07. 2月 2013 · (119) わくわくドキドキ、クレッシェンド はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

イタリア語の動詞 crescere(成長する、増大する)の動名詞形クレッシェンド crescendo、cresc. は「だんだん強く」。反対の「だんだん弱く」は、デクレッシェンド(decrescere:減少する、低下する)あるいはディミヌエンド(diminuire:減る)ですね。松葉型の記号も使われます。

このような奏法は、バロック時代には一般的ではありませんでした。この時代の強弱法は、原則としてテラス型(Terassendynamik)。たとえば協奏曲では、全合奏の部分と、独奏者と通奏低音(バロック時代の伴奏方法)奏者のみで演奏する部分で、フォルテとピアノが交代します(図1A)。フーガ書法が用いられる場合は、パートが増えるにつれて段階的に音量が増えます(図1B)。

図1:テラス型強弱法のイメージ

図1:バロック音楽のテラス型強弱法のイメージ

「だんだん」変化するクレッシェンドを意識的かつ効果的に使ったのが、プファルツ選定候の宮廷が置かれたマンハイムで活動した作曲家たち。1743年に候を継承したカール・テオドールは、科学や商業はもちろん芸術のパトロンとして有名で、マンハイムには多くの優れた音楽家が集まりました。 (115) 愛の楽器? クラリネット (2) で書いたように、早い時期からオーケストラにクラリネットが加わっています。

譜例1:ヨハン・シュターミッツ、シンフォニーアニ長調第1楽章

譜例1:ヨハン・シュターミッツ、シンフォニーア ニ長調 第1楽章

彼らはシンフォニーア(初期の交響曲。(15) 交響曲の成長期など、交響曲の誕生シリーズ参照)で、いわゆるマンハイム・クレッシェンドを使いました。中・低音楽器が持続音で支える上で、急激に音量を増やしながら旋律線が上昇し、フォルティッシモに達します(譜例1参照。ここでは楽器数を増やしながらクレッシェンドしています)1

「交響曲」は協奏曲や独唱などと異なり、ソリストたちの妙技を楽しめません。いわば伴奏だけの音楽。観客をいかにして惹きつけるかが、作曲家の腕の見せ所です。マンハイム・クレッシェンドは実に単純な「しかけ」ですが、聴いていてわくわく、次はいつかとドキドキ、始まるとキター!

このような強弱法は、マンハイム宮廷歌劇場の中心演目であったヨンメッリ(1714〜74)などのイタリア・オペラの序曲に前例があり、彼らのオリジナルではありません。でも、規模が大きく名手の多いマンハイム宮廷楽団が演奏することで、より表情豊かで劇的な効果が生まれたのです。「クレッシェンドのダイナミックな力に我を忘れた聴衆は、次第に席から立ち上がった。ディミヌエンドは彼らの呼吸を奪わんばかりであった」そうです2

譜例1のシンフォニーアを聴いてみましょう。フォルテの和音連打で始まり、すぐに譜例1のクレッシェンド主題(ソナタ形式が整う前なので、第1主題とは呼ばないことにします)が続きます。フォルテの和音の後ですから、ピアノから始まるクレッシェンドがいっそう引き立ちます。これと対照的な優雅な新主題は、属調のイ長調(0:53)。クレッシェンド主題は、属調(1:18)と主調(2:30)で、計3回登場。音楽的なまとまりを感じさせる役目も果たしています。

  1. 動画のように、op. 3, no. 2 と呼ばれることが多いようですが、これは再版(1757年)の作品番号。初版(同じ1757年)は op. 2 です。
  2. 石多正男『交響曲の生涯』、東京書籍、2006、133ページ(著者名や資料名無しの引用)。
09. 1月 2013 · (115) 愛の楽器? クラリネット (2) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , ,

オーケストラの4種の木管楽器の中で最も遅く、18世紀初めに誕生したクラリネット((113) 愛の楽器? (1)参照)。名曲を多く残したモーツァルトが、クラリネットを初めて知ったのはいつでしょう?

ヴィーン宮廷楽団に仕えたクラリネットの名手シュタードラーはモーツァルトの3歳上。五重奏曲(1789)や協奏曲(1791)は、彼のために作られました。《セレナード〈グラン・パルティータ〉》(1784)も、彼の演奏会用と言われています。フリーメイソンの盟友でもあり、プラハでの《皇帝ティートの慈悲》初演に友情出演。シュタードラーの優れた演奏技術から、モーツァルトは大きな刺激を受けました。しかし、クラリネットを知ったのはもっと前のことです。

  • 1778年(22歳)の就活旅行の際、パリで、クラリネットを用いた初めての交響曲を作ったとき?

パリのコンセール・スピリテュエルのオーケストラは、当時、モーツァルトが仕えていたザルツブルク宮廷楽団(オーボエ2+ホルン2+弦約20、時にトランペットやティンパニも。この時代の標準的な編成)の、ほぼ2倍。フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット各2+ティンパニ+弦約40の大編成!1 このオーケストラの演奏会用に作られたのが《パリ》交響曲です((11) 旅によって成長したモーツァルト参照)。しかし、クラリネットを知ったのはもっと前。

  • 同じ1778年、パリに向かう前に訪れたマンハイムでクラリネットが入った宮廷楽団に接したとき?

選帝候カール・テオドールが質・量ともに高めたマンハイムのオーケストラ。1758年という早い時期からクラリネット奏者が雇われていて、この楽器がオーケストラで定席を得るのに貢献しました。もしも、マンハイム楽派の祖ヨハン・シュターミッツ(1757年没)作と伝えられるクラリネット協奏曲の帰属が正しいならば、記録が残るよりも前から、優秀なクラリネット奏者が在籍したことになります。ただし、モーツァルトがクラリネットを知ったのはこのマンハイム滞在よりも前。

  • 15歳で初めてクラリネットを用いた作品を書いたとき?

1771年、第2回イタリア旅行中にミラノで作った、弦4部、クラリネット2、ホルン2のための《8声のディヴェルティメント変ホ長調(K.113)》が、彼の初クラリネット入り音楽2。しかし、モーツァルトはさらに前の1764年にクラリネットを使っています。

「西方への大旅行」中に長逗留したロンドンで、モーツァルトは当地で活躍していたアーベルの交響曲op. 7, no. 6を筆写。新しいジャンルである交響曲を学ぶためですね(上記 (11) 参照)3。でも、そのまま写したのではありませんでした。アーベルが書いたオーボエ・パートを、移調してB♭クラリネット用に書き替えているのです 4。このとき彼、8歳。

モーツァルトがクラリネットを初めて知ったのがいつかは、はっきりわかりません。このロンドンでかもしれませんし、あるいは、前年、ザルツブルクを発ったばかりの頃に立ち寄ったマンハイムでという可能性もあります。いずれにしろ、彼はこの新興の楽器が持つ大きな可能性に早い段階で気づき、亡くなる直前に協奏曲を完成するまで、生涯をかけてその魅力を引き出し続けたのですね。

それにしても、今回も「愛」の話は全く出て来ません。タイトルを変更したほうが良さそう……。

  1. 海老澤敏編著『図解雑学モーツァルトの名曲』ナツメ社、2006、21ページ。
  2. この曲には、オーボエ、イングリッシュ・ホルン、ファゴット各2の第2稿が存在。これを、第1稿のクラリネットとホルンに加えると考えると、同じ編成(オーボエ、クラリネット、イングリッシュ・ホルン、ホルン、ファゴット各2)のための2曲のディヴェルティメント(K. 166/159dとK. 186/159b)のように、第3回イタリア旅行のために書かれたことになります。一方、クラリネットが不要と考えると、奏者がいないザルツブルクで演奏するために書き替えられたことになります。竹内ふみ子『モーツァルト事典』東京書籍、1991、319ページ。
  3. ケッヘルは自筆譜に基づいてモーツァルトの交響曲第3番K.18とし、旧全集にも収められました。
  4. アーベルのオーボエ・パートを旧全集のクラリネット・パートと比較してみたところ、数カ所、音が違っていました。他パートとの平行進行を避けるためと思われる所もありましたが、理由がよくわからない変更もありました。

モーツァルトの音楽を読み解くキーワード、「自由音楽家」に続くもう1つは「旅」です。35年という短い一生のうち、1/3近くが旅に費やされました。幼いヴォルフガンクの天賦の才能に気づいた父レオポルトは、それを人々に知らしめ、また正しく伸ばすことが、神に与えられた自分の使命と考えたのです。父が計画した旅行は、ベルリン、アムステルダム、ロンドン、ローマ、ナポリにまで及び、この時代に音楽活動が盛んだった地を網羅しています。

旅の目的は、神童披露→オペラ上演→就活へと変わりますが、ヨーロッパ各地への旅を通してモーツァルトは大きく成長していきます。今回は、交響曲に関連する2つの旅について書いてみます。

「西方への大旅行」と呼ばれる、1763年から3年半に及ぶ旅の目的地の一つロンドンで、モーツァルトは最初の交響曲(1764)を作曲しました。レオポルトが重い病気にかかり、ピアノを弾くことを禁じられたので代わりに作曲をしたと、同行した姉ナンネルが後に回想しています。イタリア風序曲型の「急—緩—急」3楽章構成や、明るくはつらつとした旋律などに、ロンドンで親しくなったヨハン・クリスティアン・バッハ(1735〜82。ヨハン・ゼバスティアンの末子)の影響が、はっきり現れています。ところで、この時モーツァルトは何歳?   1756年生まれだから……?  そうです。わずか8歳! でも、シンプルながらチャーミングな交響曲ですよ1

就活のために1777年から翌年にかけて滞在したマンハイムでは、ヨーロッパ随一と言われた宮廷オーケストラのレパートリーや優秀な管楽器奏者たちに、大きな刺激を受けました。新興の楽器クラリネットが加わった交響曲を聴き、父への手紙に、自分たち(のザルツブルク宮廷オーケストラ)にもクラリネット奏者がいたらなあ!と書いています。その足で向かったパリで、公開演奏会シリーズ「コンセール・スピリテュエル」用の音楽を注文されたモーツァルトは、初めてクラリネットを使った交響曲を作りました。ここのオーケストラにも、クラリネット奏者がいたからです。彼が初めからクラリネットを使った交響曲は、《パリ交響曲》と呼ばれるこの31番と、今回聖フィルが取り上げる39番の2曲だけです。

「旅をしない者は、まったく哀れむべき存在です」と、モーツァルトはパリから父に書き送りました。テレビやCDの無い時代。それぞれに異なった状況を呈していたヨーロッパ各都市の、さまざまな音楽に触れ音楽家たちに接し、それらを吸収しながら、モーツァルトの音楽は育まれていったのです。

  1. モーツァルト作曲交響曲第1番変ホ長調 K. 16の第1楽章 Molto Allegro は、ここから試聴できます。http://www.youtube.com/watch?v=lC6eQdeNOjU&feature=related