10. 7月 2013 · (141) どこを向いていたのか? 指揮者のお仕事 (1) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , ,

問題です。19世紀初め、コンサート指揮者はどこを向いていたでしょうか? わざわざクイズにするくらいだから、現在のようにオーケストラ奏者の方を向いていたのではなかったのかなと考えた方、鋭い! 正解はなんと「聴衆の方を向いていた」。

図1 ヨハン・シュトラウス2世:《コヴェント・ガーデンの思い出》ピアノ独奏楽譜の表紙

図1 ヨハン・シュトラウス2世:《コヴェント・ガーデンの思い出》ピアノ独奏楽譜の表紙

それで思い出したのが、ヨハン・シュトラウス2世がイギリス・ツアーをしたときに作曲&演奏した、《コヴェント・ガーデンの思い出》ピアノ譜(1868出版)の表紙イラスト(図1。(57) ヨハン・シュトラウスは人気者(96) オーケストラの楽器配置に続いて3回目の登場。ロッシーニみたいですみません)。右端で弓を振り上げて指揮しているのが、シュトラウス2世ご本人。どうしてお客さんの方を向いているのかな?と、ちらっと不思議に思ったのですが、あまり気にしなかった私(現在も指揮者が客席を振り向くことがありますし)。でも、イギリスの聴衆への特別サービスではなく、指揮ってこういうものだったのですね。

ステージの最も聴衆側で指揮するとも限らなかったようです。図2左は、1849年にロンドンでプロムナード・コンサートを指揮するルイ・ジュリアン1。こちら側を向いているだけではなく、オーケストラの真ん中に立って指揮をしていますね。コヴェント・ガーデン劇場でオーケストラと4つの軍楽隊のための《イギリス陸軍カドリーユ》を指揮したときも、ジュリアンは奏者の中にいます(図2右)2。もちろん、様々なソロの部分にさしかかるときは、その奏者の方に向いて指示を与えたそうですが。

図2左:ロンドン、プロムナード・コンサート、1849年。図2右:ロンドン、コヴェント・ガーデン劇場でのコンサート、1846年

図2:ルイ・ジュリアンの指揮。左:プロムナード・コンサート、1849年。右:《イギリス陸軍カドリーユ》、1846年

1881年にドイツの音楽学者 Hermann Zopff が、指揮者は全ての奏者を見ることができるように、また彼らが指揮者の顔の表情を見ることができるように(聴衆に背を向けて)指揮するように勧めています3。1889年に同じことを書いている Schroeder によると、多くのコンサート指揮者は軍楽隊やプロムナード・コンサートの指揮者と同様に聴衆の方に顔を向け、可能なときには聴衆の気を引こうとしていたそうです4

さらに、「斜め」という選択も。1829年ベルリンで、バッハの《マタイ受難曲》を復活上演したメンデルスゾーン(当時若干20歳!)。彼は右側をオーケストラに向け、舞台を斜めに見渡す角度で指揮したそうです5。ドイツでは1890年代になっても、ステージの中央ではなく少し右側に立って、左側を少し聴衆の方に向ける指揮の構えが残っていました。聴衆への礼儀(おしりを向け続けているのは失礼?!)と音楽上の必要性のどちらが大切かという問題だけではなく、コンサート・オーケストラが成立するまでの道のりも影響しているように思います。この件については改めて。

  1. Koury, Daniel J., Orchestral Performance Practices in the Nineteenth Century. 1988, Univ. of Rochester Press, p. 81 (Nettel, The Orchestra in England, J. Cape, 1956, p. 137).
  2. Spitzer, John & Zaslaw, Neal, “Orchestra” New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 18. Macmillan, 2001, p. 542 (Illustrated London News, 1846年11月7日).
  3. Koury, 前掲書, p. 80.
  4. 同上。
  5. 同上、pp. 79-80.

前回のヨハン・シュトラウスは人気者に対して、音楽の感じが違うので、ブラームスがシュトラウスを高く評価したというのがピンと来ないというコメントをいただきました。確かに、昨年聖フィルも演奏したブラ1とウィンナ・ワルツは、似ても似つかないかもしれませんね。今回はブラームスを中心にヨハン・シュトラウス2世と同時代の音楽家たちについて補足しながら、2人の音楽を考えたいと思います。

リストやヴァーグナーの進歩的な楽器法を取り入れたワルツや、ウィーンでは初め受け入れられなかったヴェルディの、オペラの旋律を使った作品を書いたシュトラウス1。先に敬意を表された彼らが、シュトラウスを評価したのは当然でしょう。他にも、オペラ作曲家レオンカヴァッロや、同じ名字ですが血縁関係はないリヒャルト・シュトラウス、指揮者ハンス・フォン・ビューロー、ロシアのピアニストでサンクトペテルブルク音楽院の創立者アントン・ルビンシテインなど錚々たる人々が、シュトラウス2世の音楽性を賞賛しています。

でも、極めつけはブラームス。シュトラウスの代表作のひとつであるワルツ《美しく青きドナウ》の一節を書いて、「残念ながらブラームスの作品にあらず」と書き添えたというエピソードは有名です。もっともこれは、シュトラウス2世の(3番目の)奥さんアデーレにサインを求められたブラームスが、彼女の扇に書いたもの2。ブラームスは、高級保養地バート・イシュルで夏を過ごすことが多かったのですが、お隣がヨハン・シュトラウス2世だったそうです。図1は、そこで撮られた写真。シュトラウスは1825年、ブラームスは1833年生まれですが、ブラームスの方が年上に見えませんか?

図1 バート・イシュルでのヨハン・シュトラウス2世とブラームス、1894年

図1 バート・イシュルでのヨハン・シュトラウス2世とブラームス、1894年

ところで、この2人の音楽は本当に大きく異なるのでしょうか。確かにヨハン・シュトラウス2世は、オペレッタも含め娯楽音楽の作曲家。ブラームスのような宗教曲や交響曲などは作っていません。でも、大衆のために量産した小品にもかかわらず、現在までレパートリーとして残っているものがたくさんあります。それぞれの曲からあふれる、品が良く新鮮で親しみやすいメロディーが、時代を超える魅力の元になっていると感じます。

ブラームスの音楽というと無骨な印象があるかもしれません。しかし、彼もロマン派時代の作曲家。常に歌謡性や旋律性を追求していました。歌曲もたくさん作っていますし、4つの交響曲においては、メヌエットでもスケルツォでもない独特の世界を持つ第3楽章に、旋律重視の姿勢がよく現われています。歩む道、取り組むジャンルが異なっていも、ブラームスは、稀代のメロディー・メーカーであるヨハン・シュトラウス2世の音楽センスを尊敬していたのでしょうね。

  1. Kemp, Peter, “Johann Strauss (ii)” New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 24  (Macmillan, 2001), p. 481。前者はopp. 141, 146など。その前年、良い批評をもらっていたウィーン音楽界の大御所、辛口評論家のハンスリックに「新しいワルツのレクイエム」と退けられました。後者はopp. 112, 272などのカドリーユ。
  2. でも、このエピソードは単なる奥さんへのサービスではありません。ブラームスは、シュトラウス2世のオペレッタ《ヴァルトマイスター(ドイツでポピュラーなハーブの名前)》の初演(1895年)について、ハンスリックに「シュトラウスの見事なオーケストレーションは、モーツァルトを思い出させた」と伝えました。
01. 12月 2011 · (57) ヨハン・シュトラウスは人気者 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

聖フィルは先週、第4回聖光音楽祭でヨハン・シュトラウスの作品を演奏しました。「ワルツの父」ヨハン・シュトラウス1世の《ラデツキー行進曲》op. 228と、「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス2世(=1世の長男)の《取り壊しポルカ》op. 269。父の曲も子の曲も、作品番号が200番台ですよ。すごいですね!

こう書くと、200くらいでどうしてすごいのと不思議に思う方がいらっしゃるでしょう。モーツァルトのケッヘル番号は600を超えるし、ヨハン・ゼバスティアンのバッハ作品番号も1000を超えます。シューベルトのドイッチュ番号も1000近く。でも、これらは作品目録番号。その作曲家の作品カタログを作るために、研究者が一定の規則に従って作品を並べた順番を示す数字ですから、すべての曲に番号がつけられています。一方op.は、楽譜を出版した際の番号。出版されなかった曲にはop.番号はありません。

シュトラウスの作品表を計算してみると、父は全作品の9割以上、息子も9割近くの楽譜が出版されています1。しかもほとんどが初演の年の出版です。2世のop. 番号はなんとop. 479まで! 番号無しで出版されたものを加えると500曲以上になります。

これって、すごいことですよ。楽譜を出せば必ず売れたということですから。彼らの音楽はそれだけ人気があったのですね。

オーケストレーションの見事さと美しく親しみやすいメロディーは、同時代のヴァーグナーやブラームスからも、高く評価されています。また、イタリア独立運動を鎮圧したラデツキー将軍の凱旋祝賀会用マーチや、ウィーンを囲んでいた城壁の取り壊し工事に由来するポルカなど、常にタイムリーでウィットに富んだ作品を提供し続けたのも人気の理由です。

それにしても、ウィーンにはいつも出版譜を買ってくれるダンス用オーケストラが、そんなにたくさんあったの ?? と思ったら、違いました。父子が作曲したワルツやポルカは、オーケストラ・スコアではなく、まずピアノ独奏用の楽譜として出版されたのです。ヨハン・シュトラウスの新作を、家でピアノで弾いて楽しみたい人がたくさんいたということですね。もちろん多くの作品は、ピアノ連弾やヴァイオリン独奏(ピアノ伴奏付き)用、オーケストラ用としても出版されました2

図1は、ヨハン・シュトラウス2世がイギリスへ演奏旅行した際に作曲した、イギリスの民謡に基づくワルツ《コヴェント・ガーデンの思い出》op. 329(ウィーン、Spina社、1868)のピアノ譜の表紙。1867年に彼はここで、63回のプロムナード・コンサートを指揮したそうです。ヴァイオリンを左手に弓で指揮する彼の姿が、右側の舞台上に見えますね。

図1 ヨハン・シュトラウス2世:《コヴェント・ガーデンの思い出》ピアノ独奏楽譜の表紙

図1 ヨハン・シュトラウス2世:《コヴェント・ガーデンの思い出》ピアノ独奏楽譜の表紙3

  1. Peter KempによるNew Grove Dictionary of Music, 2nd edition, vol. 24(Macmillan, 2001)の作品表(父がpp. 477-78、子がpp. 483-87)を数えました。父は、番号付きで出版された作品がop. 251までで、番号無しで出版された曲が8曲。一方、出版されずに手稿譜で残されている作品は25曲です。息子は、番号付きで出版された作品が op. 479までで、番号無しで出版された作品が33曲、ロシアで出版された作品が10曲。18あるオペレッタ、オペラ、バレエ作品も、番号無しで出版されています。一方、出版されなかった作品13曲と、出版されずに失われた作品61曲が、リストアップされていました。
  2. 劇作品も、ほとんどがオーケストラ用ではなくいわゆるピアノ・ヴォーアル・スコアの形で出版されました。
  3. 同上、481ページより。