13. 5月 2015 · (236) リサイタルは「暗唱会」だった! はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

コンサートとリサイタル、いずれも演奏会のことですが、使い分けられていますね オーケストラやブラス・バンドによる演奏会は、コンサート。一方、ピアノ・リサイタルとか、ソプラノ・リサイタルのように、ソリスト1人(と伴奏者)の演奏会は、リサイタルです。複数の独奏者が合同で演奏会を開く場合は、ジョイント・リサイタル。最近では、デュオ・リサイタルという言葉も聞きますね。それぞれが独奏を披露するジョイント・リサイタルに対し、連弾や2重唱のような複数の奏者が一緒に演奏する曲が含まれる場合に、デュオ・リサイタルという言葉を使うことが多いように思います(どのようなタイトルにするかは、最終的には演奏者や企画者の判断ですが)。

(67) ミステリアス、リストで書いたように、リサイタルという言葉を初めて使ったのはリスト。1840年にロンドンで、彼1人による演奏会を2回開いたときです。当時、リサイタルという語は、音楽とは関係無い意味で使われていました。なんと、リサイタル=「公の場で、詩を暗唱すること」だったのです。そう言われてみれば、recital は recite + al で「recite すること」という意味。その recite は re(再び)+ cite(引用する)で、「聴衆などに詩・引用などを暗唱すること」という意味。リサイタル=「暗唱会」!

1840年にリストが他の音楽家とともに開いた演奏会も「彼のピアノフォルテのリサイタルの1つ」と呼ばれています1。つまり、リサイタルという言葉は(私たちが思い浮かべるような独演会を示すためというよりもむしろ)、楽譜を見ずに「暗譜で演奏する」ことを意図して使われた可能性があるのです。

余談ですが、演奏会と暗唱で思い出したのが、モンゴメリの小説『赤毛のアン』に出て来る音楽会。収益で校旗をつくるために学校の生徒が催した音楽会(第24章)のプログラムは、合唱が6つと独唱1つに、対話 dialogue と暗唱 recitation と活人画 tableau2。病院を援助するために、「近辺のアマチュアで出演できるものを全部かりだし」て催されたホテルの音楽会(第33章)のプログラムは、教会の聖歌隊員による2重唱、ヴァイオリン独奏、スコットランド民謡独唱、それと暗唱 to recite3。どちらの音楽会 concert にも音楽無しの出し物がたくさん含まれています。20世紀初頭のカナダでは、音楽を広く捉えて(暗唱を歌唱と近いものと考えて)いたのでしょうか。それとも単純に演奏家が少なかったためでしょうか。

  1. Weber, William, The Great Transformation of Musical Taste. Cambridge University Press, 2008, p. 160.
  2. 以下、日本語はモンゴメリ『赤毛のアン』村岡花子訳、新潮社文庫、1954年、英語は L. M. Montgomery, Anne of Green Gables, Bantam Books, 1976, originally published by L. C. Page & Company, Inc., 1908.
  3. 前掲書、379ページ。「暗誦」と書かれています。
18. 2月 2015 · (225) 波瀾万丈ヴァーグナーの生涯:お尋ね者編 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , ,

リガでの借金を踏み倒し、パリにやって来たヴァーグナー((224) 夜逃げ編参照)。しかし、赤貧にあえぐ惨めな2年半(1839年9月〜42年4月)の後、この大都会での成功をあきらめ、《リエンツィ》上演が決まったザクセン王国の首都ドレスデンへ。大好評により、ベルリン初演の予定だった《さまよえるオランダ人》もドレスデンで初演されました(前作ほどの好評は得られず)。しかも、当地の宮廷歌劇場 第2指揮者のポストが空き、定職を手に入れます(43年2月)。29歳にしてはじめて生活が安定し、波瀾万丈を卒業。

彼の仕事は、オペラやオーケストラの指揮と、宮廷の特別な機会のための作曲。イギリスで亡くなったヴェーバーの遺骨が1844年12月15日にドレスデンに改葬された際、ヴェーバーの《オイリアンテ》の2つの動機による葬送曲(吹奏楽)や、《ヴェーバーの墓前に》という無伴奏男声合唱曲を作っています。宮廷家劇場では、グルックの《アルミーダ》や《オーリドのイフィジェニー》などを指揮。

さらに重要なのは、1846年の枝の主日(イースター前の日曜日)コンサートで、ベートーヴェンの交響曲第9番を取り上げたこと。《第九》は当時もまだ、近寄りがたい謎の作品とみなされていていました。当然、上層部は反対。でも、財政的にも芸術的にも大きな成功を収めることができました(ヴェーバー、グルック、ベートーヴェン、いずれもドイツ作曲界の重鎮たちですね)。相変わらず借金は多かったものの、《タンホイザー》や《ローエングリン》を完成。

彼を波瀾万丈な人生に引き戻したのは、1848年のパリ二月革命、ウィーン三月革命に影響された、ドレスデン蜂起(49年5月3日)でした。劇場改革や、国民劇場の計画(監督の選出、演劇学校の設立、宮廷楽団の充実、自主運営組織など)に関する提案が当局に却下され、不満が募っていたヴァーグナー1。ロシア人無政府主義者バクーニンに影響され、「あらゆる支配権をぶち壊す……権力を、法律の力を、私有財産を破壊する」というような物騒な檄文を書くのですが……2

図1:ヴァーグナーの人相書(1853)

図1:ヴァーグナーの人相書

国王軍の軍事力は圧倒的で、反乱はすぐに鎮圧。5月16日、首謀者の1人とみなされたヴァーグナーの逮捕状が出されます。「当時の宮廷楽長(ママ)リヒャルト・ヴァーグナーは、当市に起こった反乱に全面的に荷担したかどにより、取り調べを受けることになっているが、もっかのところ行方不明である……ヴァーグナーは37、8歳、中背、頭髪は茶色、眼鏡を着用」3。お尋ね者ヴァーグナーは、ヴァイマール宮廷楽長リストに匿われ、偽のパスポートでスイスに亡命。追放が完全に解除されたのは、1862年のことでした。

  1. Millington, Barry, ‘Wagner: (1) Richard Wagner,’ The New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 26, Macmillan, 2001, p. 934.
  2. 西原稔『クラシックでわかる世界史』アルテスパブリッシング、2007、247ページ。
  3. 前掲書、246ページ。
31. 12月 2014 · (218) チャイコフスキーとリスト はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

(203) チャイコフスキーの気持ち良さで、コントラバスを除く弦楽器全体に同じ旋律を弾かせ、3、4オクターヴのユニゾンで朗々と響かせるチャイコフスキーの書法について書いたとき、「こうした”オケ鳴らしのしかけ”はチャイコフスキーが音楽としては嫌悪してたリストのピアノ曲の書法を手本にしてたようです」(原文ママ、下線筆者)というコメントをいただきました。どうもありがとうございます。

たしかにリストのピアノ曲には、両手のオクターヴ・ユニゾンが使われますね。でも、それだけで両者を結びつけるわけにはいきません。「ようです」のような推定ではなく、誰がそう考えてどこに書いているかを特定し、その主張が正しいか検討すべきだからです(音楽学に限らず、ネット上に出所不明の情報があふれ、どんどん拡散しているのは恐ろしいことです)。

結論から言うと、これまで私が調べた英語と日本語の資料の中には、チャイコフスキーのオーケストレーションがリストのピアノ曲からの影響という記述は見つかりませんでした。むしろ、逆の印象です。リストのピアノ協奏曲第1番は、ソロ・パートがオクターヴ・ユニゾンで始まってオクターヴ・ユニゾンで終わるような曲。でもチャイコフスキーはこの曲(と第2番)をいつも、「華やかだが空虚」と感じていたらしく、1887年3月、散歩の途中この協奏曲の主題をハミングし始めた友人を咎めて「あの役者を思い出させないでくれ。彼のうそっぽさとわざとらしさには耐えられない」と言いました 1。両手のオクターヴ・ユニゾンがリストの専売特許というわけではありませんしね(今後も関連資料に注意していくつもりですが)。

チャイコフスキーとリストの関係について、3つあげておきます。第1は、チャイコフスキーのリスト観。嫌悪していたかどうかはわかりませんが、彼がリストを高く評価していなかったことはたしかです。リストの70歳記念ガラ・コンサート(オール・リスト・プログラム)に出席し、このように書いています。

熱狂したイタリア人たちの大喝采に心が動かされ乱されているこの偉大な老人の姿を見て、感動しないではいられませんでした。しかしながら、リストの作品自体には感激しませんでした。本当の創造的な力よりも詩的な意図、デッサンよりも色を塗ることが優位に立っています。手短に言うと、すべての効果的な包装にもかかわらず、リストの作品は中身の空虚さによって台無しになっているのです。シューマンとは正反対です(メック夫人への手紙、1881年12月、ローマ)2

一方で、リストの全てに否定的だったわけではありません。彼の宗教的オラトリオを高く評価。また、《死の舞踏》に写実的な描写を望む人々に対し、「深淵で繊細な芸術家」とリストを擁護しています3

第2はリストの影響について。交響詩を創設し、ロシアの作曲家たちにも大きな影響を与えたリスト。チャイコフスキーも例外ではありません。交響詩と名付けた作品は残さなかったものの、初期の交響的幻想曲《運命》(1868。友人にリストの交響詩風と批判され、初演後にスコアを破棄。死後、残されたパート譜から作品77として出版)、幻想序曲《ロメオとジュリエット》(初稿:1869)、幻想曲《フランチェスカ・ダ・リミニ》(1876)、《マンフレッド》交響曲(1885)、幻想序曲《ハムレット》(1888)など、ほぼ生涯にわたって標題音楽を書いています。

第3に、彼らの直接の交流について。チャイコフスキーは1874年に、リストのピアノ伴奏付き歌曲《トゥーレの王》をオーケストラ用に編曲。1880年にリストは、チャイコフスキーのオペラ《エフゲニー・オネーギン》第3幕のポロネーズを元に、華やかなピアノ用パラフレーズを作りました。2人が初めて会ったのは、1876年夏の第1回バイロイト音楽祭。リストは1886年に亡くなる前、サイン入りの写真をチャイコフスキーに送っています。

  1. Brown, David, Tchaikovsky Remembered, Faber & Faber, 1993, 66.
  2. 英訳は ‘Tchaikovsky Research: Franz Liszt’(http://wiki.tchaikovsky-research.net/wiki/Main_Page.
  3. 同上。
19. 3月 2014 · (177) オルガン付きの交響曲 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

第10回聖フィル定期演奏会のメインは、サン=サーンスの交響曲第3番《オルガン付き》。オルガン、どうするの?!と心配された方、どうぞご安心を。聖光学院はカトリック的精神にもとづく学校。ミサを行えるように、新講堂ラムネホールの客席右側上方にベネディクト・オルガンが設置されていているのです。

交響曲のオーケストラにオルガンを加えるという発想、いったいどこからきたのでしょう。サン=サーンスはリストに即興演奏を絶賛された、すご腕オルガニスト。パリのオルガニストの最高位ともいえるマドレーヌ教会の奏者を務めていました。でも、オルガニストを務めた作曲家は彼だけではありません。たとえばブルックナーも卓越したオルガニストでしたが、交響曲にオルガン・パートを入れることはありませんでした(交響曲自体がオルガン的な響きをしていますが)。

オルガン・パートが加わったオーケストラ作品として、リストの交響詩《フン族の戦い》(1857)があります。でも、楽譜を見ると、オルガンは曲の最後で40小節ほど使われる程度。演奏量、重要度、存在感、どれをとっても《オルガン付き》交響曲とは比較になりません。

サン=サーンスにとって「交響曲はある精神性を湛えた音楽でなければなら」ず、「ブルックナーがコラールを使ったように、サン=サーンスはパイプオルガンの音響を必要とした」という指摘も1。でも、3曲の番号付き、2曲の番号無し、そして未完の3曲の交響曲のなかでオルガンを使ったのは、最後に作られたこの3番だけ。精神性・宗教性の象徴であることは確かですが、オルガンを入れることを思いついたのは、初演会場にどのオルガンがあるかを知っていたからではないかというシンプルな推測の方が、説得力があるように思います2

作曲を委嘱したロンドンのフィルハーモニック協会は、1869年に、約800人収容のハノーヴァー・スクエア・ルームから、2,000人以上(!!)を収容できるセント・ジェイムズ・ホール(他に小ホールも2つ)に、本拠を移しました。サン=サーンス自身、1879年にこのホールのオルガンを演奏したことがあるそうです。図1は、セント・ジェイムズ・ホールのオープン時の合唱コンサート。舞台上に立派なパイプオルガン見えます。サン=サーンスの交響曲《オルガン付き》はここで、1886年5月19日に初演。作曲家自身が(オルガンではなく)指揮をし、大成功を収めました3

図1:セント・ジェイムズ・ホールのオープニング時の合唱コンサート、Illustrated London News、1958年4月10日

図1:セント・ジェイムズ・ホールのオープニング時の合唱コンサート、Illustrated London News、1958年4月10日

  1. 田村和紀夫『交響曲入門』講談社選書メチエ、2011、175ページ。
  2. 井上さつき『サン=サーンス:交響曲第3番ハ短調作品78、音楽之友社ミニチュアスコア、解説』、音楽之友社、2001、ivページ。
  3. 実は初演時には、彼も演奏したこのオルガンとは異なる新しいオルガンが設置されていて、サン=サーンスが意図した効果が半減した可能性もあるそうです。同上。
15. 1月 2014 · (168) 演奏会用序曲と交響詩 (2) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

交響詩を作ったのはスメタナ、ボロディン、シベリウスのような国民楽派、サン=サーンスやフランクなどフランスで活躍した作曲家たち、ドイツではリヒャルト・シュトラウス。音楽外の要素と結びついた標題音楽の1分野で、わかりやすいようにタイトル(表題)やプログラム(標題)が付く場合もあります。

1850年ころにこの新しいジャンルを創始したのは、リスト。でも、彼の交響詩のうち《プロメテウス》(1850、1855改訂)や《ハムレット》(1858)は、初め序曲として作曲されました。リストはこの2曲を演奏会用序曲と呼ぼうと、ほとんど決めるところだったそうです1。ですから交響詩は、演奏会用序曲の発展形と言えます。

それでは、演奏会用序曲と交響詩の音楽上の違いは何でしょう? 答えは、ソナタ形式を使うか否か。18世紀、モーツァルトが《フィガロの結婚》などの序曲を作るときに使ったソナタ形式を、19世紀のメンデルスゾーンも使いました。序曲《ヘブリディーズ諸島(フィンガルの洞窟)》では、スケッチに書き留めた((167) 演奏会用序曲と交響詩 (1) 参照)短調の寂しい感じの第1主題と、ふっと日が射したような長調の優しい感じの第2主題が提示され、展開部をはさんで再現されます。

ソナタ形式は型が決まっています((66) 再現部は「ただいま」の気持ちで参照)。この型の中でストーリーを表現するのは、かなり難しいですよね。メンデルスゾーンが序曲の中で描いたのは、海から高く厳しくそびえる洞窟の「雰囲気」でした。

一方、交響詩には型がありません。リヒャルト・シュトラウスは交響詩《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》(正確には交響詩ではなく「音詩」)の中で、14世紀に実在した人の、民間伝承されたエピソードを描きました。作曲者によると冒頭部は「むかしむかしあるところに」。続くホルンによるティルの主題は、「いたずら好きの道化がおりまして、その名をティル・オイレンシュピーゲルと申します」。クラリネットによる第2のティルの主題は、「それはとびきりのいたずら者でありました」という口上に相当2。その後も型に押し込められること無く、魔法の長靴で高飛びしたり、牧師に扮して説教を垂れたりするいたずらを音楽で様々に表現しています。

もちろん、ただストーリーを描写しているだけではありません。リヒャルト・シュトラウスは、再現部(的な部分)を入れたり、ティルの主題を変形しながら何度も使うことで、音楽に構築感や統一感を与えています。《レ・プレ》のように、単一楽章の中に多楽章構造を組み込んだ交響詩も少なくありませんでした(((75) 《レ・プレ》とソナタ形式参照))。

このように19世紀後半は、ソナタ形式の枠組みの中で、それを変形・応用しながら序曲を作った作曲家たちと、標題を描くために独創的な形を捜しながら交響詩を書いた作曲家たちが、併存した時代だったのです。

  1. Temperley, Nicholas, “Overture” New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 18. Macmillan, 2001, p. 826.
  2. マー、ノーマン・デル。オイレンブルク・スコア、リヒャルト・シュトラウス:交響詩《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》解説、杉山洋一訳、全音楽譜出版社、n.d.、ivページ。
08. 1月 2014 · (167) 演奏会用序曲と交響詩 (1) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , , ,

既にコラムで何度か取り上げた交響詩((74) ミステリアス、《レ・プレ》(43) シベリウスと《フィンランディア》)。詩が付いた交響曲ではないこと、みなさんご存知ですよね。それでは、演奏会用序曲って何でしょう? オペラの序曲のように、演奏会の幕開けに演奏される曲? もとは、イタリア風序曲シンフォニーアなどから成立した「交響曲」(赤ちゃん交響曲)が、演奏会の最初に演奏されていました((18)「赤ちゃん交響曲」誕生までなど参照)。が、それと演奏会用序曲は別物です。

演奏会の1曲目に演奏される序曲? 確かにオーケストラのコンサートでは、オープニングの短めの曲として序曲が演奏されることもあります(聖フィルでも、《フィガロの結婚》《エグモント》《オーリドのイフィジェニー》などの序曲を、1曲目に演奏してきました)。でも、オペラなどの序曲だけが演奏会で取り上げられても、それは(ただの)序曲。演奏会用序曲とは呼びません。

正解は、19世紀以降に単独楽章として作曲された、序曲という名称を持つ管弦楽曲。劇作品などの導入曲ではなく、序曲だけで独立した作品です。原型はベートーヴェンの、たとえば序曲《霊名祝日》(1814〜15)。最初のスケッチ(1809)には「あらゆる機会のための――あるいは演奏会のための序曲」と書かれていて、彼が単独の曲を意図していたことがわかります1。皇帝の霊名祝日の祝賀行事用として作曲が進められた時期があったためにこの名で呼ばれますが、結局、霊名祝日のプログラムからはずされました。最終的に、最初に考えたような「あらゆる機会のための序曲」になったと言えます。

ベートーヴェンの11の序曲の中で、オペラや演劇と無関係に成立したのはこれだけですが、音楽的に独立した序曲は他にもあります。《コリオラン》序曲(1807)は、ウィーン宮廷劇場で成功を収めていた、ハインリヒ・フォン・コリン作の舞台劇用序曲として作られました。コリンに献呈したものの、この序曲をつけた舞台上演の記録は残されていないそうです2。また、《献堂式》(1822)序曲は、劇場のこけら落とし公演の祝典劇用に作曲したもの。劇中音楽の多くは同様の機会のために作られた《アテネの廃墟》(1811)からの転用なので、新作の序曲は、独立した曲と言えなくもありません。

演奏会用序曲の原型がベートーヴェンなら、典型はメンデルスゾーン。たとえば《ヘブリディーズ諸島(フィンガルの洞窟)》(1830)は、オペラや演劇と関係の無い、序曲だけの音楽です。彼は、スコットランド旅行中ヘブリディーズ諸島に魅了され、「心に浮かんだものを書き留め」ました(譜例1)。序曲冒頭は、拍子以外ほぼスケッチそのまま。寄せては返す波のような、もの悲しい第1主題になっていますね。

譜例1:

譜例1:メンデルスゾーン《ヘブリディーズ諸島》のスケッチ前半、1829年8月7日

《静かな海と楽しい航海》(1830)はゲーテの同名の本からインスピレーションを得たもの。また、《夏の夜の夢(真夏の夜の夢)》の序曲(1826年)も、シェイクスピアの独語訳を読んだ17歳のメンデルスゾーンが、単独で作った演奏会用序曲でした(初めはピアノ連弾用。有名な結婚行進曲などの劇付随音楽を作曲したのは、16年後の1942年)。

以前から、オペラの序曲が本体と切り離されて、コンサート・ピースとして演奏されていました。ヘンデル、モーツァルト、ケルビーニらのオペラ本体が忘れられた後も、序曲は残りましたし、モーツァルトは《ドン・ジョヴァンニ》序曲の演奏会用エンディングを作っています。19世紀に演奏会用序曲というジャンルが成立するのは、ごく自然な流れだったのでしょう。

しかし、1850年代に交響詩が生まれると衰退に向かいます。前回ご紹介したショスタコーヴィチの《祝典序曲》は、20世紀に作られた(かなり稀な)例の1つ((166) おめでたい (!?) 音楽参照)。ソナタ形式による長過ぎない単一楽章の管絃楽曲という伝統が、受け継がれています。

  1. 大久保一「序曲《霊名祝日》ハ長調 Op. 115」『ベートーヴェン事典』東京書籍、1999、121。
  2. 平野昭「悲劇《コリオラン》序曲 Op. 62」前掲書、492。
04. 4月 2012 · (75) 《レ・プレ》とソナタ形式 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: ,

(74) ミステリアス、《レ・プレ》で書いたように、リストの交響詩《ラマルティーヌの『詩的瞑想』によるレ・プレリュード》には、作者の意図を示す標題(プログラム)が付いています。フランス語の序文は、人生は死に至る一連の前奏曲であると始まり、人生における愛、嵐、自然、闘いを語ります。リストは《レ・プレ》において、譜例1(クリックで拡大します)にあげた旋律を使いながらこの標題を表現した……はずなのですが。

譜例1:リスト作曲《レ・プレリュード》主要旋律

譜例1:リスト作曲《レ・プレリュード》主要旋律

実はこの序文、作曲後に加えられたもの1 。つまりこの曲は、標題に沿って作られたのではなく、もともと音だけで構築されたのです。しかも、私たちがよく知っている形式を使って。今回はソナタ形式の考え方シリーズ④として、《レ・プレ》に隠された(??)ソナタ形式について考えます。

冒頭の神秘的な旋律が第1主題、ホルンの愛の旋律が第2主題。続く激しい嵐の部分が展開部、自然を表す6/8拍子の牧歌の部分が再現部で、第2主題(愛の旋律)が再現されます。その後の闘いの行進曲がコーダ。ハ長調で始まりハ長調で終了。

でも、ソナタ形式として考えるには、突っ込み所満載! 主調はハ長調ですから、第2主題は5度上のト長調で提示され、ハ長調で再現されるはずなのに、それぞれホ長調とイ長調です。展開部では、提示部で使われた素材ではなく、新しい嵐の旋律が使われます。しかも、大切な冒頭主題が再現されません。ソナタ形式の基本((74)参照)は様々に変形されますが、こんなの(!?)までソナタ形式とみなして本当に良いの?

譜例1をもう一度よく見ると、愛の旋律や嵐の旋律などが、冒頭主題の「ドーシーミ」という、一度下がってから上がる音型を踏まえていることがわかります(◯印の音に注意)。実は、これらは冒頭主題から導き出されたもの。冒頭主題を Aとすると、愛、嵐、行進曲の旋律はそれぞれ B、C、D というよりもむしろ、A1、A2、A3 と考えられます。

したがって展開部では、冒頭主題 A の変形 A2 を展開し、再現部では、冒頭主題とその変形の両方を再現せず、簡素化して変形 A1 だけを再現したとも考えられます(ちょっと苦しい?)。とにかく、この愛の旋律 A1 の再現がポイント。2回とも本来の調ではありませんが、提示部のホ長調が、再現部のイ長調の5度上という、ソナタ形式の基本の関係を維持しています。

実は、ソナタ形式だけではありません。《レ・プレ》は、交響曲の多楽章形式を使ったと考えることもできるのです。最初のアンダンテの部分が第1楽章、テンポが少し上がる嵐がスケルツォ楽章、ゆったりと感じられる牧歌が緩徐楽章、そして闘いの部分がフィナーレ(通常の緩徐楽章とスケルツォ楽章の配置が逆になっていますね)。4つの楽章すべてを、1つの楽章に押し込んでいます。

《レ・プレ》を弾いたり聴いたりしていると、テンポや拍子の変化によって、雰囲気が大きく異なるいくつかのセクションが、それぞれ自己主張している印象をうけませんか。これも、4つの楽章を途切れなく続けた形と考えれば、納得できます。それらの一見(一聴?)関連のない旋律を統一しているのが、下がって上がる「ドーシーミ」音型。

リストは、序文のストーリーを音楽で表現する「ふり」をしながら、旧来の形式を土台に《レ・プレ》を構築したと考えられます。ソナタ形式と多楽章の形式を1つの曲に同時に使うのはシューベルトの例がありますが、リストは「ドーシーミ」の変奏形式も組み合わせました。《レ・プレ》で感じられる異質さは、この多層構造にも関係しているのでしょう。

難しいですか? 難しいですよね。でも、それならリストの狙いは成功したことになります。「わかりそうでわからない」ことも、ロマン派時代の大衆に芸術性をアピールするための、大切な要素でしたから2

  1. Bonner, “Liszt’s Les Préludes” 19th-Century Music, 1986, p. 95など。
  2. 田村和紀夫・鳴海史生『音楽史17の視座』(音楽之友社、1998年)、127ページ。
27. 3月 2012 · (74) ミステリアス、《レ・プレ》 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

今回の演奏会は、少し不思議な雰囲気の曲、リストの交響詩《ラマルティーヌの『詩的瞑想』によるレ・プレリュード》で始まります。作曲者がちょっと(結構??)変わった人だったことは、(67)ミステリアス、リストでご紹介しました。今回は、作品がちょっと(結構??)変わっていることについて書きます。

まず、タイトル。交響詩とは、リストが創始したオーケストラ音楽の新しいジャンル。交響曲と違い、1楽章構成が普通です。風景や物語、絵画など、音楽以外のものと深く関連した標題音楽の一分野で、作者の意図を示す標題(プログラム)が添えられることもあります。

プレリュード、すなわち前奏曲は、バッハの「前奏曲とフーガ」やヴァーグナーの「第1幕への前奏曲」のように、何かの曲の前に置かれる音楽。ところがこの《レ・プレ》には、後に続く曲はありません。しかも、その前には、フランス語の単数の定冠詞「ル」ではなく、複数の定冠詞「レ」がついています。交響詩《前奏曲たち》ってどういうこと??

出版スコアには「わたしたちの人生は、死が最初の厳かな音を歌い始めるというその未知なる歌への、一連の前奏曲以外の何物であろうか」と始まる、フランス語の序文が印刷されています。これが、《レ・プレ》の標題。持って回った言い方ですが、「人は、生まれた瞬間から死へ向かって進んでいるから、生とは、死に至る過程における(様々な)前奏曲に他ならない」ということ。人生を描いた音楽とも考えられます(序文と音楽の関係については、(75) 《レ・プレ》とソナタ形式をお読みください)。

曲は、弦楽器によるドの音のピッツィカートで始まります。弱音で、譜例1を見るとわかるように、4拍子の3拍目。小節の前半には、音がありません。それを2回繰り返した後、同じドからユニゾンで、そろそろと動き出します。これも2拍目から。

譜例1:リスト作曲交響詩《レ・プレリュード》冒頭部分

譜例1:リスト作曲交響詩《レ・プレリュード》冒頭部分

この旋律から浮かび上がるのは、ラドミソの響き。ドミソならばハ長調の主和音として落ち着くのに、付加音ラによって、どこへ向かうのかあいまいです。実際に響く最初の和音は、6小節目のラドミで、これも2拍目からです。8小節目でようやく、1拍目にミソシの和音が鳴り、次の小節でラド♯ミに達して一区切り。フェルマータ付き休符の後、レのピッツィカートからほぼ同じ動きが、長2度上で繰り返されます。その後も、休みやタイによって拍節感がうまくかわされたまま、不安定な響き(減七の和音と言います)が続きます。属七の和音ソシレファが響くのが29小節目。主調ハ長調の主和音ドミソが登場するのは、35小節目のアレグロ・マエストーソです。

古典派の音楽とは異なり、ロマン派の音楽は主和音で始まるとは限りません(むしろ、主和音で始めるのはダサイそうです1)。でも、拍節や響きの方向性をあいまいにしたまま、ここまでひっぱるのはなかなか新鮮。時代を先取りしたリストならではです。

この冒頭は、人生の始まりである誕生を描いているのでしょうか。ここの新奇さが、《レ・プレ》を異質に感じさせる大きな要因のひとつ。でも、この不安定で神秘的な開始のおかげで、ようやく確立したハ長調の主調がいかにも頼もしく、マエストーソ(荘厳な)の主題が際立って印象的に聴こえますね。

  1. 分析を含め、作曲がご専門のhus-RyISKWさんのコメントに感謝します。
09. 2月 2012 · (67) ミステリアス、リスト はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , ,

次回定演で取り上げるリストの《レ・プレリュード》を練習していると、今までの曲と違うなあと感じます。完成が1854年ですから、古典派3巨匠やシューベルトの音楽と異なるのは当然ですが、76年初演のブラ1や、95年完成のドボコンとも異質なのです。理由を探るために、今回はリストの生涯をたどってみます。

リストは1811年生まれ(昨年、生誕200年でした)。1歳年上にシューマンとショパン、2歳年上にメンデルスゾーンがいます。3人はいずれも30代40代で亡くなりましたが、リストは1886年まで長生きしました。ブラームスは22歳、ドヴォルジャークは30歳も年下です。

ハンガリー出身。エステルハージ侯爵家の執事(領地管理)だった父は、アマチュアながら歌手やピアニストとして演奏会に出ることもあり、ハイドンとも知り合いだったそうです。1821年からウィーンで、対位法とスコア・リーディングをサリエリに(ということは、シューベルトの弟弟子。(32) 参照)、ピアノをチェルニーに学びました(チェルニーはベートーヴェンの弟子なので、巨匠の孫弟子にあたります1)。2人とも、無料でレッスンしてくれたそうです。

外国人であるために、パリのコンセルヴァトワール入学は認められませんでしたが、パリ音楽界にデビュー。社交界の寵児に。1830年に初演を聴いた、ベルリオーズの《幻想交響曲》の劇的な構成や、翌々年にパリに着いたショパンの音楽の叙情性に、大きな影響を受けます。

しかし、リストにもっとも大きな衝撃を与えたのは、ヴァイオリン・ヴィルトゥオーゾ、パガニーニ(1782〜1840)の演奏会。ヴィルトゥオーゾ(オーソとも)とは、きわめて高度なテクニックを持った演奏家のこと。以前エスブリッコさんがコメントに書いておられたように、パガニーニは特殊奏法(左手のピッツィカートなど)を考案し、人間業とは思えない演奏で聴衆を熱狂させました(「悪魔に魂を売った」と信じられ、亡くなったときに教会の埋葬許可が下りなかったそうです)。彼の超絶技巧をお手本に、リストは自らのピアノ様式を確立していくことになります。

6歳年上のマリ・ダグー伯爵夫人と恋愛し、2人は1835年にスイスへ逃避行。落ち着いた環境で、さらなるピアノ技法の開拓に励みます。39年からは、ピアノ・ヴィルトゥオーゾとして活動。名声がヨーロッパ中を席巻しますが、やがて旅また旅の生活に疲れ、1848年に宮廷音楽監督としてヴァイマールに定住。新たな恋人ウクライナ貴族のザイン–ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人カロリーネとともに、指揮と作曲に専念します。1850年にはヴァーグナーの《ローエングリン》を初演。

リストと正式に結婚するために、カロリーネは教皇ピウス9世に侯爵との離婚許可を求めますが、得られませんでした。そのままローマに留まったリストは、1865年に僧籍(!)に入ります2。その後も作曲やピアノ指導を続け、1886年に娘コジマに招かれてバイロイトに滞在中、肺炎で亡くなりました。

華やかな女性遍歴の一方で、僧侶になりオラトリオのような宗教作品を作るなど、多様な側面を持つリスト。このミステリアスさも、異質な理由の一端になるかもしれません。それに、リストはやはりピアノの人です。《レ・プレ》の中の息の長いフレーズや、甲斐の無い(!?)アルペジオ(分散和音)などに、ピアノの発想を感じます。

リストがピアニストとして初めてしたことを、まとめておきます3

  • プログラム全てを暗譜で演奏した
  • 古典(バッハ)から現代曲(ショパン)まで、当時の全レパートリーを演奏した
  • 聴衆に音がよく届くように、ステージ上にピアノを右向きに置いた
  • ヨーロッパ中(ピレネー山脈からウラル山脈まで)を演奏旅行した
  • 1840年に、リサイタル(ソロ・コンサートのこと)という言葉を初めて使った

それまでの演奏会は、様々なソリストが登場する、歌あり器楽あり即興演奏ありの多様なプログラムで構成されていました((17)(19)(22) などを参照)。聴きに来た誰もが何かしらを気に入って、皆が満足して帰れるようにです。しかし、リストは絶大な人気を誇っていたので、彼1人だけの演奏会が成立したのです。

図1はリストのベルリンでのリサイタル。聴衆の興奮が伝わって来ます。右の方には、失神して男の人に介抱されている女性もいますね。「悪魔的」と言われたパガニーニから学んだ、黒ずくめの服に白い手袋でステージに登場する、ミステリアスな雰囲気作りも上手ですが、この1841年のツァーでは、10週間のベルリン滞在中に、21回のリサイタルを開いて80曲を弾き、そのうち50曲は暗譜だったそうですから、絶句ですね。

図1:リストのピアノ・リサイタル。Adolf Brennglas の Berlin, wie es ist (Berlin, 1842) の口絵

図1:リストのピアノ・リサイタル。Adolf Brennglas の Berlin, wie es ist (Berlin, 1842) の口絵

  1. 30番練習曲などでおなじみのチェルニーの名前は Cze で始まるので、ツェルニーは誤りです。
  2. 結婚の望みが絶たれたからというよりもむしろ、マリ・ダグーとの間の3人の子どものうち、長男ダニエルが20歳の若さで亡くなり、長女ブランディーネも初めての出産後に亡くなり、唯一残った次女コジマは、夫ハンス・フォン・ビューローを捨ててヴァーグナーのもとに走るという、リストのプライヴェート・ライフにおける苦悩の時期であったことが影響したようです。
  3. Walker, Alan, “Liszt,” New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 14 (Macmillan, 2001), pp. 762-4.