナの薫陶を受けました((30) スメタナとドヴォルジャーク参照)。《チェコ組曲》ではボヘミアの民族舞曲を用いています((91) フリアントは速くなかった参照)し、《新世界》交響曲は、アメリカから遠い祖国へ送った音楽便りです。

それでは、モーツァルトとプラハの関連は? 《プラハ》というニックネームを持つ交響曲がありますし、今回序曲を演奏するオペラ《ドン・ジョヴァンニ》は、当時モーツァルトが住んでいたヴィーンではなく、プラハの国立劇場で初演されました(図11)。1787年10月29日のことです(1791年には同劇場で《皇帝ティートの慈悲》も初演)。でも、それだけではありません。モーツァルトにとってプラハは、特別な街でした。

1783年、《後宮からの誘拐》の上演以降、一般にもモーツァルトの名が知られるようになっていたプラハ。1786年12月、ヴィーンに次いで《フィガロの結婚》が上演され、大成功! 演奏に立ち会うように招かれたモーツァルト夫妻は、翌1787年1月11日昼にプラハに到着します。昼食後に歓迎の演奏会。さらに、

6時に馬車で……いわゆるブライトフェルトの舞踏会に出かけた。……この人たちがみんな、コントルダンスやドイツ舞曲に編曲されたぼくの《フィガロ》の音楽に合わせて、有頂天になって跳ねまわっているのを、最高にうれしい気持ちで……眺めていた。だって、ここではみんな《フィガロ》の話しかしないんだ。弾いても、歌っても、口笛を吹いても、《フィガロ》ばっかり。《フィガロ》みたいにお客の多いオペラはないし、どこにいっても《フィガロ》《フィガロ》だ。たしかに、ぼくにとってはじつに名誉なことだ!2

17日、夫妻は《フィガロの結婚》上演に列席。19日、モーツァルトが音楽会を開催。このとき初演された交響曲(ニ長調 K.504[第38番])は、《プラハ》と呼ばれるようになりました。また、オペラの中でフィガロが歌う有名なアリア《もう飛ぶまいぞこの蝶々》による即興演奏で、拍手喝采を浴びています。22日、モーツァルト自ら《フィガロ》を指揮。2月8日に帰途につく前、興行師ボンディーニに、次シーズンのための新作オペラを依頼されました。

この機会に作られたのが、《ドン・ジョヴァンニ》です。上演のため、モーツァルトは同年10月4日から再びプラハに滞在。14日に、皇帝ヨーゼフ2世の妹マリア・テレジア皇女と婚約者のプラハ訪問のために催された祝典公演でお披露目するはずが、間に合わず(代わりに、モーツァルトの指揮で《フィガロ》を上演しました)。24日に延期された《ドン・ジョヴァンニ》初演は、歌手の1人が病気になったために29日に再延期。オペラが完成したのは、その前日でした。果たして首尾は? もちろん、大成功!

半年後、改訂版でヴィーン初演。でも、《フィガロ》のように《ドン・ジョヴァンニ》も、ヴィーンではあまり受けませんでした。生地ザルツブルクと同様、フリーランスとして活動していたヴィーン((10) 自由音楽家としてのモーツァルト参照)も、モーツァルトにとってハッピーな街ではなかったのです。

モーツァルトを暖かく迎え、彼の音楽を高く評価し、彼に大成功をもたらしたプラハ。「ぼくは当地で最高の好意と名誉を受けている。……プラハは実に美しい。気持ちのいいところだ」とモーツァルトに書かれたことを、プラハの人々は誇りに思っているでしょう3。モーツァルトとドヴォルジャーク、意外なところで重なり合っているのです。

図1:《フィガロ》や《ドン・ジョヴァンニ》が上演されたプラハの国立劇場

  1. H. C. ランドン『モーツァルト:ゴールデン・イヤーズ 1781ー1791』吉田泰輔訳、中央公論社、1991(原書は1989)、185ページ。
  2. ゴットフリート・フォン・ジャカンへの手紙より(1787年1月15日付、プラハ)。R.マーシャル『モーツァルトは語る』高橋英郎、内田文子訳、春秋社、1994(原書は1991)、372-4ページ。
  3. 前掲書、184ページ。
12. 7月 2012 · (89) どこで弾いていたのか?:《第九》の初演 (2) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

「もちろん、オーケストラはステージ前方でしょ? 奥に合唱団が並んで」とお思いの方が多いでしょうが、残念ながら違います。(26) クラシック音楽ファンの常識?で書いたように、音楽と言ったら声楽。器楽は1段(?)劣る脇役と考えられていました。ステージ上で演奏する(できる)のは、ソリスト(声楽でも器楽でも)と、歌の人。

オーケストラが演奏する場所は、いわゆる「オーケストラ」。古代ギリシアの劇場で舞踏場だった、ステージと客席の間のスペースですね((29) オーケストラは「踊り場」だった!?参照)。客席とは仕切りを隔てているだけです。図1は《第九》が初演された、ヴィーンのケルントナートーア劇場の「オーケストラ(踊り場」)。指揮者の位置は、現在と違って舞台のすぐ下。奏者は、客席に背を向けるようにして演奏していました。オーケストラだけの演奏会では、舞台には幕が下ろされていたそうです1

図1:ケルントナートーア劇場の「オーケストラ」

オーケストラがステージの上で演奏するようになるのは、19世紀半ば。ただ、上は上でも……。図2は、ヴィーンのコンセール・スピリチュエル(楽友協会と並ぶ、アマチュアの音楽団体)の楽器配置。舞台手前は独唱と合唱団の場所で、楽器奏者はその後です。相変わらず、声楽の方が器楽よりも偉かったというか、重用視されていたことがわかります。奥左側にヴァイオリンとヴィオラ(読み取れないのですが、最前列右端がコンサート・マスターのようです)、中央のオルガンの前に低弦、右側が管楽器(図2’をクリックで拡大してご覧ください)。打楽器が見当たらないのですが?

図2:ヴィーンのコンセール・スピリチュエルの楽器配置

図2’:ヴィーンのコンセール・スピリチュエルの楽器配置

図3は、1874年に行われたベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》の演奏会。《第九》初演の際に、ヴィーンでの部分初演が行われた曲です。手前に聴衆が座っています。黒い服を着た指揮者の左側に、独唱者が4人、右側にヴァイオリンの独奏者。左右両側に、合唱の女性たち。男性は、その後ろのようです。そして、ソリストたちの後ろ、舞台の中央にオーケストラの団員たち2。譜面台が置かれているので、区別できますね。最前列にヴァイオリンが見えます。ベートーヴェンの胸像が置かれた正面バルコニーの下にも、奏者が並んでいるようです。合唱、オーケストラとも大人数! 管楽器は倍管でしょうか((84) 倍管は珍しくなかった参照)。

図3:ベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》の上演(1874)

そうそう、図2を見て、合唱の後ろでは楽器奏者は指揮が見えなかったのではとご心配の方へ。オケのメンバーも立って演奏していました。ご安心ください。

  1. 小宮正安『オーケストラの文明史』、春秋社、2011、115ページ。図1〜3も同書より。
  2. 前掲書109ページに「舞台の前方はあいかわらず声楽によって占められているが、彼らの中に独奏ヴァイオリンが唯一の器楽として姿を見せている」と書かれた説明は正確ですが、図2のような「器楽は後ろ半分」の配置ではなくなっているのが、大きな変化と言えるでしょう。
07. 6月 2012 · (84) 倍管は珍しくなかった:《第九》の初演 (1) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , ,

ベートーヴェンの交響曲第9番は、1824年5月7日に、ウィーンのケルントナートーア劇場で初演されました。当日のプログラムは:

  1. 大序曲(《献堂式序曲》op. 124)
  2. 独唱と合唱を伴う三つの大讃歌(《ミサ・ソレムニス》op. 123より《キリエ》《クレド》《アニュス・デイ》)
  3. 終楽章にシラーの『歓喜に寄せて』による独唱と合唱が入る大交響曲(交響曲第9番 op. 125)

オーケストラは大編成。弦楽器奏者の人数は、ファースト・ヴァイオリン12、セカンド12、ヴィオラ10、低弦(チェロとコントラバス)121。バランスをとるために、管楽器は2倍(倍管)だったと考えられます。合唱は90数名。ピアノも使われましたが、ミサ曲のオルガン・パートを弾いただけだった可能性もあります。5月23日の再演は、王宮内の広い大レドゥーテンザール(舞踏ホール)で行われたので、弦楽器の数が14、14、10、12に増やされました。

ケルントナートーア劇場所属の合唱団員は、ソプラノとアルトを受け持つ少年が16人ずつ、テノールとバスの大人が各17人前後。この時期の劇場オーケストラの人数はわかりませんが、1796年の記録では、弦が上から6、6、4、3、4の計23、木管4種とホルン、トランペット各2、ティンパニ1。全部で36人でした2。1824 年でもそれほど変わらなかったでしょうから、プロだけでは足りません。1812年に設立されたアマチュア団体ウィーン楽友協会が、オケと合唱の両方を補強したと、「ウィーン一般音楽新聞」が報告しています(7月1日付け)。

《第九》には合唱が入るため、特別にこのような大編成にしたのかと思っていたのですが、違いました。同じ大レドゥーテンザールで1814年2月27日に行われた交響曲第8番の初演と、それに先立って1月2日に行われた交響曲第7番の再々演。ベートーヴェン自身が弦の数を、18、18、14、12、7と日記に書いているそうです。弦楽器が合計69ですから、管楽器はもちろん倍管だったはず。全ての管パートが2倍だったとすると、24。ティンパニを加えて、総勢94名?!

前年12月8日と12日に、ウィーン大学講堂で行われた第7交響曲の初演・再演も、これと同じ編成だった可能性があります。「ウィーン一般音楽新聞」が12月11日付けで、「ウィーンの最も卓越した音楽家たち(およそ100名)」と書いているからです。これら4回の演奏会のメイン曲は、《ウェリントンの勝利(戦争交響曲)》op. 91。戦闘や勝利の場面で使われる一斉射撃(!!)や打楽器のために、奏者が増やされましたが、その人数を割り引いてもものすごい大編成。アマチュア奏者がたくさん参加したと考えられます。

マイクが無いどころか、楽器の改良もあまり進んでいなかったこの時代。大きな会場で演奏する場合、十分な音量を確保するためには、奏者の人数を増やす以外に方法がありませんでした。聴衆に強く訴えかけるためにも、大きな音量による迫力が欠かせません。楽友協会オーケストラの弦楽器奏者は常時70人おり、1815年に始まった演奏会では、必要に応じて倍管にしていました3

ところで、ベートーヴェンは大レドゥーテンザールでの第7番、第8番の演奏会に関して、日記に弦楽器の数だけではなく、スコアにはないコントラファゴット2とも書き込んでいるそうです(ということは、オケ総勢96名!?)。当時の演奏者の数は、倍管も含め、私たちが考えるよりもずっと柔軟に変えられていたことがわかります。それから、ピアニッシモ部分では、パート譜に「ソロ」と記入されているそうです。倍管と言っても常に全員が吹いていたわけではありませんでした。

  1. 土田英三郎『ベートーヴェン:交響曲第9番ミニチュアスコア、解説』音楽之友社、2003。同編「神話の醸成」『ベートーヴェン全集9』講談社、1999、143ページでは、チェロとコントラバスが各12と書かれていますが、ここではより新しい資料を使いました。
  2. シェーンフェルトのウィーン・プラーグ音楽年鑑の数字。児島新「ベートーヴェン《第九交響曲》の初演について:会話帳に見られる新事実」『ベートーヴェン全集10』講談社、2000、203ページ。
  3. 土田英三郎編「世俗的な成功」『ベートーヴェン全集6』講談社、1999、131ページ。
23. 11月 2011 · (56) アドヴェントと音楽 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , ,

今年(2011年)の場合、11月27日がクリスマスから遡って4つ目の日曜日。キリスト教の新年が始まる、アドヴェント第1主日です1。この日からクリスマスまでがアドヴェント。聖光学院がその教えに基づくカトリックでは、待降節と訳します2。ろうそくを4本立てたアドヴェント・リース(アドヴェント第1主日には1本、第2主日には2本というように、灯りを点けるろうそくを増やしていく)やクリスマス・ツリーなどを用意し、主イエスの降誕に備えて心の準備をする期間です。クラシック音楽は様々な形でキリスト教と密接に結びついていますが、今回はアドヴェントと音楽について考えてみました。

イースター(復活祭)前の受難の季節レント(カトリックでは四旬節)と同様、アドヴェントも悔い改めや節制の期間です3。アドヴェント第2主日以降、カトリック教会の礼拝では、華やかに神を讃えるグローリアやアレルヤを歌いません。ルター派教会でも、この3週間は礼拝でカンタータを使いませんから、バッハも一息つくことができたはずです(バッハの教会カンタータについては改めて書きます)。

(22)《運命》交響曲の初演で触れたように、《運命》や《田園》が公開初演されたアン・デア・ウィーン劇場での1808年12月22日のベートーヴェンの演奏会も、アドヴェントと関係があります。ほとんどの日に複数の劇場でオペラや芝居が上演されていたウィーン。でも、レントの期間とアドヴェントのうち12月16日から24日までは、1777年の勅令で公演が禁止されていたのです。

演奏会を開くなら、この期間が狙い目。劇場も借りやすいし、仕事が休みのオーケストラ奏者たちを雇うこともできます。なにより、多くのお客さんを見込むことができます。

ただ、寒い! ベートーヴェンの有力なパトロンの1人ロプコヴィツ侯爵のボックス席で聴いていた、作曲家で文筆家ヨハン・フリードリヒ・ライヒャルトは、この演奏会について以下のように記しています。

われわれは物凄い寒さのなかを6時半から10時半まで耐え忍び……(中略)多くの演奏間違いがわれわれの忍耐心をひどく苛立たせはしたものの、私にはこの極めて温厚で思いやりのある[ロプコヴィツ]侯と同じように、コンサートがすべて終わる前にその席を立つことはできませんでした。(中略)歌手とオーケストラはまったくの寄せ集めで、この難曲揃いの演奏曲目の完全なリハーサルは一度たりともすることができなかったのです。(中略)この厳しい寒さでは、この美人 [独唱をしたキリツキー嬢] が今日は歌うよりも震えていることの方が多かったからといって、彼女を恨むわけにはいかないでしょう。われわれだって狭いボックス席で毛皮とマントにくるまりながら震えていたのですから。(中略)ベートーヴェンが神聖なる芸術的熱心さのあまり聴衆や場所のことを考えないで、[合唱幻想] 曲を途中で止めさせ、最初からもう1度やり直すよう叫んでしまったから……私が彼の友人たちともどもいかに困惑したか、おわかりでしょう。あの瞬間、もっと前に会場を出る勇気を持っていたなら、と思いましたよ(後略)4

劇場が閉まっているアドヴェント最後の期間は、演奏会が目白押し。同じ日にはブルク劇場で、ハイドンの作品による、音楽家未亡人協会のためのチャリティー・コンサートも行われています。「是非とも聴きたかった」とベートーヴェンの演奏会を選んだライヒャルト、大変でしたね。

  1. キリスト教の主の日は日曜日。ギリシア正教会など、新年が異なる教会もあります。
  2. ルター派教会も待降節。英国国教会(聖公会)では降臨節。正確には、11月30日かそれに最も近い日曜日の、前日土曜日の日没からアドヴェントが始まります。
  3. 英国国教会では大斎節。
  4. 「神聖なる強情さが生む誤解」『ベートーヴェン全集5』(講談社、1998)、154〜6ページ。予定ではミルダーが歌うはずだったのですが、ベートーヴェンが原因の口論のために出演を拒否し、急遽、キリツキーが代わりに歌いました。失敗したのは寒さのせいもありますが、実力と経験の無さが主原因でした。

1808年12月22日、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で、ベートーヴェンのハ短調交響曲が初演されました。作曲者本人の企画による、彼の作品のみで構成された大演奏会です。1809年1月25日号の『一般音楽新聞』によると当日のプログラムは(かっこ内は補足):

第1部

  1. 田園交響曲第5番(第6番)、絵画というよりむしろ感情の表現
  2. アリア。独唱はキリツキー嬢(《ああ、裏切り者》op. 65)
  3. ラテン語の歌詞による讃歌(ミサ曲ハ長調 op. 86 からおそらくグローリア)
  4. ピアノ協奏曲(第4番)。ベートーヴェンによる独奏

第2部

  1. 大交響曲ハ短調第6番(第5番)
  2. ラテン語の歌詞による聖歌(ミサ曲ハ長調からおそらくサンクトゥス)
  3. ピアノ独奏のための幻想曲(ベートーヴェンによる即興演奏)
  4. ピアノ、管弦楽、最後に合唱が加わる幻想曲(《合唱幻想曲》 op. 80)

《運命》が第6番、《田園》が第5番と書かれているのは、単に演奏順序によるのかもしれません。12月22日とはずいぶん寒い時期ですが、クリスマス前はオペラや芝居の上演が禁止されていて、競合しないからです。ちなみにこの意欲的な演奏会は、大失敗に終わりました。先の新聞は「演奏に関しては、あらゆる点で不十分であった」と評しています。主な原因は練習不足1

ベートーヴェンは、交響曲で始まりその後に独唱や協奏曲、即興演奏が続く、伝統的なプログラム構成を踏襲しています。客席の照明を暗く、ステージを明るくして開幕を知らせることができなかったロウソクの時代に、「交響曲」シンフォニーアは、オペラやコンサートの開始を告げる曲でした。しかし《田園》と《運命》交響曲は、序曲の役目を果たすには、成長し過ぎました。この演奏会のメインとして新たに作曲された《合唱幻想曲》よりも、冒頭に置かれた2つの交響曲の方が、音楽的にはるかに複雑で重要な意味を持つのは明らかです。

ベートーヴェンの9作品により、交響曲は「作曲家が1曲ごとに、持てる力をすべて注ぎ込んで作る」「作曲家の力量を推し量る指標となる」ジャンルにまで高められました。このような変化を反映し、1830年代には「序曲→協奏曲(またはアリア)→交響曲」という、今日まで続くプログラム構成が珍しくなくなったと言います2。交響曲の歴史においてこの1808年12月のベートーヴェン演奏会のプログラムは、現代まで続く交響曲像が完成する直前の、18世紀的な概念と19世紀的な実像の矛盾を映し出す好例と言えるかもしれません。

  1. 最後の《合唱幻想曲》では途中で演奏がずれて、もう一度初めからやり直さなければなりませんでした。当時、オーケストラの総練習は1回というのが普通だったそうですが、この演奏会では曲目が多過ぎて、全部を通す時間さえなかったと言います。ベートーヴェンは、同じ日に他の劇場でハイドンの作品によるチャリティー・コンサートが行われ、優秀な演奏家を取られてしまったと書き残していますが、彼の革新的な書法は、仮に演奏家が優秀であったとしても難かしかったことでしょう。11/11/24 追記:(56) アドヴェントと音楽もご覧ください。
  2. 森泰彦「ベートーヴェン時代のウィーンの演奏会」『ベートーヴェン全集5』講談社、1998、105ページ。13/09/18 追記:少なくともフィルハーモニック協会定期演奏会の、20世紀初頭までのプログラムをたどる限り、このような構成はかなり稀のようです。(150)・(151) 参照のこと。