表1:楽士の給料リスト(1772年1月。クリックで拡大します)

毎日、牛肉500gとワイン2.8リットル(!!)を飲み食いできるほどの現物など、エステルハージ家の使用人中3番目の高給を得ていた楽長ハイドン((106) ハイドンの給料 (2)参照)。今回は部下の楽士たちに焦点を当てて、エステルハージ家における雇用について考えます。

ぼんじゅーるむっしゅさんが指摘したように((100) ホルン奏者が多い理由へのコメント参照)、パート内の序列と給料の金額は、必ずしも一致しません。6人も登録されているホルン(ドイツ語でWaldhorn=森のホルン)奏者の給料は、3番と4番が最も高額。5番、1番と2番、6番と続きます(表1参照。再々掲)。最高額を得るはずの第1奏者は、4番目。

勤続が長い順? いいえ、この6人中の最古参は5番奏者(1761年採用。残りの5人は、1:1763、2:1767、3&4:1769、6:1772で、採用の順番ですが)。生年はエステルハージ家の資料に記録されていない場合が多いので年齢順かどうかは不明ですが、楽器の演奏技術に対する報酬が、年功序列とは考えにくいですね。

それにしても、1番奏者フランツの給料が高くないのは不思議です。彼は同時代の書物において、当時のヴァルブ無しのナチュラル・ホルンで「高音域も低音域もストップ奏法で半音階をやすやすと吹き……彼に匹敵する奏者はほとんど見つけられないだろう」と評されているそうです1。バリトンやヴァイオリンも弾きましたが、すばらしいホルン奏者であったのは間違いないのですが……。

3番オリーヴァと4番パウエルの給料が高い理由もわかりません。ホルン奏者として契約したものの、2人とも劇場オーケストラでヴァイオリンを担当。ただ、彼らは1764年にプラハで、オーケストラのメンバーとして雇われていました2。1769年にエステルハージで新規採用されたときから100ドゥカート(=417 f 30 Xr)の年棒なのは、経験者だからかもしれません(表1の 34 f 22.5 Xr は、このちょうど1/12です)。

ランドンによると、エステルハージ家の歌手や楽器奏者の給料は、ヴィーン宮廷楽団員の給料の額よりも概して高いそうです3。住み込みで食事付き。光熱費や年間の制服も支給されていました。それに、エステルハージの楽士たちの仕事は音楽だけ。演奏や練習をする以外の時間に、通常の召使いとして仕事をするという条件で楽士を雇う宮廷もありましたから、彼らは恵まれていたのです4

しかもエステルハージ家では、年老いたり病気で働けなくなった雇用人に年金を支給していました5。たとえば、勤続17年の後、耳が不自由になって辞めなければならなかったファゴット奏者ヒンターベルガー(表1では第1奏者ですね)には年額230フロリンと薪6クラフター、彼の死後は未亡人に、150フロリンと薪4クロフターが支給されました。楽士たちは、大の音楽愛好家であるのみならず、福利厚生に関しても時代に先んじた考えを持つ領主の元で、老後を心配せずに働くことができたのです。

それに、楽長は暖かくてユーモアを解するハイドン! 《告別》交響曲のエピソードが物語るように、上司だけではなく部下の楽士たちとの関係も良好で、子どもたちの洗礼式に立ち会ったり、結婚の証人になったり、領主への請願が受け入れられるように助けたりしています。エステルハージ家の楽士にとって、ハイドンの作品に接することとはもちろん、素晴らしい楽長とともに働くことが、大きな喜びであり誇りであったことでしょう。

1枚の給料リストに対する、ぼんじゅーるむっしゅさんの疑問から出発したハイドンの給料シリーズは、図らずも、音楽学研究の少々専門的な一端をご紹介する結果になりました。楽曲の話が全然出て来ない、つまらないコラムと思う方もおられるかもしれませんが、音楽学って曲を分析するだけではないのです。作曲家が置かれていた状況や作品が成立したプロセスも、大事な研究対象。そのような背景まで理解することによって、曲をより深く捉えることが可能になるからです。

  1. H. C. Robbins Landon, Haydn: Chronicle and Works, Haydn at Esterháza 1766-1790. Thames and Hudson, 1978, p. 71.
  2. 同上、p. 76.
  3. 同上、p. 92.
  4. 同上、pp. 92-3.
  5. 同上、pp. 34-5.

おかげさまで、聖フィル♥コラム100回目! いつも読んでくださる皆さま、今、初めて読んでくださっている皆さま、どうもありがとうございます。

毎日、編集者用の統計ページで訪問者数や閲覧数、オンライン中の訪問者数などをチェックしながら一喜一憂。アメリカからは週末を中心に、珍しいところではウクライナからたびたびアクセスがあります。いつも同じ方(方々)でしょうか。ツイートやいいね!ボタンを押してくださる方、お知り合いに紹介してくださる方、どうもありがとうございます。やはり、たくさんの方に読んでいただけると書き甲斐があります。今年11月の2周年、来年11月の3周年を目指して続けますので、どうぞこれからもご愛読くださいませ。

100回目の今回は、私の人生を変えた曲についてです。大学3年の時、ハイドンの交響曲を概観するゼミを受講しました。皆(20人くらい)で手分けして100余曲の基本データ(成立や資料の整理と、各楽章の調性・拍子・速度・小節数・使用楽器とその音域など)をまとめる一方、主要な曲を分担して特徴を調べ、譜例を用いて発表するという内容でした。予め成立年代順にリストアップしていた交響曲を、T先生が受講生の名簿順に機械的に割り当てたところ、私は45番の担当になりました。

《告別》というニックネームで知られる45番。作曲のいきさつは、(55) ハイドンの場合:管弦と管絃 part 3で説明したとおりです。「急―緩―メヌエット―急」の通常の4楽章構成だと思ったら、終楽章が速いまま終わらずに、拍子も調性も速度も異なる音楽が始まり、しかも奏者が次第に減ってしまいます。数あるハイドンの交響曲の中でも、背景や音楽内容が特殊なこの45番が当たる(!!)とは、なんてラッキー!

譜例1:ハイドン作曲 交響曲 Hob. I/45《告別》第4楽章 Adagio

第4楽章後半アダージォは、12声部で書かれています(譜例1)。最初にオーボエ1とホルン2、次にファゴットという具合に、短いソロをした後、ろうそくを吹き消して奏者が退場1。最後まで残るヴァイオリン1と2を弾いていたのは、エステルハージ候お気に入りのイタリア人コンサート・マスター、ルイジ・トマジーニと楽長ハイドン。弱音器をつけたヴァイオリン二重奏が静かに終了し、彼らも退場。真っ暗にという趣向。

ここで疑問に思ったのは、ヴァイオリン奏者の人数でした。4パートのうち、1と3がファースト、2と4がセカンドですが、各パート1人ずつで弾いていたのか、あるいは3と4のパートは複数の奏者から成り立っていたのか。規模については先生もご存知無く、私は翌週まで、当時のエステルハージのオーケストラの編成に関する資料を捜すことになりました。

幸いにも、ランドンの分厚い研究書の中に、この交響曲が作曲された1772年の楽士の月給リストを発見(表1)2。ヴァイオリン奏者は3人だけ!?! でもよく読むと、ヴァイオリンとヴィオラを弾ける者は全部で8名。そのうち2人がヴィオラを担当したとしても、トマジーニとハイドン以外に、ヴァイオリン3と4のパートを2人ずつ演奏できたはずとわかりました。2つのパートを計3人ずつで弾いていたのが弱音器を付けた2人だけに減るなら、寂しい感じが高まり、効果的です。

給料リストを載せた配布資料を見ながら、先生が「他に何かコメントは?」と尋ねてくださったので、ホルン奏者が6人もいる理由を説明しました。「当時は複数の楽器を演奏できる楽士が多かった→ホルン奏者は狩りのお供をする仕事もあり、給料が高かった→(少しでも)ホルンを演奏できる楽士は、最初に契約する際にホルン奏者として契約した」のだそうです(表1の右側に、他にも演奏できた楽器名を加えてあります)。

まるで、事件を解き明かしていく探偵みたい。資料を探して音楽に関する疑問を解決するリサーチって、おもしろいものだなと私が初めて感じたのは、この発表の時でした。これをきっかけに大学院進学を真剣に考え始め、後にはアメリカの大学の博士課程にも進むことになります。

もしも学籍番号が、あるいは受講生の数が1つでもずれていたら、私は《告別》の担当にならなかったはず。奏者の人数についての疑問も持たず、分担に必要な資料だけ読んで発表を終え、大学院には進まず、今頃、全く違う人生を歩いていたことでしょう(実際、後期に発表したもう1曲の方は、番号すら覚えていません)。ほんのわずかの偶然が、私を《告別》に引き寄せ、音楽学の楽しさを教えてくれたのです。そして現在、楽譜を音にする以外にもある音楽のおもしろさを、なるべく多くの人に伝えたくて、こうして毎週コラムを書いています。人生って本当に不思議です。

表1:楽士の給料リスト(1772年1月)クリックで拡大します

  1. チェロ以外は立って演奏していたので、退場も楽でした。(96) オーケストラの楽器配置参照。
  2. H. C. Robbins Landon, Haydn: Chronicle and Works, Haydn at Eszterháza 1766-1790. Thames and Hudson, 1978, p. 91. これは1月の支給額ですが、《告別》の作曲はおそらく同年11月後半です。前掲書、pp. 181-2.
31. 5月 2012 · (83) 天使の角笛、イングリッシュ・ホルン はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , ,

次回の定期では、ドヴォルジャークの交響曲第9番《新世界より》を演奏します。《新世界》といえば、第2楽章の「家路」のメロディーが有名。聖光学院でも、最終下校の校内放送に使われていますね。独奏するのはイングリッシュ・ホルン(フランス語ではコーラングレ cor anglais)。ダブル・リードのオーボエ族(F管)なのに、なぜ「イギリスの角笛」という名前なのでしょうか? まずは生い立ちから。

図1:オーボエ・ダ・カッチャ

1720年頃に中部ヨーロッパで、オーボエ・ダ・カッチャというテノール・オーボエの1種(F管)が使われるようになりました。動物の角のようにカーヴした管に、大きく広がったベルがついています。その外観から、イタリア語で「狩りのオーボエ」を意味する名前がついたのです(図1参照。角→角笛→狩りというつながり)。

オーボエ・ダ・カッチャの本体に洋梨形のベルを付けて新しい楽器を作ったのは、ポーランド西部ブレスラウ(ドイツ語名。ポーランド語ではブロツワフ)の J. T. Weigel と言われています。その後、次第にカーヴがゆるやかになり、1790年頃には「く」の字の形で作られるようになりました(図2参照)。現在のようにまっすぐの形になったのは、1860年頃。

図2:18世紀末〜19世紀前半のイングリッシュ・ホルン

先が広がったオーボエ・ダ・カッチャは人々に、中世以来、宗教画に描かれて来た天使のホルンを思い出させました。だから彼らは楽器をそう呼んだのですが、「天使の」を意味する中世のドイツ語 engellisch はまた、「イギリスの」という意味も持っていたのです(中世ドイツ語で「イギリス」は、Engellant)。「天使の角笛」だったはずなのに、2つの意味が混同されていつの間にか「イギリスの角笛」になってしまいました。というわけで、イギリスとは何の関係もありません。

楽器がカーヴしていたことから「曲がった角笛」を意味する cor anglé と呼ばれ、それが「イギリスの角笛」cor anglais になったという説明も見かけます(日本語版ウィキベディアなど)が、正しくありません。誤用の裏付けになるような綴りの実例が見当たりませんし、1790年頃に「くの字」形の楽器が作られるようになる前から「イギリスの角笛」と呼ばれていたからです1

「イギリスの角笛」という(間違った)名前は、オーボエ・ダ・カッチャが廃れた後も、ホルンとは異なる洋梨型ベルを持つ楽器に使われ続けました。他にもっと良い名称が無かったため、そのまま今日に至ります。意味が混同されなければ、今頃エンジェルズ・ホルンとか、エンジェリック・ホルンと呼ばれていたかもしれませんね。そうだったとしても、牧歌的な暖かみを感じさせる独特の音色が、変わるわけではないのですが。

  1. M. Finkelman, “Tenor oboes: English horn”, New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol.18 (Macmillan, 2001), 282-4、「オーボエ:コーラングレ」『音楽大事典』第1巻(平凡社、1981)、344ページ(署名無し。譜例2はここから引用)、ネット上の Vienna Symphonic Library などを参考にしました。英語版ウィキペディアには、上記 Finkelman を引用した正しい語源が書かれています。
29. 6月 2011 · (35) モーツァルトのホルン協奏曲 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

モーツァルトの協奏曲の中で、鍵盤楽器、ヴァイオリンに次いで多いのは、ホルンのための作品です。1862年のケッヘルの主題目録では、アレグロ2つだけで第2楽章を欠くニ長調が第1番、完成作3つ(いずれも変ホ長調)が2〜4番とナンバリングされました(他に楽章の断片が3つ存在)。しかし現在では、2番→4番→3番→1番の順序で成立したと判明しています1

演奏機会が多い第3番 K.447 は、充実した内容や、特殊な楽器編成(オーボエとホルンの代わりに、クラリネットとファゴットが2本ずつ)から、後期の作品と考えるのが自然です。ところがこの曲は、モーツァルトが1784年2月から亡くなるまで、詳細に書き込んでいた全自作品目録((23) 意外に几帳面だった(!?)モーツァルト参照)に、記入されていません。そのためケッヘルは、目録を書き始める直前の作品と考え、1783年5月27日の日付入りの自筆譜が残る第2番 K.417 の次にしました。

近年、モーツァルトの筆跡研究から1787年成立説が浮上し、それが五線紙の研究によって裏付けられました。この曲の自筆譜と同じ五線紙は、1787年に作曲された《ドン・ジョヴァンニ》だけにしか、使われていなかったのです2。様式研究だけで作品の成立年代を推定するのは、危険なことも多いのですが(もしもベートーヴェンの第3番と第4番の交響曲の作曲年代がわからなかったとしたら、普通は、規模が大きく複雑な3番《エロイカ》の方が、後に作られたと思いますよね)、この曲は推定と実際が一致した例です。モーツァルトが目録に記入しなかった理由は、謎のままです3

4曲のホルン協奏曲はいずれも、ザルツブルク宮廷楽団のホルン奏者だったイグナーツ・ロイトゲープのために作曲されたようです(モーツァルトはライトゲープとも綴っています。その後ウィーンに移り、チーズ商をしながら演奏を続けました)。ヴォルフガンクより20歳以上も年上ですが、2人がとても親しかったことが、第2番の自筆譜の「ろば、牡牛、馬鹿のライトゲープを憐れむ」という表題?献呈辞?や、第1番の終楽章スケッチの「静かに……君、ろば君、元気を出して」と始まる長い書き込みから窺えます。

第4番 K.495 の自筆譜にはふざけた書き込みは見られないものの、黒、青、赤、緑のインクが使われています(図1参照)4。校訂者ギーグリングのように、色の使い分けによって細かいニュアンスを伝えようとしたのではないかと考える研究者もいますが……。上から独奏ホルン、ヴァイオリンI、II、ヴィオラ、オーボエI、II(空白は休みの部分)、ホルン(1段でIとII。独奏ホルン用とともに、変ホ調用に記譜)、一番下がチェロ、バスのパート。当時の標準的なスコアの書き方です。

Hr Concerto

図1 モーツァルトの自筆譜(ホルン協奏曲第4番 K. 495 第2楽章ロマンツァ最終ページ)

  1. (33) シューベルトの未完成交響曲たちで、《未完成》交響曲のナンバリングの混乱についてを書いていたとき、ホルン協奏曲のケースが頭に浮かびました。4曲中3曲が同じ調ですから、もしもナンバリングが正しい順番に変更されていたら、とても面倒なことになっていたでしょう。ケッヘルがつけたジャンル別の旧番号が広く知られているために、未だに「モーツァルトの交響曲は41曲」と思われたりする側面はあるものの((14) モーツァルトが作った交響曲はいくつ?参照)、ナンバリングを変更せず、必要な場合は旧番号をかっこに入れて表記するシステムに感謝!です。
  2. 渡辺千栄子「協奏曲」『モーツァルト事典』、東京書籍、1991。
  3. 1797年という、不思議な日付(モーツァルトの死の6年後)が記入された自筆譜が存在する、第1番ニ長調 K.412/514 (386b)も、推定成立年が大きく変わりました。ミステリーのような研究プロセスは、別の機会にご紹介したいと思います。
  4. Mozart Neue Ausgabe sämtlicher Werke 14-5, ed by Giegling, Bärenreiter, 1987, p. XXIII。Ars_longa氏のご協力に感謝します。