30. 11月 2016 · (297) 対向配置を変えたのは誰?  はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

ロンドン生まれの指揮者、レオポルド・ストコフスキー(1882〜1977)。「全てのヴァイオリンを同じ側に置く彼の新手法は、今でも標準的な慣習である」と、イギリスの音楽事典にも書かれています1。彼は「伝統的なオーケストラ配置(対向配置)はもはや現代の要求を満たさないと、かなり早い時点で」判断。アメリカのフィラデルフィア管弦楽団で、実験的な試みを行いました2

セカンド・ヴァイオリン(以下、ファースト、セカンドはヴァイオリンを指す)をファーストの隣、ヴィオラを中央、チェロを右側にする配置は「ストコフスキー・シフト」と呼ばれ、アメリカのほとんどのオーケストラのスタンダードになりました。しかしながら、この新しい配置にしたのはストコフスキーが最初ではありません。彼がフィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者になったのは1912年ですが、この配置を含む様々な実験を行うのは、1920年代後半以降3。それまでは、(296) 英語でなんというのか?の図3のように、右側にセカンドを置く伝統的な対向配置を使っていました。

ストコフスキーより早い時期にファーストの隣にセカンドを置く配置を始めていたのは、同じロンドン生まれの指揮者ヘンリー・ウッド(1869〜1944)4。同世代のトスカニーニやメンゲルベルクらの陰に隠れた感がありますが、ロンドンの夏の名物「プロムス」の指揮を、第1回目(1895年)から務めた指揮者です。現在もプロムス期間中、彼の胸像がオルガン前に置かれるのが慣例になっています(昨年夏、初めてプロムスを体験をし、巨大なロイヤル・アルバート・ホールでその胸像を遠くから拝んできました)。

ヘンリー・ウッドは長く続いていた対向配置の慣例を破って、左側に全ヴァイオリンを並べました。この目新しい配置に「時に、作曲家によって意図された交互に歌い交わすような効果を破壊する」と反対する指揮者も 3。しかしヘンリー・ウッドはこの配置により、「より良いアンサンブルが保証される。全ての(ヴァイオリンの)f字孔が客席に向いているので、音量と音質が改良される」と述べています6

ヘンリー・ウッドは1911年に、ロンドン・フィルハーモニック協会オーケストラを、このヴァイオリン配置で指揮しました。図1は1920年にニュー・クイーンズ・ホール・オーケストラを指揮した際の写真です7。左からファースト、セカンド、ヴィオラ、チェロと並び、ヴィオラの後ろあたりにコントラバスが陣取っています。

この配置は次第に広がり、1925年にはクーセヴィツキーがボストン交響楽団で同様の配置を採用しました。ただ、ヘンリー・ウッドがこの配置を、ストコフスキーがフィラデルフィア管弦楽団で試したより早い時期に始めたのは確かですが、最初に始めたかは断言できません。彼はヨーロッパや北アメリカのオーケストラを度々客演しており、誰か他の指揮者のアイディアから着想を得た可能性もあります((298) ストコフスキーの楽器配置に続く)。

図1:ニュー・クイーンズ・オーケストラを指揮するサー・ヘンリー・ウッド(1920)

図1:ニュー・クイーンズ・オーケストラを指揮するサー・ヘンリー・ウッド(1920)

  1. Bowen, Jose, ‘Stokowski, Leopold,’ New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 24. Macmillan, 2001, p. 426.
  2. Koury, Daniel J., Orchestral Performance Practices in the Nineteenth Century. Univ. of Rochester Press, 1988, p.309.
  3. Ibid.
  4. Ibid., p.302.
  5. Ibid.
  6. Ibid., p. 303.「all the S holes」は「f」の誤りでしょう。
  7. Marks, Peter, “Divided violins: Sir Adrian would be pleased,” http://musicdirektor-smallgestures.blogspot.jp.
27. 7月 2016 · (286) イギリスの作曲家エルガー はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: ,

中学生のとき、音楽の授業でブリテンの《青少年のための管弦楽入門ーーパーセルの主題による変奏曲とフーガ》を鑑賞しました。音楽の先生が「イギリスや日本のような島国には、なぜか有名な作曲家が生まれない」と言ったのが忘れられません。「バロック時代のパーセルの後、20世紀のブリテンまで空いてしまう」と。

クラシック音楽の歴史が浅い日本をイギリスといっしょにしたら、イギリスの人が怒りますよね。それはともかく、イギリス音楽史に空白期間があるのは確か。早くから公開演奏会が行われ、音楽の消費という面では常に先進地であったイギリス(ロンドン)だけに、自国の作曲家に恵まれなかった事実は重く感じられます。

ルネサンス時代は、イギリス音楽史の黄金期。大陸に大きな影響を与えたジョン・ダンスタブル(c.1390〜1453)をはじめ、ジョン・タヴァナー(c.1490〜1545)、トマス・タリス(c.1505〜85)、ウィリアム・バード(1543〜1623)、トマス・モーリー(1557〜1602)、オーランド・ギボンズ(1583〜1625)らが多くの声楽曲、ジョン・ダウランド(1563〜1626)がリュート音楽を作りました(すみません、16世紀が専門なのでつい大勢並べてしまいました)。17世紀にはヘンリー・パーセル(c.1659〜95)が、優れた劇作品を残しています。しかし、パーセルの死後18世紀から19世紀末まで、芸術音楽の分野におけるイギリス人作曲家の空白期間に1

この期間にイギリスで活躍した作曲家はたくさんいます。イギリスに帰化し、音楽事典に「イギリスの作曲家」とも書かれるバロック時代のヘンデル((188) イギリスの作曲家ヘンデル?参照)、ロンドンでのザロモン・コンサートで交響曲の在り方を変えた古典派のハイドン((19) 独り立ちする「交響曲」参照)、自国よりも先にイギリスで名を上げ作曲家の地位を確立したロマン派のドヴォルジャーク((209) ドヴォルジャークとイギリス参照)など。ただ、彼らはイギリス生まれではありません。

イギリス(人作曲家による)音楽史は、エドワード・エルガー(1857〜1934。次回聖フィル定演で《チェロ協奏曲》を取り上げます)の登場でようやく再開します。そして、彼によって活気づけられたように、イギリスに続々と作曲家が誕生。フレデリック・ディーリアス(1862〜1934)、ヴォーン・ウィリアムズ(1872〜1958)、グスタフ・ホルスト(1874〜1934)、ウィリアム・ウォルトン(1902〜83)、そしてベンジャミン・ブリテン(1913〜76)。パーセルからエルガーまでの空白が嘘のよう。豪華なラインナップですね。

  1. アーサー・サリヴァン(1842〜1900)が台本作家ウィリアム・ギルバートと組んで作っていたコミック・オペラは、オラトリオやフランス風のグランド・オペラよりも下位のジャンルとみなされていました。
27. 1月 2016 · (269) 庶民はいつからコンサートを聴けるようになったか はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: ,

前回 (268) マンドリンの調弦は?の中で、「コンセール・スピリテュエル」にふれました。かなり前に言及したことがありますが((11) 旅によって成長したモーツァルトなど)、コンセール・スピリテュエルは18世紀パリの公開演奏会シリーズ。1778年にモーツァルトは、コンセール・スピリテュエルの支配人から交響曲を依頼され、ニ長調 K.297(300a)のいわゆる《パリ交響曲》を作っています。

音楽会はもともと、非公開でした。王や貴族が、雇った楽士たちに自分の館で演奏させて聴くものだったからです。聴くことができるのは、本人や客人などごく限られた者だけ。でも、ブルジョワジーが市民革命で貴族主体の体制を打破すると、音楽の担い手も王侯貴族から一般市民へ。誰にでも開かれた(=チケットを購入すれば誰でも聴くことができる)公開演奏会が登場します。

音楽史上初の公開演奏会が行われた記録が残るのは、ロンドン。1672年ですから、バッハが生まれる13年も前! こんな早くから一般庶民が聴ける公開演奏会が催されていたなんて、驚きです。ただし、ロンドンだけ。パリもロンドンと並ぶ音楽(消費)の先進地でしたが、上記コンセール・スピリテュエルが始まったのは、半世紀以上も後の1725年。

「ロンドン・ガゼット」誌に、ジョン・バニスター(1630〜79)が自宅で催す一連の公開演奏会の広告が掲載されたのは、1672年12月でした。会場は「居酒屋風にいすと小さなテーブルで囲まれていて」見た目はぱっとしないけれど、1シリングで好きな曲をリクエストできる気楽な雰囲気1。しかし、上手なプロ奏者を雇うことで多くの客を集めるようになり、次第に大きな会場に移ります。奏者は50人にもなり、規模の大きな演劇的な作品も扱うことができました2

ロンドンで早い時期に公開演奏会が始まったのは、なんと政治的な理由。イギリスでは1640年代から1730年代まで政権が安定しなかったため、劇場以外の音楽独占権を遵守させることができなかったのです。ピューリタン革命でそれまでの宮廷と教会の音楽が崩壊し、1660年の王政復古後にはフランス音楽が好まれるなど、音楽家がおかれた状況も混乱3

ジョン・バニスターは、宮廷ヴァイオリン奏者24人のトップとして活動した時期もありますが、1666年か翌年、フランス人音楽家の任命に関して無礼な発言をしたと、王に解雇されました。音楽会の興行という新しいプロジェクトに向かったのは、収入が得るためだったのでしょう。いずれにせよ、私たち庶民が音楽を楽しむ機会をこんなに早く作ってくれてありがとう!ですね4

  1. McVeigh, Simon, ‘London,’ V, 2, New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 15. Macmillan, 2001, p. 120.
  2. Holman, Peter, ‘Banister (2), John Banister (i),’ New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 2. Macmillan, 2001, p. 659.
  3. Weber, William, ‘Concert,’ New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 6. Macmillan, 2001, p. 223.
  4. サミュエル・ピープスは日記に、バニスターが1660年にすでにコンサートを行っていたと書いていますが、広告が存在するのは1672年12月以降です。Holman、前掲書。
25. 11月 2015 · (261) 続・オーケストラの楽器配置(ロンドン、1840) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

前回に引き続き、19世紀前半のロンドンのオーケストラ配置について。ベルギー出身の音楽評論家フェティス(François-Joseph Fétis, 1784〜1871)は、1829年にロンドンのフィルハーモニー協会オーケストラを聴き、パリのオーケストラ(パリ音楽院演奏協会や、コンセール・スピリテュエルなど)と異なる点を指摘しています1

    1. ひな壇が急。他の人たちのほとんど頭の上の位置で演奏する者も
    2. 指揮者が奏者ではなく聴衆のほうを向いている
    3. 全てのコントラバス奏者が最前列にいる。ただし、演奏する位置は他の楽器奏者よりも低い

1の高低差についてフェティスは、「自分の上や下で行われていることが、奏者にほとんど聴こえない」と批判。でも、3の「フランスの音楽家たちがきっとすごく驚く」であろうコントラバス配置は、「音響学の原理に反する」にもかかわらず、「思ったほど不快ではない」と認めています。理由は1と関連していて、おそらく後ろのヴァイオリン奏者たちがコントラバス奏者よりずっと高い位置で弾いているために、彼らの音がコントラバスの音に妨げられないからと分析しています。

コントラバス最前列の理由は、演奏の拠り所となる低音を目立たせるためでした2。指揮棒の普及とともに、良いアンサンブルを保つための低音重視の慣習は廃れていきます。コントラバスがステージ最前列を占めることもなくなり、前回 (260) 図1でご紹介したように、左右後方2か所に配置されることに。ただ、位置は完全には定まっていなかったようです。下の1843年のロンドンのオーケストラ((260) 図2を再掲)では、左端最前列に2台のコントラバスが見えます。

このオーケストラのイラスト、興味深いですね。歌い手がいなくても、指揮者は舞台の中央に位置していて、前にかなりの数の楽器奏者がいます。(141) どこを向いていたのか? 指揮者のお仕事図2のルイ・ジュリアンも、中央で指揮していました。ここが指揮しやすかったのでしょうか? それとも、1番手前に立つと何人もの奏者が聴衆から見えなくなるから?

フェティスの報告のように、指揮者はこちら=聴衆のほうを向いていますね。長い指揮棒を振っているので、指揮者の後ろ側の奏者がタイミングを合わせることは可能かも。でも、指揮者の手前でこちらを向いて座っている奏者はどうするの? 背中で指揮者の気配を感じる? 指揮者の鼻息に合わせる? 慣れないと(慣れても?!?)かなり難しそうですね。

図2:ロンドンのオーケストラ、1843年

ロンドンのオーケストラ、1843年

  1. Koury, Daniel J., Orchestral Performance Practices in the Nineteenth Century. Univ. of Rochester Press, 1988, p. 211 (source: Fétis, François-Joseph, Curiosités historiques de la musique, complément nécessaire de la musique mise à la portée de tout le monde, Paris, Janet et Cotelle, 1830, 186-88).
  2. Ibid., op.cit.
18. 11月 2015 · (260) オーケストラの楽器配置(ロンドン、1840) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: ,

ずいぶん前になりますが、19世紀のオーケストラ配置をご紹介しました。メンデルスゾーンによるライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の配置((96) ライプツィヒ、1835)と、アブネックが創立したパリ音楽院演奏協会の配置((174) パリ、1828)。前者は「革命的」と称されながら、ヴィオラが大きく(!!)差別されていましたね。今回はロンドン。フィルハーモニー協会オーケストラの楽器配置です(図11)。1840年ですから上のライプツィヒの時代に近いのに、むしろパリの配置に似ています。

図1:ロンドン、フィルハーモニー協会オーケストラの楽器配置、1840年

図1:ロンドン、フィルハーモニー協会オーケストラの楽器配置、1840年

最前列はもちろん、歌の人たち(ソリストだけではなく合唱も含まれます。(89) どこで弾いていたのか参照)。次に指揮者。その左側にファースト、右側にセカンド・ヴァイオリン。指揮者の奥にはピアノが置かれ、その後ろにチェロとコントラバスのトップ。コントラバスは、両ヴァイオリンの後ろにも書かれていますが、チェロはこのトップだけ。今回はチェロが差別されている??

おそらく、コントラバスと一緒のあたりで弾いたのでしょう(あるいは、ファーストが5プルト、セカンドが4プルトなのにコントラバスが6プルト書かれていますから、チェロと「込み」かもしれません)。ヴィオラもないと思ったら、テノール=ヴィオラだそうです。左右の低弦楽器をつなぐように、1列に並んでいます(ヴィオラのトップは前に出ないのですね……)。

ヴィオラの後ろに木管楽器4種。音域が高い順番に左から、やはり1列(パリの配置と異なりますね)。金管は2手に分かれ、ホルンとトロンボーンが左、トランペットは右。中央にティンパニ。シンバルなどの打楽器はトランペットの後ろ。

奥のひな壇は、前の奏者たちの頭の位置くらいと、かなり高かったようです。図2は、図1と同じハノーヴァー・スクエア・ルームスでの、同じオーケストラによる(と考えられる)1843年の演奏会のイラスト2。金管楽器奏者たち(特に右側)は、それくらいの高さですね。左側にホルン、右側にトランペットやオフィクレイド((243) オフィクレイドってどんな音?参照)が見えます。でも、図1から3年しか経っていないのに、楽器配置が違うみたい……(続く)。

図2:ロンドンのオーケストラ、1843年

図2:ロンドンのオーケストラ、1843年

  1. Koury, Daniel J., Orchestral Performance Practices in the Nineteenth Century. Univ. of Rochester Press, 1988, p. 212 (source: Carse, Adam, The Orchestra from Beethoven to Berlioz. New York, Broude Bro., 1949, p. 478).
  2. Ibid., p. 213 (source: op. cit. p. 221).