23. 11月 2016 · (296) 英語で何と言うのか? 対向配置について はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , ,

最近はアマ・オケの演奏会でも、対向配置がそれほど珍しくなくなりました。対向配置とは、セカンド・ヴァイオリンが客席から見て舞台の右側(以後、左右は全て客席側から見た方向)に置かれ、左側のファースト・ヴァイオリンと向かい合う配置(以後、ファースト、セカンドは全てヴァイオリン)。ファーストの隣にチェロ、その後ろにコントラバスが位置し、ヴィオラはチェロとセカンドの間です(図1参照)。舞台左側にファーストとセカンドを並べる配置が一般的になる前に、使われました。

図1:対抗配置(弦のみ)

図1:対向配置(弦のみ)

対向配置は、両翼配置、古典配置とも呼ばれます。これらを英語では何と言うのでしょうか? いろいろ探しているのですが、今のところ特定の用語は見つかりません。そもそも「配置」も、(seating)plan、arrangement、layout、position、placement、setting など、いろいろな語が使われます。「2つのヴァイオリン群が指揮者の両脇に」などと説明されるところを見ると、「対向、両翼」配置は、日本独特の用語?!

ただこれを「伝統的な traditional」配置と呼ぶ記事がいくつかありました1。一方、現在一般的な配置は「現代の modern」配置、あるいは「標準的な standard」配置などです2。また、現在の配置を「アメリカ式」、古い配置を「(古い)ドイツ式」と書いたものもありました3

ところで、対向(両翼)配置はいつ頃使われたのでしょうか。古典派時代? 確かにベートーヴェンは、この配置をうまく利用しています。よくあげられる例が、《第九》第2楽章のフガート。右端のセカンドから始まり、ヴィオラ、チェロ、ファースト、コントラバスと、フガート主題が順に左に受け渡されていきます。

セカンドがファーストの隣りに座るのが一般的になるのは、実はかなり最近のことです。既にご紹介したメンデルスゾーンの革命的配置((96) オーケストラの楽器配置、ライプツィヒ、1835参照。左右逆でしたね)や、パリ((174) パリ、1828)、ロンドン((260) ロンドン、1840)の例のように、19世紀もずっと、対向(両翼)配置が使われました。チャイコフスキーの《悲愴》交響曲(1893)で、ファーストとセカンドが1音ずつ旋律を分担する終楽章冒頭(譜例1参照)は、対向配置によりステレオ効果が際立ちます。

譜例1:チャイコフスキー《悲愴》交響曲終楽章冒頭

譜例1:チャイコフスキー《悲愴》交響曲 終楽章冒頭

マーラーが1905年に《第九》を演奏したときの写真(図2)では、指揮者の左側にチェロが見えます。ストコフスキーが1916年3月2日に、フィラデルフィア管弦楽団とマーラーの《一千人の交響曲》のアメリカ初演を行ったときの写真(図3)も、対向配置ですね。そう、20世紀になっても対向配置が使われていたのです。あれれ、現在の配置を始めたのはストコフスキーではなかったかな……?? ((297) 対向配置を変えたのは誰?(298) ストコフスキーの楽器配置に続く4

図2:ベートーヴェン《第九》を指揮するマーラー(ストラスブール、1905)

図2:ベートーヴェン《第九》を指揮するマーラー(ストラスブール、1905)

図3:ストコフスキーとフィラデルフィア管弦楽団(1916)

図3:ストコフスキーとフィラデルフィア管弦楽団(1916)

  1. Huffmann, Larry, “Interviews with Leopold Stokowski,” http://www.stokowski.org や、Marks, Peter, “Divided violins: Sir Adrian would be pleased,” http://musicdirektor-smallgestures.blogspot.jp など。後者は「自分は伝統的配置と呼ぶ」と但し書き付きです。図2、図3も Marks より。
  2. 「現代の」は上記 Marks。「標準的」は Koury, Daniel J., Orchestral Performance Practices in the Nineteenth Century. Univ. of Rochester Press, 1988 など。
  3. Rasmussen, Karl Aage, Laursen, Lasse, “Orchestra size and setting,” trans. by Reinhard, http://theidiomaticorchestra.net.
  4. 漢字のミスを指摘してくださった読者の方、どうもありがとうございます。私、ずっと間違って覚えていました。皆さま、ごめんなさい。
10. 8月 2016 · (288) ライプツィヒとバッハ はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , ,

ドイツのライプツィヒと言われて思い浮かべる作曲家は? 1835年にゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者になった、メンデルスゾーン? 長くライプツィヒで活動したシューマン? ライプツィヒ生まれのヴァーグナー? 縁の作曲家は多いのですが、ヨハン・ゼバスティアン・バッハも忘れないでください。1750年に没するまでの後半生を、ライプツィヒで過ごしました。

図1:ライプツィヒ

図1:ライプツィヒ

ケーテン公の宮廷楽長から、ライプツィヒ市主要教会のひとつトーマス教会のカントルに転職。社会的地位はカントルより宮廷楽長(カペルマイスター)の方が上。さらに、前任者ヨハン・クーナウ(1660〜1722)の死去に伴い、ライプツィヒ市参事会が後任の第1候補にしたのはゲオルク・フィリップ・テレマン(1681〜1767)、第2はクリストフ・グラウプナー(1683〜1760)でした。2人が辞退したため、3番目のバッハがカントルに。

トーマスカントルの職務は2種類。ひとつは、トーマス教会付属学校で教えること。バッハは音楽は自分で教えましたが、ラテン語の授業は自費で代理を雇っていました。もうひとつは、ライプツィヒ市の音楽監督。礼拝における教会カンタータの演奏の他、結婚式や葬式などにも音楽を提供しました。

1723年5月末にライプツィヒに移ったあと、バッハは初めの6年間に、教会暦5年分の教会カンタータを作ったようです(激務に関しては (159) バッハの一週間参照)。カンタータは1年間で約60曲必要ですから、5年分でおよそ300曲1!!!(散逸が惜しまれますね)。カンタータの他に、《ヨハネ受難曲》(1724)や《マタイ受難曲》(1727)も作曲。1729年以降は、コレギウム・ムジクムの活動を精力的に行いました。

私事で恐縮ですが、一昨年夏のボストン、昨夏のロンドンとフィレンツェ、今春のローマとパリ((271) ヴァティカン図書館で調査してきた!!参照)に続いて、今夏はライプツィヒで資料研究をしてきます((249) 今と同じ?! 16世紀の楽譜参照。研究費をいただけるのは今年度が最後)。短い滞在ですが、州立図書館で写本調査をしながら、バッハやメンデルスゾーンが暮らした街を目に焼き付けたいと思います。ライプツィヒの後、ブリュッセルとコペンハーゲンの王立図書館でも資料調査するため、聖フィル❤コラムは3週続けてお休みさせていただきます。みなさま、どうぞ良い夏をお過ごしください。

  1. Stauffer, George B., ‘Leipzig,’ The New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 14, Macmillan, 2001, p. 314.

コラールと言われたらみなさんは、ブラームスの交響曲第1番終楽章、序奏部のトロンボーン(とファゴット族)3重奏を思い浮かべるでしょうか。あるいはブルックナーの、たとえば第4番《ロマンティッシュ》第1楽章展開部終盤で、トランペット&トロンボーン&テューバがffで吹き鳴らすところ(305小節〜)? 第5番終楽章には、ブルックナーご本人が「コラール」と書き込んだ部分(583小節〜)もありますね。

でも、このようなコラールは正確には「コラール風」(あるいは「コラール的」)楽節。本物のコラールではありません(このようにな「コラール風」もコラールと呼ぶことがあるのでややこしいのですが)。

譜例1:J. S. バッハ:カンタータ BWV 140《目覚めよと呼ぶ声が聞こえ》より終曲(第3節)

譜例1:J. S. バッハ:カンタータ BWV 140《目覚めよと呼ぶ声が聞こえ》より終曲(第3節)

バッハの声楽作品に詳しい方は、本物をご存知ですよね。コラールは、ルター派プロテスタントの賛美歌。4声体のホモフォニーの形で(譜例1参照)、教会カンタータや受難曲の核になっています。上記「コラール風」楽節の元ですね。ただこれは、いわば成長した大人のコラール。もともとはモノフォニー(単旋律)でした。

カトリックの典礼音楽の歌詞は、聖職者以外は理解できないラテン語。聖歌隊が歌うお経のようなグレゴリオ聖歌や、複雑で難しいポリフォニーを、意味もわからずありがたく拝聴しているだけ。

宗教改革者マルティン・ルター(1483〜1546)は、「会衆を礼拝に積極的に参加させようとする意図から歌唱による祈願や賛美を重視」1。みんなで歌うには、母国語であるドイツ語の歌詞の曲が必要と考えました。単旋律なら、楽譜を読めない人も聞き覚えて歌えます。無伴奏のユニゾンで歌われたこのような曲は初め、geistliche Lieder(宗教的な歌)とか christliche Gesäng(キリスト教の歌)と呼ばれていました2(グレゴリオ聖歌の旋律を指す「コラール」という語で呼ばれるようになったのは、16世紀後半)。

1524年にヨハン・ヴァルター(1496〜1570)がヴィッテンベルクで、聖歌隊用に3〜5声に編曲した Geystliches Gesangk Buchleyn を出版(図1参照)。宗教改革の発端となった、ルターの「95か条の論題」発表から、わずから7年という早さに驚かされますが、考えてみると聖歌隊は、ついこの前まで壮麗なポリフォニーの宗教曲を歌っていた(し、信者たちだって、歌詞の意味はわからないながら聞いていた)のですからね。旋律1本を斉唱するだけでは、音楽的におもしろくなかったのでしょう。

図1:Johann Walter, Geystliches Gesangk Büchleyn, Titelpage, Wittenberg, 1524

図1:Johann Walter, Geystliches Gesangk Büchleyn, Titelpage, Wittenberg, 1524

ルターの序文が付いたこの最初の賛美歌集には、32の聖歌の詩用の35の旋律が、38種類に編曲されて収められています。カトリックの宗教曲のような複雑なポリフォニー様式と、旋律と同じ動きで和音を連ねる(より新しい)和弦様式の、2種類の編曲法が使われました。後者が、大人のコラールの出発点。

ただ、譜例1のようにコラール旋律がソプラノに置かれたのは、ルーカス・オジアンダー(1534〜1604)が1586年にニュルンベルクで出版した Fünffzig geistliche Lieder und Psalmen から3。ヴァルターの賛美歌集では、多声作品における最重要声部テノール((85) アルトは高い参照)に、主旋律が置かれていました。

まとめ:ルター派プロテスタントの賛美歌であるコラールは、もともとモノフォニーだった。4声体の編曲では、しばらく内声に置かれていた。バッハがカンタータの中で用いたような大人のコラールになってからも、そのまま引用した場合(たとえばメンデルスゾーンの通称「宗教改革」交響曲。(257) メンデルスゾーンが作った交響曲はいくつ?参照)以外、「コラール風」と呼ぶのが正しい。

来週のコラム更新はお休みさせていただきます。

  1. 辻荘一「コラール」『音楽大事典2』平凡社、1982、938ページ。
  2. Marshall, Robert L. / Leaber, Robin A., ‘Chorale,’ New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 5. Macmillan, 2001, p. 737.
  3. Marshall, Robert L. / Leaber, Robin A., ‘Chorale settings,’ New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 5. Macmillan, 2001, p. 748.
06. 1月 2016 · (266) ジルベスターが大晦日を意味するわけ はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

明けましておめでとうございます。今回の年末年始は、曜日の関係でちょっと慌ただしい感じでしたね。2016年がみなさまにとってよい年でありますように。6年目に入った聖フィル♥コラム、今年もよろしくお願いいたします。

新年最初のコラムなのに、年末のお話です。最近「ジルベスター・コンサート」という言葉を聞くようになりました。大晦日に行われる音楽会のことで、途中で新年を迎える年越しコンサートの場合も。「ジルベスターはドイツ語で大晦日のこと」と説明されます。もちろん正しいのですが、本当はもう少し説明が必要。12月31日は聖ジルベスターの日。だから、ジルベスターが大晦日を意味するようになったのです。

聖ジルヴェスター1世(Silvester I、ラテン語読みでシルウェステル1世)は、4世紀のローマ教皇(在位314〜335年)。コンスタンティヌス1世(272〜337)に洗礼を施したという伝説があります。このコンスタンティヌス1世は、313年のミラノ勅令でキリスト教を公認したローマ帝国皇帝でしたね(図1参照1)。

図1:教皇シルウェステル1世とコンスタンティヌス1世のモザイク画(1247年、ローマのサンティ・クアットロ・コロナーティ聖堂内サン・シルヴェストロ礼拝堂)

図1:教皇シルウェステル1世とコンスタンティヌス1世

亡くなった12月31日が、聖ジルヴェスター1世の記念日。キリスト教の聖人は、それぞれ特定の日と結びつけられています。たとえば、6月24日は洗礼者ヨハネの日でしたね((242) 真夏じゃなかった!? 《真夏の夜の夢》参照)。イエス・キリストに洗礼を施し、後にヘロデ王に捉えられて(サロメの望みによって)斬首される、あのヨハネを記念する日です。《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第2幕冒頭の歌詞「Johannistag」はヨハネ祭と訳されますが、直訳するとヨハネの日。同様に、12月31日は聖ジルヴェスターの日。だから、大晦日をジルヴェスターの日と言い換えられるのです。

ただ、聖人にはいくつかのランクがあり、記念日もそれに対応します。洗礼者ヨハネとは異なり、聖ジルヴェスターは重要度が低い聖人で、彼の日は記念しても記念しなくても良いという任意の記念日。たまたまそれが大晦日だったおかげで、最近急に、ヨーロッパから遠く離れた日本でまで名前が知られるようになって、聖ジルヴェスターご本人が1番驚いているかもしれません。

  1. ローマのサンティ・クアットロ・コロナーティ聖堂内サン・シルヴェストロ礼拝堂、1247年。
04. 11月 2015 · (258) サルタレッロってどんな音楽? はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

田部井剛先生にこう聞かれて、とっさに「タランテラみたいな音楽」と答えた私。メンデルスゾーンは交響曲イ長調いわゆる「イタリア」の終楽章に「サルタレロ」と書きましたが、タランテラみたいだと思いません? 「展開部に登場する新主題(122小節〜)は3連符で順次進行し、(中略)[サルタレロより]むしろ南イタリアに特有の民俗舞踏、タランテラに近い」と書かれた解説もあるし1。今回はサルタレロを調べてみました。saltarello と -ll- なので、以下サルタレッロと表記(tarantella も正確にはタランテッラ)。

語義は「小さな跳躍」。15世紀ころから流行した、イタリア起源の陽気で急速な舞曲。時代により多少性格を異にする(「サルタレッロ」『音楽大事典2』平凡社、1982、982ページ)

サルタレッロという名前は、14世紀末か15世紀初めにトスカーナ地方で書かれた手写本に初登場 2。収められた単旋律音楽119曲中、サルタレッロと記された曲は4つ。複数のフレーズ(prima pars 第1部、secunda par 第2部のように)から成り、それぞれが反復されます。1つめのエンディングは aperto(開いた)、2つめのエンディングは chiuso(閉じた)と記されます。現在の1かっこ、2かっこですね。

4曲中2曲目が特にポピュラーらしく、ロックやジャズを含むさまざまなアレンジを見つけました(下の動画は、セルビアの古楽グループ Flauto dolce による演奏)。ただ、この曲は4/4拍子。本物のサルタレッロではなく、イタリア15世紀のクァデルナリア、あるいはサルタレッロ・テデスコ(イタリア語で「ドイツのサルタレッロ」の意味)と呼ばれた舞踏の例と考えられています3

譜例1は、手写本中のこのサルタレッロ部分4。五線の真ん中の線に「C」なので、ヴィオラ用ハ音記号と同じアルト記号((139) 実はいろいろ! ハ音記号参照)。調号はフラット1つ。1番上の五線の下に、Saltarello . prima . pars、右端に aperto と書かれていますね。楽譜に2つずつ書かれた◎や✥、指差す手の絵(キュート!!)は、それぞれの2つ目の印まで来たら、1つ目の印に戻るという省略記号。

譜例1:Saltarello 2, GB-Lbl Add MS 29987, fol. 62.

譜例1:Saltarello 2, GB-Lbl Add MS 29987, fol. 62v.

16世紀には、ゆったりとした2拍子系の舞踏パッサメッゾと3拍子系で速いサルタレッロが、対にして踊られました。また、17世紀には宮廷舞踏にも取り入れられて流行します。ブロッサールは音楽事典(1703)でサルタレッロについて「常に跳躍しているような動き。ほとんどいつも、各小節初めに付点音符を伴う3拍子で作られる」と記述しました5

18世紀末ころには、初めローマ、その後ロマーニャ地方などで、1人または2人で踊る3/4あるいは6/8拍子の民俗舞踏サルタレッロが人気に。激しい腕の動きを伴う、だんだん速さを増す跳躍ステップが特徴で、伴奏はギターやタンブリン、歌など。メンデルスゾーンのイ長調交響曲 終楽章の2つのサルタレッロは、おそらく19世紀の民俗舞踏曲に基づくと考えられています。下の動画のような感じではないでしょうか。

  1. 星野宏美『メンデルスゾーン:交響曲第4番イ長調作品90、ミニチュア・スコア解説』音楽之友社、2002、ixページ。
  2. 現在は英国図書館所蔵。GB-Lbl Add MS 29987。
  3. Little, Meredith Ellis, ‘Saltarello,’ The Grove Dictionary of Music, 2nd ed., 22, Macmillan, 2001, p. 176.
  4. 動画では secunda pars の後半が楽譜と異なっています。
  5. Little, op.cit,, p. 178.
28. 10月 2015 · (257) メンデルスゾーンが作った交響曲はいくつ? はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: ,

イ短調のいわゆる《スコットランド》が第3番、イ長調のいわゆる《イタリア》が第4番(以下「いわゆる」を省略。「いわゆる」が必要な理由は(214)「イタリア」ではなかった!!参照)。没後出版がもう1つ、《宗教改革》ニ短調。だから、第1番ハ短調、第2番《賛歌》変ロ長調と合わせて、メンデルスゾーンの交響曲は全5曲! これは、メンデルスゾーンの旧全集(1874〜77年刊行)に収められた交響曲の数。

でも、生誕200年の2009年に出版された『メンデルスゾーン作品総目録(Mendelssohn-Werkverzeichnis=MWV)』の、交響曲カテゴリーに収められた曲は、なんと19曲!!(表1参照1)。

なぜそんなに増えたの?!  それは、メンデルスゾーンが12〜15歳のときに作った、弦楽のための交響曲(シンフォニーア)13曲も含められたから。弦楽交響曲は、メンデルスゾーン生誕150年の1959年に東ドイツで刊行が始まった新全集に収められ、人々に知られるようになりました(ただ、この新全集は途中で頓挫。没後150年の1997年に、ようやく再開されました。書簡・日記・絵画なども含める大プロジェクトで、完結予定は半世紀後の2047年)。それ以外に、交響曲断片も2つ。これで15曲ですね。

あれれ、旧全集の5曲を加えて20曲のはずなのに、計19曲。抜けたのはどれ?? それは、交響曲第2番《賛歌》。独唱・合唱付きのこの曲、MWV では交響曲ではなく「大編成による宗教曲」に分類されました。旧全集では「独唱、合唱、オーケストラのための宗教声楽曲」に収められたのに、同じ頃にこれを交響曲第2番と見なす習慣が広まったようです2。ちなみに本人は「《賛歌》:聖書の言葉に基づく交響曲カンタータ Sinfonie-Kantate」と発表。「交響曲第2番」は後世の付与なので、MWVではタイトルから除かれました。同様に、没後出版の2交響曲のナンバリングと作品番号も除かれています。

というわけで、メンデルスゾーンの交響曲は全部で19曲。断片を除くと17曲。初期の習作が14曲、生前に出版したのは2曲となります。19世紀の旧全集に基づき100年以上続いて来た全5曲という「常識」を変えるには、長い時間がかかるでしょう。でも、メンデルスゾーンがかわいそうではなくなるように((256) かわいそうなメンデルスゾーン参照)、彼の意図を尊重し、それになるべく近い形で彼の音楽をもう一度捉え直していかなければと思います。

表1:メンデルスゾーンの交響曲(星野宏美「メンデルスゾーン:交響曲第3番イ短調作品56ミニチュア・スコア解説(音楽之友社、2010、vページ)

表1:MWVによるメンデルスゾーンの交響曲

  1. 星野宏美『メンデルスゾーン:交響曲第3番イ短調作品56、ミニチュア・スコア解説』音楽之友社、2010、vページ。表中の「 」は通称を示す。
  2. 同上。
21. 10月 2015 · (256) かわいそうなメンデルスゾーン はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

生まれたときから亡くなるまで裕福だった作曲家って、もしかしたらメンデルスゾーンくらい? ただ金持ちだっただけではありません。祖父は高名な哲学者。両親や一流の教師たちの下で教育された神童で、ヨーロッパ各地に旅行し、さまざまな音楽や音楽家に接し、吸収したのは神童の先輩モーツァルトと同じ。自宅では私的な音楽会が開かれ、芸術家たちも出入りしていました。38歳の若さで亡くなりましたが、物質面・精神面においてかなり恵まれた一生だったと言えるでしょう。

ベルリンで J. S. バッハの《マタイ受難曲》を復活演奏したのは、1829年。バッハ再評価のきっかけになりました(この業績だけでも、私たちは彼に大いに感謝しなければなりません)。1835年にはライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に。1843年開校のライプツィヒ音楽院ではピアノと作曲を教えました。音楽界の第1人者として、生前そして死後しばらく、非常に高い評価を受けていたメンデルスゾーン。

しかし、その後現在に至る彼の音楽史における位置付けは、決して高いとは言えません。

ひとつに従来のヨーロッパの18〜19世紀のドイツ音楽史がともすればウィーンを中心とする南ドイツ、オーストリアにかたよりがちであり、北ドイツでの流れをしばしば不当に低く評価するか、ともすれば見過ごしがちであったこと(中略)一方、同世代のリストやショパンと対照的に、メンデルスゾーンは(中略)ロマン派特有の激しく燃焼するような劇的なものに欠けており、接する者を強くその作品や人となりへひきつける要素が少ない1

なんだか言い訳じみていますね。やはり一番の原因は、彼がユダヤ系だったことでしょう。19世紀後半以降の反ユダヤ主義の影響で、メンデルスゾーンや彼の音楽が不当に低く評価されたのです。ナチスによって彼の作品演奏が禁じられたことは知られていますが、それどころではないダメージをもたらしました(本人は1816年、両親も1822年にルター派プロテスタントに改宗したのですが)。第2次世界大戦後は、東西ドイツの分断により資料研究が遅れることに。かわいそうなメンデルスゾーン。

そのため、世間一般のメンデルスゾーンや彼の作品イメージは、「こんにちでも先入観に侵された表面的な理解が蔓延っている」2。確かに私も長い間、交響曲第4番の第1楽章は陽光あふれるイタリアを思い起こさせるとか、苦労せずに育った「ええとこのぼんぼん」的な(!?!)、伸びやかだけれどあまり深みが無い曲とか、通り一遍に捉えていました。

しかし、メンデルスゾーンが自作を徹底的に推敲し、納得したものしか出版許可を与えなかったことや、「イタリア」交響曲は没後出版で、納得どころか第1楽章(最も特徴的)を大幅に書き直すつもりであったこと((213) こんなはずではなかった?!  メンデルスゾーンの「イタリア」参照)、イタリア旅行中にインスピレーションを得たものの、本人は公の場では決してイタリアと結びつけて語らなかったこと((214) 「イタリア』ではなかった!! メンデルスゾーンの「イタリア」参照)などを知って、びっくり! もしも彼が、納得できない第1楽章のまま出版され、自分の意図に反して「イタリア」と呼ばれ、さらにそれが自分の代表作とみなされている現状を知ったなら、どれほどショックを受けることか! 一方で「満足できる形で後世に残す」という彼の志やそのための努力は、現在ほとんど知られていないのです。かわいそう過ぎ。

聖フィル第14回定期演奏会では、メンデルスゾーンの交響曲第3番を取り上げます。この機会に、メンデルスゾーンや彼の音楽の理解を、少しでも正当な方向に近づけたいと思います。まずは、交響曲を正しく理解しよう!というわけで、突然ですが質問です。生誕200年の2009年に出版されたメンデルスゾーン作品総目録にリストアップされたメンデルスゾーンの交響曲は、全部で何曲でしょうか?(続く)

  1. 吉田泰輔「メンデルスゾーン」『音楽大事典5』平凡社、1983、2521ページ。
  2. 星野宏美『メンデルスゾーン:交響曲第3番イ短調作品56、ミニチュア・スコア解説』音楽之友社、2010、ivページ。
01. 7月 2015 · (243) オフィクレイドってどんな音? はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

オフィクレイドをご存知ですか。以前ご紹介したセルパン((194) セルパンってどんな音?参照)に代わって、あるいは並行して使われた、金属製の低音楽器。ベルリオーズの《幻想交響曲》(1830年、 (173) 幻想交響曲の奇妙さ参照)の第4、5楽章や、メンデルスゾーンの《夏の夜の夢》序曲(1826年、(242) 真夏じゃなかった!? 《真夏の夜の夢》参照)が有名な使用例です。パリの楽器製作者アラリが1817年に考案、1821年に特許を取りました。メンデルスゾーンもベルリオーズも、できたてのほやほやの楽器を使ったことになります。ベルリオーズのカリカチュアにも登場(図右上)。

ギリシア語の ophis(蛇)と kleides(鍵)からの造語であるオフィクレイド。セルパンのようにぐにゃぐにゃ曲がっていませんが、やはり形はユニーク。コントラ・ファゴット、あるいはバリトン・サクソフォーンの金管楽器版という感じ(オフィクレイドがサクソフォーンの開発に役立ったのですから、本当は逆ですが)。リコーダーのようにサイズを変えて作られました。最も多く用いられたのはバス。C管で2.47m、セルパンの2.44mとほとんど同じ長さですね1

図1:オフィクレイド(右はJ. J. グランヴィルが1846年に描いたベルリオーズのカリカチュア)

図1:オフィクレイド(右はJ. J. グランヴィルが1846年に描いたベルリオーズのカリカチュア)

U字型をした太めの円錐状の管の先に、ゆるやかに広がるベル。曲がりくねった細い管の先に、トロンボーンのようなカップ型マウスピース。管にはサクソフォーンのような(しつこいようですが、本当は逆。サクソフォーンが受け継ぎました)大きなキーが9〜12個(多くは11)。最もベル寄りの音孔のみオープン・キー(=押すと閉じる)で、残りはクローズド・キー。1番大きな孔を塞ぐことで、基音(B管ならB)より半音低い最低音が出ます。音域は約3オクターヴ。

オフィクレイドの音は、セルパン(や、その改良楽器バス・ホルンなど)よりも力強くクリア。ただ、ベルから遠い位置にある音孔を開けて出す音は、響きが貧弱なのが欠点です2。倍音を出すために強く吹くと音程が悪くなることも。動画の3重奏を聴くと、確かに現在の金管楽器のパワフルな音とは比べものになりませんし、第一そんなに低くない。でも、柔らかくてなんだか懐かしい響きですね。その後、ヴァルブを備えたテューバに取って代わられますが、フランスではオーケストラや軍楽隊、吹奏楽で1870年以降まで、スペインの教会やイタリアの村の楽隊では、20世紀まで使われたそうです3

  1. Myers, Arnold, ‘Ophicleide,’ The New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., 18, Macmillan, 2001, p. 498.
  2. 前掲書、p. 499.
  3. 同上。
24. 6月 2015 · (242) 真夏じゃなかった!?《真夏の夜の夢》 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

1826年に作曲された、メンデルスゾーンの演奏会用序曲《真夏の夜の夢》((167) 演奏会用序曲と交響詩参照)。序曲のお約束であるソナタ形式の枠組みの中で、シェイクスピアの喜劇の世界、森のざわめきや楽し気な妖精たちなどを描いています。完成時、メンデルスゾーンは17歳でした。結婚行進曲を含む12曲の劇付随音楽は、16年後の1843年にプロイセン王の依頼で作られたもの。

ところで、メンデルスゾーンがこの序曲に付けたタイトルは《Ein Sommernachtstraum》。直訳すると「1つの夏の夜の夢」。真夏という言葉は使われていないことをご存知ですか? 作曲のきっかけとなったのは、1826年に彼が読んだ、シュレーゲルとティークによるシェイクスピアのドイツ語訳1。そのタイトルが《Ein Sommernachtstraum》。真夏ではなくただの(!?)夏。

もちろんシェイクスピアの戯曲のタイトルは《A Midsummer Night’s Dream》ですから、こちらは真夏!と言いたいところですが……。midsummer には真夏、盛夏という意味だけではなく、夏至のころという意味も。Midsummer(’s) Dayと大文字なら、今日6月24日の、洗礼者ヨハネの誕生日の祝日のこと。ヴァーグナーの《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第3幕で歌合戦が行われる、あのヨハネ祭です。

ヨーロッパ各地で古くから行われた、季節を祝う異教の祭、夏至祭。その前夜には、跋扈する悪魔や魔女たちから身を守るためにかがり火が焚かれました。聖人と結びつけられてキリスト教の祝日になった後も、祝日前夜に採取した薬草には特別な薬効があると信じられるなど、超自然なことと結びつけられています2。妖精たちが活躍する戯曲の背景として、夏至前夜はうってつけ。

ただ、夏至を意味するタイトルにも関わらず、夏至ではなく5月1日の五月祭を背景にしているという説も古くからあります3。理由は「5月の祭典 the Rites of May を祝うために起きた」というシーシアスの台詞。五月祭前夜は「ヴァルプルギスの夜」。魔女たちが宴(サバト)を開くとされた夜(ベルリオーズの《幻想交響曲》終楽章の舞台)ですから、こちらも妖精たちがいたずらするお芝居に合います。

いつのことか劇中に記されていないため、6月末か5月初めか、研究者たちの結論は出ていません。でも、いずれにしろ真夏のストーリーではないことは確か。少なくともメンデルスゾーンの序曲は、彼が付けたタイトルである《夏の夜の夢》と呼ぶべきですね。でも、習慣でつい《真夏の……》と言いかけてしまう私。反省。

  1. ウィッタカー、W. ギリス、「メンデルスゾーン:《真夏の夜の夢》序曲 作品21」オイレンブルク・ポケット・スコア(1974)解説、沼野雄司訳、全音楽譜出版、2005、iiiページ。
  2. 八木谷涼子『キリスト教歳時記』平凡社新書、2003、166ページ。
  3. 上記スコア解説で、ウィッタカーは「春の五月祭を背景にしている」と書いています。
03. 12月 2014 · (214) 「イタリア」ではなかった!! メンデルスゾーンの「イタリア」 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: ,

メンデルスゾーンの交響曲第4番イ長調「イタリア」はいかにも南国的だし、恵まれた環境で早くから才能を発揮したメンデルスゾーンのイメージにも重なります。でもご本人は、演奏・出版には改訂が必要と考えていました((213) こんなはずではなかった?!参照)。もしも改訂が実現していれば、特に第1楽章は大幅に変更されるはずだったなんて、ちょっと(かなり?!)ショック! もうひとつ驚いたのは、作曲者が「イタリア」と名付けたのではなかったこと!

メンデルスゾーンが、1830年11月1日から翌年4月10日まで滞在したローマで、この曲を着想・作曲したことは皆さんもご存じでしょう。当時、彼は家族への手紙の中で、この曲を「イタリア交響曲」と呼んでいました1。でもその後、身内に対してもこの呼び名を使わなくなります。1833年5月3日ロンドンでの初演では「交響曲イ長調」、1851年の出版では「交響曲第4番イ長調作品90」だけです。

1829年のスコットランド旅行中に着想を得た交響曲も、同様でした。同年7月30日付けの家族への手紙に「私のスコットランド交響曲の始まりを見つけました」2と書き、イタリア旅行中もそう呼んでいたのですが……。やがてこの名を使わなくなり、1842年3月3日の初演では「交響曲イ短調」、翌年の初版では「交響曲第3番イ短調作品56」のみ。こちらは上記第4番とは異なり生前出版ですから、改訂を終え、作曲者本人が納得した形での出版。彼が自分で、「スコットランド」無しと決めたのです。

作曲者本人は公の場では決して用いず、演奏・出版の際も伏せていたにもかかわらず、「イタリア」「スコットランド」と呼ばれるようになった理由は? メンデルスゾーンの没後、彼の友人たちが旅行と作品を結びつけて語り出しました。たとえば、ベネディクトによるメンデルスゾーンの伝記(1850年)。「イタリア」交響曲はイタリア旅行中の体験から生まれたもので、「イタリアの印象の完璧な縮図」3。さらに、1861年にメンデルスゾーンの『旅行書簡集』が出版され、彼が旅行中、イ短調交響曲を「スコットランド」、イ長調交響曲を「イタリア」と呼んでいたことが明らかに。1875年の旧全集には含まれていなかったこれらのニックネームが、1882年の主題目録に明記されることになります。

出版などの関わりがあるから一時期「ロンドン」と呼ばれたドヴォルジャークの8番((208) 《イギリスと呼んでいたのは日本だけ??参照)とは異なり、メンデルスゾーンのイ長調交響曲は、イタリア旅行中の体験が作曲や構想の明確な出発点。また、この呼び名のおかげで、親しみやすく理解しやすい作品と捉えられています。「イタリア」のニックネームは、この交響曲に無くてはならないもの。ただ、こう呼ぶのは作曲者の意図に反することを、覚えておいてくださいね。メンデルスゾーンは、作曲する際の自分のアイディアを言葉で表現することはできないし、それが可能であったとしても他人に伝えたくない、なぜなら、誤解を引き起こすことはあっても、理解の助けにはならないからと考えていたそうです4

  1. 1831年2月22日付けの手紙。星野宏美『メンデルスゾーンのスコットランド交響曲』音楽之友社、2003、112。
  2. 前掲書、74。
  3. 前掲書、452-53。
  4. 彼の無言歌に関するコメント。前掲書、457。