07. 2月 2013 · (119) わくわくドキドキ、クレッシェンド はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

イタリア語の動詞 crescere(成長する、増大する)の動名詞形クレッシェンド crescendo、cresc. は「だんだん強く」。反対の「だんだん弱く」は、デクレッシェンド(decrescere:減少する、低下する)あるいはディミヌエンド(diminuire:減る)ですね。松葉型の記号も使われます。

このような奏法は、バロック時代には一般的ではありませんでした。この時代の強弱法は、原則としてテラス型(Terassendynamik)。たとえば協奏曲では、全合奏の部分と、独奏者と通奏低音(バロック時代の伴奏方法)奏者のみで演奏する部分で、フォルテとピアノが交代します(図1A)。フーガ書法が用いられる場合は、パートが増えるにつれて段階的に音量が増えます(図1B)。

図1:テラス型強弱法のイメージ

図1:バロック音楽のテラス型強弱法のイメージ

「だんだん」変化するクレッシェンドを意識的かつ効果的に使ったのが、プファルツ選定候の宮廷が置かれたマンハイムで活動した作曲家たち。1743年に候を継承したカール・テオドールは、科学や商業はもちろん芸術のパトロンとして有名で、マンハイムには多くの優れた音楽家が集まりました。 (115) 愛の楽器? クラリネット (2) で書いたように、早い時期からオーケストラにクラリネットが加わっています。

譜例1:ヨハン・シュターミッツ、シンフォニーアニ長調第1楽章

譜例1:ヨハン・シュターミッツ、シンフォニーア ニ長調 第1楽章

彼らはシンフォニーア(初期の交響曲。(15) 交響曲の成長期など、交響曲の誕生シリーズ参照)で、いわゆるマンハイム・クレッシェンドを使いました。中・低音楽器が持続音で支える上で、急激に音量を増やしながら旋律線が上昇し、フォルティッシモに達します(譜例1参照。ここでは楽器数を増やしながらクレッシェンドしています)1

「交響曲」は協奏曲や独唱などと異なり、ソリストたちの妙技を楽しめません。いわば伴奏だけの音楽。観客をいかにして惹きつけるかが、作曲家の腕の見せ所です。マンハイム・クレッシェンドは実に単純な「しかけ」ですが、聴いていてわくわく、次はいつかとドキドキ、始まるとキター!

このような強弱法は、マンハイム宮廷歌劇場の中心演目であったヨンメッリ(1714〜74)などのイタリア・オペラの序曲に前例があり、彼らのオリジナルではありません。でも、規模が大きく名手の多いマンハイム宮廷楽団が演奏することで、より表情豊かで劇的な効果が生まれたのです。「クレッシェンドのダイナミックな力に我を忘れた聴衆は、次第に席から立ち上がった。ディミヌエンドは彼らの呼吸を奪わんばかりであった」そうです2

譜例1のシンフォニーアを聴いてみましょう。フォルテの和音連打で始まり、すぐに譜例1のクレッシェンド主題(ソナタ形式が整う前なので、第1主題とは呼ばないことにします)が続きます。フォルテの和音の後ですから、ピアノから始まるクレッシェンドがいっそう引き立ちます。これと対照的な優雅な新主題は、属調のイ長調(0:53)。クレッシェンド主題は、属調(1:18)と主調(2:30)で、計3回登場。音楽的なまとまりを感じさせる役目も果たしています。

  1. 動画のように、op. 3, no. 2 と呼ばれることが多いようですが、これは再版(1757年)の作品番号。初版(同じ1757年)は op. 2 です。
  2. 石多正男『交響曲の生涯』、東京書籍、2006、133ページ(著者名や資料名無しの引用)。
04. 10月 2012 · (101) メヌエットからスケルツォへ はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

新デザインでの1回目。図1のイラストは、交響曲の中の楽章の1つ。さて、何楽章でしょう?

図1:工場で生産される交響曲(部分)Dyries & Lemery, The Story of Music in Cartoon より

左側は2人ずつ手をつないで踊っています。右半分では1人ずつジャンプしたり、ぶつかったりしています。真ん中には「危険! 飛び跳ねる冗談好きに注意!」と書かれた青い看板。そう、メヌエットからスケルツォに変わった第3楽章ですね1。この枠の外には「ベートーヴェンがメヌエットを、飛び跳ねるリズムのスケルツォ(冗談という意味)に取り替えた」という補足もあります。(81) 交響曲の中の冗談で《田園》や《新世界》を例に説明したように、拍がずれたりいびつだったり、イレギュラーな予期しない動きが含まれるスケルツォをうまく表していますね。

みんな同じ青い制服制帽なのは、彼らが工場労働者だから。男女1組のはずのメヌエットを男同士で踊っているのも、同じ理由です。ここは、交響曲を生産する工場の3つ目の作業場。18世紀において「交響曲」(=初期の交響曲=シンフォニーア)は、同じような型でたくさん作曲され(かつ、ほぼ使い捨てのように消費され)ていました(交響曲の誕生シリーズ参照)。

(16)「交響曲」は開幕ベルで既にふれたように、ラルー編纂の『18世紀交響曲主題目録』によると、1720年から1810年ころまでの演奏会に現われた「交響曲」は16,558曲! これは、楽譜が現存する、あるいは曲の開始部主題が確認できたものだけの数です2。そのように大量生産されていた「交響曲」が、ベートーヴェン以降、1曲ずつ全身全霊をこめて作られる記念碑的なジャンルに変わるのです。

メヌエットがスケルツォに替わって変化したのは、テンポだけではありません。より多くの人がコンサート会場に足を運んでくれるように、また、より多くの聴衆が交響曲を楽しめるようにと加えられた、当時流行のダンス音楽メヌエット((87) 流行音楽メヌエット参照)。一方スケルツォは、(形はメヌエットと同じですが)ダンスのための実用音楽ではなく、純粋な音楽ジャンル。つまり、ベートーヴェンによって交響曲は、芸術的な要素だけで構成されるものになったのです。

ただ、彼が第3楽章の曲種を替えたのは、おそらく社会の変化の反映です。18世紀末になると、メヌエットの人気が衰退してしまったのです。ハイドンやモーツァルトの時代には最も人気が高い舞曲だったメヌエットですが、ベートーヴェンが交響曲を書き始める1790年代半ばには流行遅れに3

それでは、メヌエットに代わって1790年代に人気になった、同じ3拍子の舞曲は何でしょう? ヒント:男女が抱き合うように組んで踊るので、不道徳だと禁止された時期もありました。そうです、答えはワルツ。「会議は踊る、されど進まず」のウィーン会議は、1814年でしたね。

  1. Dyries & Lemery The Story of Music in Cartoon: From Pre-History to Present(漫画による音楽の話:有史以前から現在まで), trans. by Sadler, Macdonald & Co, 1983, p. 54. 漫画と言っても風刺漫画のタイプ、日本人がイメージする漫画とはかなり違います。RyISKWさんの情報に感謝いたします。
  2. 『ベートーヴェン事典』、東京書籍、1999、22ページ。
  3. 石多正男『交響曲の生涯』、東京書籍、2006、229ページ。
27. 6月 2012 · (87) 流行音楽メヌエット はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , ,

フランス起源の3拍子の舞曲メヌエット。17世紀半ばから18世紀末にかけて、フランス宮廷を中心に、貴族階級のダンス音楽として広く普及します。おだやかなテンポによるエレガントな踊りは典型的な宮廷舞曲で、市民層にも非常に人気がありました。

このメヌエット、18世紀初め以降、特にイタリア人作曲家たちによって、誕生間もない「交響曲」(シンフォニーア)に使われることがありました。(18)「赤ちゃん交響曲」誕生までに書いたように、シンフォニーアは 急―緩―急 の3楽章構成。その終楽章が、メヌエットの様式で作られたのです。しかし、1740年代になるとドイツ語圏では、緩徐楽章とフィナーレの間に第3楽章としてメヌエットが加えられ、4楽章構成の交響曲が主流になりました。急―緩―急 から 急―緩―やや急(メヌエット)―急 に変化したのです。

ドイツやオーストリアで、交響曲の中にメヌエットが定着したのはなぜでしょうか。それは、当時この地域でメヌエットが流行していたからです。要するに、聴衆サービス。18世紀の人々にとって「交響曲」は、コンサートで妙技を楽しむことができる独奏者をもたない、伴奏者だけで演奏する、おもしろみの少ない音楽でした。そこで、最も人気が高いダンスの音楽を取り入れて、聴衆が楽しめるようにしたのです。交響曲の途中で流れるメヌエットの舞曲を聴いて、人々は、自分が踊っているような気持ちを味わったのでしょう。ただ、ドイツ語圏と限定しなければ、18世紀末になっても交響曲の主流は、メヌエット無しの3楽章構成でした。モーツァルトがパリで作曲したいわゆる《パリ》交響曲ハ長調(第31番、1778)が良い例です。

さて、モーツァルトとメヌエットと言えばやはり、交響曲からは離れますが、オペラ《ドン・ジョヴァンニ》(1787)ですね。次回の聖フィル定演で演奏する序曲ではなく、第1幕フィナーレの「3つのオーケストラの場」。観客たちが、自らメヌエットを踊って楽しむ気分を味わったはずの場面です。ドン・ジョヴァンニとは、イタリア語でドン・ファンのこと(ドン・ファンはスペイン語)。従者のレポレッロが《カタログの歌》(第1幕第5場)の中で、犠牲になった女性は「イタリアでは640、ドイツでは231、フランスで100、トルコで91、スペインではもう1003」人と数え上げる、稀代の女たらしです。

彼は今、自邸での大宴会で村娘ツェルリーナを誘惑中。「音楽、再開!」という合図とともに、たくさんの客が自分の身分にふさわしいダンスを踊ります。最初に始まる音楽がメヌエットで、踊るのは仮面をつけたドンナ・アンナとドン・オッターヴィオ(ト長調、3/4拍子)。ドンナとドンという敬称からわかるように、2人は貴族。メヌエットにふさわしい踊り手です。演奏するのは、下の動画では舞台奥に並ぶ、第1オーケストラ(オーボエ2、ホルン2、弦4部)。

次いで、舞台右側の第2オーケストラ(ヴァイオリン2部と低弦。1’10″くらいに見えます)が、中流のための舞曲コントルダンス(2/4拍子)を弾き始めます(1’02″くらいから)1。踊るのはドン・ジョヴァンニとツェルリーナ。さらに、舞台左側の第3オーケストラ(ヴァイオリン2部と低弦)が、3/8拍子の、農民のためのドイツ舞曲を演奏(1’30″くらいから)。レポレッロはツェルリーナの婚約者マゼットと、無理矢理いっしょに踊ります。

ドン・ジョヴァンニによって別室へ連れ込まれたツェルリーナの悲鳴(1’57″くらい)によって中断するまで、拍子が異なる3種類の舞曲が同時進行。それぞれの舞曲が、踊り手の社会階級を示す場面です。芸が細かいモーツァルトは、遅れて加わる第2、第3オケの調弦の音まで書き込んでいます(1’17″くらいから、第3オケのヴァイオリンが、開放弦の和音を何回か鳴らしています)。

  1. ベートーヴェンの《12のコントルダンス集》WoO 14 第7曲は、《プロメテウスの創造物》や《エロイカ》終楽章の主題のもとになった曲でしたね。

多くのクラシック音楽愛好家の方は、以下のように考えていることでしょう。

  1. 音楽と言えばドイツ(語圏)が本場
  2. 音楽と言えばピアノ曲やオーケストラ曲などの器楽
  3. 一番重要なジャンルは交響曲

でも、長い音楽の歴史の中でこれらが常識になったのは、ごく最近のことです。

交響曲が最重要ジャンルに落ち着いたのは、ベートーヴェン以降でした。このコラムで「交響曲の誕生シリーズ」をお読みくださった方は、既にご存知ですよね。交響曲の原型は17世紀末に生まれた((18)「赤ちゃん交響曲」誕生まで)ものの、しばらくはBGMのような存在でした((17) 聴かなくてもよかった交響曲)。「交響曲を聴きに演奏会に行く」ようになったのは18世紀末以降((19) 独り立ちする交響曲)、演奏会のトリに落ち着いたのは1830年代以降((22)《運命》交響曲の初演)。それからまだ200年足らずです。

音楽の本場と言えば、イタリアでした。バッハは、ヘンデルのように現地でイタリア音楽を吸収する機会がなかったので、ヴィヴァルディなどの協奏曲の楽譜を研究し、オルガンやチェンバロ用に編曲しながら、新鮮で刺激的なイタリア音楽の書法を学びました。また、モーツァルトがなかなか定職を得られなかった((10) 自由音楽家としてのモーツァルト)最大の理由は、彼がドイツ語圏の出身だったからです。楽長などの要職は、ほとんどイタリア人が占めていました(ウィーンの宮廷楽長はサリエリ)。

ベルリオーズやラヴェルが目指したのは「ローマ大賞」。フランスにおける若手芸術家の登竜門で、絵画、音楽など各部門の優勝者はローマに国費留学し、イタリア文化の中で数年間過ごすことができました(ちなみに、ベルリオーズは4度目の挑戦で大賞を射止め、留学しましたが、ラヴェルは計5回応募したものの、大賞を得られずに終わっています)1

器楽に高い地位が与えられるようになったのは、19世紀になってから2。独立したジャンルとして成立したのも遅く、バロック時代のことです。それまで何百年もの間、音楽と言えば声楽でした(もちろん、器楽が全く無かったわけではありませんが)。音楽の常識も、時代とともに変化してきたのです3

クラシック音楽好きの方が弾いたり聴いたりする音楽は、ほとんどがここ2、300年程の間に作られたものです。それ以前の音楽は、どのようなものだったのでしょうか。古い時代から現在まで、音楽において変わることなく受け継がれてきたものは何か、また私たちにとっての常識はいつ頃作られたのか、考えてみませんか。古い音楽を知ることによって、音楽の聴き方感じ方が、少し変わって来るかもしれません。

というわけで、「アマ・オケ奏者のための音楽史」シリーズ、始めます。奏者に限らず、クラシック音楽がお好きな皆様、どうぞお楽しみに。

  1. 既に《水の戯れ》などで新進作曲家の地位を固めつつあった1905年の応募(年齢制限のため、これが最後のチャンス)では、予選で落とされてしまったため、ジャーナリズムが追求する「ラヴェル事件」に発展。パリ音楽院院長が更迭される騒ぎになりました。
  2. 一部表現を変更しました。2012/7/12追記。
  3. 音楽といえばドイツの器楽をイメージするようになった理由はいろいろ考えられます。ベートーヴェンが音楽史上で転換点を作る大きな役割を担ったことと、彼に続いてドイツ語圏で優れた作曲家が輩出したことはもちろんですが、音楽を学問的に研究する音楽学が、ドイツ語圏を中心に発展したことや、日本の場合は明治期の西欧文化の導入が、軍事技術の模範であったドイツを中心に行われたことなども、あげられるように思います。

1808年12月22日、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で、ベートーヴェンのハ短調交響曲が初演されました。作曲者本人の企画による、彼の作品のみで構成された大演奏会です。1809年1月25日号の『一般音楽新聞』によると当日のプログラムは(かっこ内は補足):

第1部

  1. 田園交響曲第5番(第6番)、絵画というよりむしろ感情の表現
  2. アリア。独唱はキリツキー嬢(《ああ、裏切り者》op. 65)
  3. ラテン語の歌詞による讃歌(ミサ曲ハ長調 op. 86 からおそらくグローリア)
  4. ピアノ協奏曲(第4番)。ベートーヴェンによる独奏

第2部

  1. 大交響曲ハ短調第6番(第5番)
  2. ラテン語の歌詞による聖歌(ミサ曲ハ長調からおそらくサンクトゥス)
  3. ピアノ独奏のための幻想曲(ベートーヴェンによる即興演奏)
  4. ピアノ、管弦楽、最後に合唱が加わる幻想曲(《合唱幻想曲》 op. 80)

《運命》が第6番、《田園》が第5番と書かれているのは、単に演奏順序によるのかもしれません。12月22日とはずいぶん寒い時期ですが、クリスマス前はオペラや芝居の上演が禁止されていて、競合しないからです。ちなみにこの意欲的な演奏会は、大失敗に終わりました。先の新聞は「演奏に関しては、あらゆる点で不十分であった」と評しています。主な原因は練習不足1

ベートーヴェンは、交響曲で始まりその後に独唱や協奏曲、即興演奏が続く、伝統的なプログラム構成を踏襲しています。客席の照明を暗く、ステージを明るくして開幕を知らせることができなかったロウソクの時代に、「交響曲」シンフォニーアは、オペラやコンサートの開始を告げる曲でした。しかし《田園》と《運命》交響曲は、序曲の役目を果たすには、成長し過ぎました。この演奏会のメインとして新たに作曲された《合唱幻想曲》よりも、冒頭に置かれた2つの交響曲の方が、音楽的にはるかに複雑で重要な意味を持つのは明らかです。

ベートーヴェンの9作品により、交響曲は「作曲家が1曲ごとに、持てる力をすべて注ぎ込んで作る」「作曲家の力量を推し量る指標となる」ジャンルにまで高められました。このような変化を反映し、1830年代には「序曲→協奏曲(またはアリア)→交響曲」という、今日まで続くプログラム構成が珍しくなくなったと言います2。交響曲の歴史においてこの1808年12月のベートーヴェン演奏会のプログラムは、現代まで続く交響曲像が完成する直前の、18世紀的な概念と19世紀的な実像の矛盾を映し出す好例と言えるかもしれません。

  1. 最後の《合唱幻想曲》では途中で演奏がずれて、もう一度初めからやり直さなければなりませんでした。当時、オーケストラの総練習は1回というのが普通だったそうですが、この演奏会では曲目が多過ぎて、全部を通す時間さえなかったと言います。ベートーヴェンは、同じ日に他の劇場でハイドンの作品によるチャリティー・コンサートが行われ、優秀な演奏家を取られてしまったと書き残していますが、彼の革新的な書法は、仮に演奏家が優秀であったとしても難かしかったことでしょう。11/11/24 追記:(56) アドヴェントと音楽もご覧ください。
  2. 森泰彦「ベートーヴェン時代のウィーンの演奏会」『ベートーヴェン全集5』講談社、1998、105ページ。13/09/18 追記:少なくともフィルハーモニック協会定期演奏会の、20世紀初頭までのプログラムをたどる限り、このような構成はかなり稀のようです。(150)・(151) 参照のこと。
21. 3月 2011 · (19) 独り立ちする「交響曲」 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , , , ,

17世紀の末に、ウヴェルチュール(フランス風序曲)と対をなすような形でオペラの序曲として誕生した「交響曲」シンフォニーア。オペラやコンサートの開幕を告げる曲にすぎなかった「交響曲」が、ようやく演奏会のメイン・プログラムに昇格する時がやってまいりました。ドイツ人ヴァイオリニストにして目先の利く興行師、ヨハン・ペーター・ザロモン(1745〜1815)がロンドンで行った「ザロモン・コンサート」が、その転換点と考えられます。

ザロモンは、約30年間勤めたエステルハージ家の契約から自由になったハイドンをロンドンに迎え、1791年と翌年に、新作交響曲6曲(93〜98番)を含む彼の作品を中心に据えた、各12回の予約演奏会を開催します。1794年と翌年には、ハイドンの第2期ザロモン交響曲と呼ばれる99〜104番の初演を含む、21回の予約演奏会が行われました。

これらの演奏会は「二部にわかれ、第二部のはじめにハイドンの大序曲、すなわち交響曲が演奏された。この順序は、全部のザロモン演奏会を通じてつねに守られた。これは、遅刻者たちも席に着いて場内がすっかり落ち着いてから、心ゆくまで交響曲を聴かせようという配慮にもとづくものであった」1

メイン・プログラムの一部として真ん中に据えられたとは言え、交響曲は第2部の「序曲」。その後に、独唱や協奏曲が続きます2。しかし、ロンドンの聴衆がハイドンの交響曲を、コンサート最大の呼び物と考えていたのは、第1期最初のザロモン演奏会を報じる新聞記事からも明らかです。

ハイドンによる新しい大序曲(交響曲第96番)は、最大の喝采を浴び(中略)、聴衆は魅了され、満場の希望によって、第2楽章がアンコールされた。つぎに第3楽章をもう一度繰り返すよう熱心に求められた。(後略)3

イギリスでは、庶民も聴くことができる公開コンサートが17世紀末に一般化し、ロンドンはパリと並ぶ音楽の先進地でした。聴衆の耳も、肥えていたことでしょう。会場のハノーヴァー・スクエア・ルーム(1773年〜75年建設)は、800人以上を収容できました4。また、ザロモンが率いたオーケストラは総勢約40名と規模が大きく、表現力も優れていたと思われます。

もちろんハイドンも、聴衆が「ソリストのいない協奏曲」である交響曲を楽しめるように、コンサート・マスターのザロモンを始め、管楽器奏者の独奏をあちこちに織り込んだり、突然の転調やゲネラル・パウゼ、予想を裏切る強弱変化など、ウィットに富む音楽作りを心がけています5。「交響曲を聴きに音楽会へ行く」という発想の大転換は、このような様々な条件が整って初めて可能になったのです。

余談ですが、先の新聞評が示す当時の演奏習慣についても述べておきます。現代の演奏会では、アンコール用の小曲を別に用意するのが慣例ですが、実は、「もう一度」というアンコール(仏語)の語源が示すように、聴衆が気に入ったプログラムの一部を、再び演奏するのが本来の形でした。

ちなみに、聴衆は音楽が気に入ると、曲が終わらなくても拍手することもありました。モーツァルトは父レオポルトに宛てて、《パリ》交響曲初演の際、第1楽章の途中に聴衆のために用意した「しかけ」が、拍手喝采を浴びたと書いています(この「しかけ」がどの部分を指すのかは不明)。後にメンデルスゾーンは、楽章が終わるたびに起こる拍手を嫌って、全楽章が連続して演奏されるヴァイオリン協奏曲やピアノ協奏曲を書きましたが、たしかにロマン派の協奏曲の多くは、第1楽章が終わると拍手したくなりますよね。この、楽章間に拍手する習慣は、20世紀になっても残っていたそうです。

  1. 大宮真琴『ハイドン新版』音楽之友社、1981、125ページ。たとえば、聖フィルが第1回定期演奏会で取り上げた、ハイドンの交響曲第100番《軍隊》の初演時のプログラム(1794年第8回ザロモン予約演奏会。3月31日午後8:00開演、ハノーヴァー・スクエア・ルーム)は、以下のとおりでした。

    第1部
    1. 交響曲(プレイエル、1757〜1831)
    2. 男声歌手のアリア
    3. 弦楽四重奏曲(ハイドン)
    4. 女声歌手の独唱
    5. ハープ協奏曲

    第2部
    1. 交響曲《軍隊》(ハイドン)
    2. 男声歌手の独唱
    3. ヴァイオリン協奏曲(ヴィオッティ、1755〜1824)
    4. 女声歌手の独唱

  2. この第1部と第2部を交響曲で始める形は、ベートーヴェンが《運命》交響曲を初演する際も引き継がれます。これについては、また改めて書きます。
  3. 1791年3月12日付けダイアリー紙。大宮、前掲書、126ページ。
  4. 石多正男『交響曲の生涯』東京書籍、2006年、86ページ。
  5. 実はこの「ソリストのいない協奏曲」(独奏楽器群なしの、伴奏楽器群だけによる協奏曲という意味で「リピエノ・コンチェルト」と呼びます)も、交響曲成立への重要な源の1つです。
13. 3月 2011 · (18) 「赤ちゃん交響曲」誕生まで はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , , , , ,

フランス語で「あけるもの」という意味のウヴェルチュール。実は単なる「幕開けに演奏される器楽曲」というだけに留まらない、しっかりと形が定まった音楽形式で、日本語では『フランス風序曲』と呼ばれます。ルイ14世に仕えたジャン・バティスト・リュリ(1632〜87)が、「赤ちゃん交響曲」が生まれる前の1650年代から、宮廷バレエやオペラの序曲として作曲し始めました1

ウヴェルチュールの形式は:

  • 緩—急—緩の三部分から成る。
  • 三部分が途切れることなく、連続している。
  • すべての部分が同じ調で書かれる。
  • 最初の遅い部分は2拍子系で、付点のリズムを使う。
  • 早い部分は対位法を使う。まず1声部が演奏を始め、他の声部が1つずつ、同じような旋律を演奏しながら加わって行く。
  • 冒頭と同じ(または似た)付点リズムの音楽で締めくる。この部分は省略可。

フランス国外でも流行し、ヘンデルは自作のイタリア・オペラの序曲に使いましたし2、G線上のアリアなどが含まれるバッハの《管弦楽組曲》の本名(=バッハが書いたタイトル)も、ウヴェルチュールです。オペラの序曲から離れて、「ウヴェルチュールで始まる組曲」という意味も持つようになったのです。

ウヴェルチュールに遅れること数十年、ようやく「赤ちゃん交響曲」シンフォニーアが誕生します。シンフォニーアは、古代ギリシア語の syn(共に)- phonia(響き)に由来する言葉で、複数の音が同時に鳴り響く楽曲に広く(古い時代には声楽曲にも!)使われていました。しかし、ナポリ派オペラの作曲家アレッサンドロ・スカルラッティ(1660〜1725)が、1680年代以降に作り始めた、ウヴェルチュールと異なる定型のオペラ序曲を指す用語になります(日本語では『イタリア風序曲』)。

シンフォニーアの形式は、ウヴェルチュールとは対照的です。

  • 急—緩—急の三部分から成る。
  • 三部分はそれぞれ独立している。
  • 最初と最後の部分は同じ調、真ん中はそれとは違う調が使われる。
  • 真ん中の部分は音量が小さく叙情的に作曲され、非常に短いこともある。
  • 対位法は使われず、旋律声部と伴奏声部の区別がはっきりしている。

ほーら、赤ちゃんでも、形の上では後の交響曲の特徴をしっかり備えていますね。これにハイドンがメヌエットを加えた4楽章構成を整え、ベートーヴェンがメヌエットをスケルツォに変えれば、私たちに馴染み深い交響曲の出来上がり!3

緩—急—緩のウヴェルチュールと急—緩—急のシンフォニーアは、しばらく仲良く?並存していたのですが、やがて正反対の運命を辿りました。シンフォニーアはオペラや演奏会の導入曲として作曲され続け、後に最重要の器楽ジャンルにまで上り詰めましたが、ウヴェルチュールは1750年頃までに廃れてしまいます。付点音符やら対位法やら、作曲上のお約束事が多くて窮屈だったことや、王侯貴族の世にはふさわしかった壮麗な雰囲気が、都市市民が音楽の担い手になった時代にそぐわなくなったなどの理由が考えられます。

でも、今回の聖フィル定演曲である、モーツァルトの交響曲39番の第1楽章。付点のリズムとともに荘重に始まる序奏部は、ウヴェルチュールのスタイルを模しています。速い下降・上行音階による合いの手や、不協和音や半音進行を活かしたハーモニーを織り込んで、モーツァルトは流行遅れの形式を、モダンに違和感なく再生していますね。

  1. このリュリさん、当時の指揮法であった、重い杖を床に打ち付けて拍子をとっているときに、誤って自分の足を打ち、そのけがが元で亡くなったという不名誉なエピソードで有名ですが、実は彼はイタリア人だったことを、ご存知ですか。もともと貴族のイタリア語会話の相手としてフランスに連れて来られたらしいのですが、いつの間にかバレエや楽器演奏の技術を身につけ、ルイ14世自身も太陽役などを踊った宮廷バレエ(太陽王のニックネームはここから来ている)を作曲したり、相手役を務めて王のお気に入りになり、やがて宮廷オペラの上演権を独占してしまいます。
  2. ゆっくりした付点のリズムで始まる《メサイア》の序曲も、ウヴェルチュールの形式です。でも、ウヴェルチュールとは書いていません。キリストの生涯を描いた神聖なオラトリオの序曲に、世俗曲の代表であるオペラの序曲の名前と書くのは、はばかられたようです。
  3. もちろん交響曲の成立には、シンフォニーア以外にも、様々な要素が複雑に影響しています。

交響曲を器楽の最重要ジャンルと捉えている方はもちろん、前回の聖フィル♥コラムで「交響曲』シンフォニーアが演奏会の開幕ベル代わりだったと知った方も、1780年代末に書かれたというこの記述には、いささかショックを受けることでしょう。

「コンサートは(中略)交響曲で始まる。これらは必要悪とみなされている(あなたはとにかく何かを演奏することで、コンサートを始めなければなりません)。そしてこれが演奏されている間、人々はおしゃべりしています」1

「交響曲」が聞こえて来ると、ロビーで談笑していた人々(当時からコンサートは、社交の場でした)は客席に向かい、着席する。しかし、「交響曲」が終わってメイン・プログラムが始まるまでは、おしゃべりしていてもかまわない……。

それでは、18世紀の人々はいったい何を聴くために、コンサートに出かけたのでしょうか。1783年3月23日に、モーツァルトがウィーンのブルク劇場で開いた演奏会を例に考えてみましょう。彼は同月29日付の手紙で、皇帝も臨席し、大成功に終わった自分の演奏会の全プログラムを、父レオポルトに報告しています(カッコ内は補足)。

  1. ハフナー交響曲(第35番)
  2. ランゲ夫人2の独唱。《イドメネーオ》よりアリア『もし私が父上を失い』
  3. モーツァルト独奏によるピアノ協奏曲(第13番)
  4. アダムベルガーの独唱。コンサート・アリア(《話したのは私ではない》)
  5. フィナールムジークよりコンチェルタンテ(《ポストホルン・セレナード》第3楽章)
  6. モーツァルト独奏によるピアノ協奏曲(第5番)
  7. タイバー嬢の独唱。《ルーチョ・シッラ》よりシェーナ『私は行く、私は急ぐ』
  8. モーツァルトのピアノ(即興)演奏。小フーガと変奏曲2曲–パイジェッロとグルックの主題による
  9. ランゲ夫人の独唱。レチタティーヴォとロンド(《お前は知らないのだ》)
  10. ハフナー交響曲の終楽章

現代のプログラム構成に慣れた者にとっては、まず演目の多さに驚かされます(10試合!?)。さらに、交響曲やら独唱やら協奏曲やら即興演奏やら、脈絡のない雑多な内容! 実は、観客の様々な好みに合うよういろいろなジャンルの音楽を盛り込むのが、演奏会の常識でした3。この例からも明らかなように、当時の人々が聴きたかったのはソロ。独唱や、協奏曲の独奏パートや即興独奏をする、ソリストたちの音楽でした。

ハフナー交響曲の初演も、ここでは「非日常」の始まりと終わりを告げる、音楽会の枠組みに過ぎませんでした4。このような価値の低い「交響曲」シンフォニーアの位置づけが変化したのは、ハイドンのいわゆるザロモン交響曲あたりからと考えられています。果たして「交響曲」のメイン・プログラム入りは成るか? 次回はようやく、シンフォニーアから聖フィル第4回定演の曲目に、話がつながりそうです。

  1. 「一般音楽新聞」1800年10月22日号。森泰彦「ヴィーンの森の演奏会」『モーツァルト全集6』小学館、1991、74ページ。日本語訳は石多正男『交響曲の生涯』東京書籍、2006年、221ページより。
  2. 旧姓アロイージア・ヴェーバー、モーツァルトの初恋の相手。
  3. 1つのジャンルの作品だけで演奏会を開いたのは、今年、生誕200年を迎えるリストが最初だと言われています。彼はピアノ・ヴィルトゥオーゾとして絶大な人気を誇っていたので、ピアノ曲だけのリサイタルが可能だったのです。
  4. この音楽会では、ハフナー交響曲の冒頭3楽章の後にメイン・プログラムが置かれ、最後に残りの終楽章が演奏されたというのが定説です。しかし手紙には、最後がハフナー終楽章とは明記されているものの、1曲目はハフナー交響曲としか書かれていません。したがって、冒頭に全楽章が演奏され、しめくくりに終楽章だけがもう一度演奏された可能性もあるのだそうです。海老沢敏『交響曲:華麗なる祝祭の響き』モーツァルト全集第1巻、小学館、1990。

プロでもアマでもオーケストラ演奏会と言えば、1曲目に短い曲、2曲目にやや長い曲、休憩をはさんでメインの交響曲という構成が定番ですよね。最後の交響曲は最も長く、エスブリッコさんが前回のコラム「交響曲の成長期」コメントに書かれたように、緩徐楽章でついウトウトということも。でも、初期の交響曲(このコラムでは「交響曲」と表記)であるシンフォニーアは、このような現在のイメージから全くかけ離れたものだったのです。

18世紀における交響曲=シンフォニーアは、序曲でした。序曲と聞くとオペラの序曲が頭に浮かびますが、オペラ以外にも教会の礼拝音楽や演奏会の開幕を告げるために、シンフォニーアが演奏されました。シンフォニーアは、オペラや礼拝、演奏会など、普段の生活とは異なる「非日常」の世界の始まりを告げる役目を果たしていたのです。オペラや演奏会が始まりますよ、上司の小言や息子のぱっとしない成績など忘れて(!?)、英雄譚や三角関係のもつれにはらはらどきどきする、あるいは超絶技巧に目を見張る、そんな特別な時間を過ごしましょう!というわけです1

モーツァルトがオペラ序曲を交響曲に転用したのは、この2つが共通の役割を持っていたからですね。また、演奏会の最後にもシンフォニーアが演奏されることがありましたが、それは現在のようなメインの曲ではなく、「非日常」の時間が過ぎ去り、日常生活が戻ってくることを告げるものでした。

1720〜1810年に16,558曲ものシンフォニーアがあったのは、オペラや礼拝や演奏会の開始音楽が、それだけたくさん必要だったからです。同じ「交響曲」を何度も使えませんでしたから。開幕ベル代わりですから、1曲30分なんてとんでもない! 1曲10分程度2。CD1枚に6曲でぴったりです。

しかも、その10分程の「交響曲」、極めるどころか別に聴かなくてもよかったらしいですよ…。この続きは次回のコラムをお楽しみに。

  1. 前回第3回定期で《オーリドのイフィジェニー》序曲を取り上げたグルックは、オペラ改革者としてヴァーグナーに高く評価されました。その主唱のひとつが、序曲において、オペラ本体で使われる音楽や雰囲気を先取りするというオペラ序曲の改革です。この手法は、現代の私たちには当然のことですが、「非日常」の始まりを告げるだけの序曲なら、オペラ本体と音楽的に関連付ける必要はありませんでした。
  2. 前回のコラムで紹介したJ. C. バッハのシンフォニーア 18-4、遅めの演奏で10分37秒かかっていますが、これは1楽章ではなく3楽章全体の時間です。

前回のコラム「(14) モーツァルトが作った交響曲はいくつ?」に対してエスプリッコさんからいただいたコメントを読んで、もう少し古典派交響曲が成立するまでの「交響曲」について書きたくなりました。以前、聖フィル・ミニ・レクチャーでも触れたことがありますが、1720〜1810年の間に演奏会に現れた交響曲は、16,558曲にのぼるそうです1。小数点ではありませんよ。一万六千五百五十八曲! これは、全曲または冒頭が記録に残っているものの合計ですから、失われてしまったものを加えると、膨大な数になるはずです。

シンフォニーアというのは、イタリア語でシンフォニーのことです。たとえばベートーヴェンは、交響曲第3番を『シンフォニーア・エロイカ』と記しました(シンフォニーアは女性名詞ですので、後の形容詞も「エロイコ」ではなく「エロイカ」と女性形に変化しています)。ただ、音楽史でシンフォニーアというと、交響曲というジャンルの最も大切な源、およびそこから成長して行く、成熟する前の交響曲を指すのが一般的です2

この16,558曲以上の中で一般に知られているものは、ベートーヴェンの数曲(正確には6番まで)と、モーツァルトの約50曲、ヨーゼフ・ハイドンの約100曲くらいでしょうか。私は、モーツァルトが影響を受けたヨハン・クリスティアン・バッハ((11) 旅によって成長したモーツァルト参照)のシンフォニーアCDを3枚、その兄カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714〜88)のシンフォニーア集を1枚と、サンマルティーニ(1700/01〜75)とヨハン・シュターミツ(1717〜57)のシンフォニーア数曲ずつの音源を持っていますが、これ全部で30数曲3。ハイドンやモーツァルトを加えても、16,558曲の2%にも満たないのです。本当にものすごい数!

これほどたくさんのシンフォニーアや交響曲が作られた理由については、次回のコラムをお楽しみに。ちなみに、ハイドンが最後に作った交響曲は104番ですが、総数は106です。

  1. ラルー編纂『18世紀交響曲主題目録』の収録数。平野昭『ベートーヴェン事典』東京書籍、1999、22ページ。石多正男は「12,350曲以上のシンフォニーアや交響曲があった」と書いています(『交響曲の生涯』東京書籍、2006、302ページ)が、出典が不明であるため、上記の数に訂正しました。
  2. エスプリッコさんが挙げていたヨハン・メルヒオール・モルター(1696〜1765)の「交響曲」も、もちろんこのシンフォニーアですね。
  3. この中の、J. C. バッハのシンフォニーア op. 18−4は、ここから試聴出来ます。ジンマン指揮のCDより、テンポが遅めです。