23. 11月 2016 · (296) 英語で何と言うのか? 対向配置について はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , ,

最近はアマ・オケの演奏会でも、対向配置がそれほど珍しくなくなりました。対向配置とは、セカンド・ヴァイオリンが客席から見て舞台の右側(以後、左右は全て客席側から見た方向)に置かれ、左側のファースト・ヴァイオリンと向かい合う配置(以後、ファースト、セカンドは全てヴァイオリン)。ファーストの隣にチェロ、その後ろにコントラバスが位置し、ヴィオラはチェロとセカンドの間です(図1参照)。舞台左側にファーストとセカンドを並べる配置が一般的になる前に、使われました。

図1:対抗配置(弦のみ)

図1:対向配置(弦のみ)

対向配置は、両翼配置、古典配置とも呼ばれます。これらを英語では何と言うのでしょうか? いろいろ探しているのですが、今のところ特定の用語は見つかりません。そもそも「配置」も、(seating)plan、arrangement、layout、position、placement、setting など、いろいろな語が使われます。「2つのヴァイオリン群が指揮者の両脇に」などと説明されるところを見ると、「対向、両翼」配置は、日本独特の用語?!

ただこれを「伝統的な traditional」配置と呼ぶ記事がいくつかありました1。一方、現在一般的な配置は「現代の modern」配置、あるいは「標準的な standard」配置などです2。また、現在の配置を「アメリカ式」、古い配置を「(古い)ドイツ式」と書いたものもありました3

ところで、対向(両翼)配置はいつ頃使われたのでしょうか。古典派時代? 確かにベートーヴェンは、この配置をうまく利用しています。よくあげられる例が、《第九》第2楽章のフガート。右端のセカンドから始まり、ヴィオラ、チェロ、ファースト、コントラバスと、フガート主題が順に左に受け渡されていきます。

セカンドがファーストの隣りに座るのが一般的になるのは、実はかなり最近のことです。既にご紹介したメンデルスゾーンの革命的配置((96) オーケストラの楽器配置、ライプツィヒ、1835参照。左右逆でしたね)や、パリ((174) パリ、1828)、ロンドン((260) ロンドン、1840)の例のように、19世紀もずっと、対向(両翼)配置が使われました。チャイコフスキーの《悲愴》交響曲(1893)で、ファーストとセカンドが1音ずつ旋律を分担する終楽章冒頭(譜例1参照)は、対向配置によりステレオ効果が際立ちます。

譜例1:チャイコフスキー《悲愴》交響曲終楽章冒頭

譜例1:チャイコフスキー《悲愴》交響曲 終楽章冒頭

マーラーが1905年に《第九》を演奏したときの写真(図2)では、指揮者の左側にチェロが見えます。ストコフスキーが1916年3月2日に、フィラデルフィア管弦楽団とマーラーの《一千人の交響曲》のアメリカ初演を行ったときの写真(図3)も、対向配置ですね。そう、20世紀になっても対向配置が使われていたのです。あれれ、現在の配置を始めたのはストコフスキーではなかったかな……?? ((297) 対向配置を変えたのは誰?(298) ストコフスキーの楽器配置に続く4

図2:ベートーヴェン《第九》を指揮するマーラー(ストラスブール、1905)

図2:ベートーヴェン《第九》を指揮するマーラー(ストラスブール、1905)

図3:ストコフスキーとフィラデルフィア管弦楽団(1916)

図3:ストコフスキーとフィラデルフィア管弦楽団(1916)

  1. Huffmann, Larry, “Interviews with Leopold Stokowski,” http://www.stokowski.org や、Marks, Peter, “Divided violins: Sir Adrian would be pleased,” http://musicdirektor-smallgestures.blogspot.jp など。後者は「自分は伝統的配置と呼ぶ」と但し書き付きです。図2、図3も Marks より。
  2. 「現代の」は上記 Marks。「標準的」は Koury, Daniel J., Orchestral Performance Practices in the Nineteenth Century. Univ. of Rochester Press, 1988 など。
  3. Rasmussen, Karl Aage, Laursen, Lasse, “Orchestra size and setting,” trans. by Reinhard, http://theidiomaticorchestra.net.
  4. 漢字のミスを指摘してくださった読者の方、どうもありがとうございます。私、ずっと間違って覚えていました。皆さま、ごめんなさい。
18. 5月 2016 · (280) 主題が3つ!!? ブルックナーのソナタ形式 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , , ,

ブルックナーの交響曲は、第1楽章:ソナタ形式、第2楽章:歌謡的な緩徐楽章、第3楽章:スケルツォとトリオ、そして第4楽章:ソナタ形式の4楽章構成。第8番で緩徐楽章とスケルツォの順番を入れ替えた以外、全部同じです。ブラームスのように、終楽章で突然パッサカリアを使ったりしません(でも、あのパッサカリアもソナタ形式の枠内で作られていましたね。(251) ただのパッサカリアではない!参照)。

ブルックナーのソナタ形式と言えば、3主題ソナタ形式。2連符と3連符を組み合わせた「ブルックナー・リズム」や、ベートーヴェンの《第九》から影響を受けた「ブルックナー・オープニング」と並んで有名です。ソナタ形式は通常、性格が異なる2つの主題で構成しますが、ブルックナーは主題を3つも使うのです(主題1つなら単一主題ソナタ形式。モーツァルトの例は(189) 第1主題=第2主題!?のソナタ形式参照)。

第4番《ロマンティッシェ》第1楽章(第2稿)の場合、第1主題は冒頭のホルン独奏(主調=変ホ長調、譜例参照)、第2主題はヴァイオリンによる「シジュウカラのツィツィペーという鳴き声」を伴うヴィオラの旋律(変ニ長調、練習番号B)、第3主題は弦楽器ユニゾンのアルペジオ上で、ホルンやテューバなどがブルックナー・リズムで下降する旋律(D5度上の変ロ長調、D)。

譜例:ブルックナー作曲 交響曲第4番 第1楽章の3主題

譜例:ブルックナー作曲 交響曲第4番 第1楽章の3主題

展開部(G)の後、Mから第1主題がフルートのしみじみとした対旋律とともに、主調で再現されます。第2主題はOの3小節目から、なんとシャープが5つ必要なロ長調で登場。フラット3つの主調から、ものすごく遠い調です。第3主題は、Qからお約束通り主調で再現。Sからコーダ。長いクレッシェンドの頂点でホルンが第1主題の5度動機を高らかに吹き、第1楽章終了。

3つの主題のうち、第1主題は主調で提示&再現、第3主題は主調の5度上の属調で提示され、主調で再現されています。ということは、通常のソナタ形式の2主題と同じ関係。ここでは第3主題が、従来の第2主題にあたるようですね(表参照。(88) さらに刺激的(!?)により再掲)。

表:ベートーヴェン以降のソナタ形式

表:ベートーヴェン以降のソナタ形式

それでは、遠隔調の変ニ長調で提示され、さらに遠いロ長調で再現される第2主題は何に当たるのでしょうか? ソナタ形式の第1主題から第2主題へ移る部分は「推移」と呼ばれます。例えば長調の曲の提示部では、主調で第1主題を提示した後、第2主題を出す前に属調まで転調し、新しい調で落ち着かなければなりません。ソナチネのような小曲であれば、推移の部分はほんの数小節。でも、規模が大きいと推移も長くなり、その部分の旋律が第1主題に対抗しうる独自の性格を持つ「主題」に昇格(!?!)したわけです。

ブルックナーのソナタ形式は、提示部の主題部間に推移の部分がほとんど無いと言われますが、こんな事情があったのですね。使い古されたソナタ形式の枠組みを守りながら、新しい要素を組み込んだブルックナー。《ロマンティッシェ》終楽章では、第1主題を主調の変ホ短調(P)、第2主題をかなり遠いニ長調(S)で再現。第3主題の再現は省略して、コーダ(V)に進んでいます。

都合により、来週のコラムはお休みします。

27. 4月 2016 · (278) モーツァルトとアマデウス はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: ,

モーツァルトのフルネームはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。でも、ピーター・シェーファーのお芝居でもおなじみの「アマデウス」は、洗礼名に含まれません。ザルツブルグ大聖堂で受けた洗礼の記録(図1参照)に記されているのは、左から:

図1:モーツァルトの洗礼記録

図1:モーツァルトの洗礼記録

  1. (モーツァルトは1756年1月)28日午前10時30分に洗礼を受け、前夜8時に生まれた。
  2. (洗礼名は)ヨハネス・クリュソストムス・ヴォルフガングス・テオフィルス Joannes Chrysost[omus] / Wolfgangus / Theophilus、嫡出子
  3. (両親は)宮廷音楽家レオポルト・モーツァルトとアンナ・マリア・ペルトル
  4. (名付け親は)ザルツブルク市評議委員で商人のヨハネス・テオフィルス・ぺルグマイヤー
  5. (記録者は)同上(ザルツブルク市の司祭レオポルト・ランプレヒト1

ヨハネス・クリュソストムス・ヴォルフガングス・テオフィルス・モーツァルト。長〜い名前のうちの最初の2つは、カトリック教会の慣習に従って付けられたもの。ヨハネス・クリュソストムスは「黄金の口を持つヨハネ」という意味。モーツァルトが生まれた1月27日は、説教がうまい聖ヨハネ(c.349〜407)の祝日でした。モーツァルト自身は、この最初の2つの名前を日常生活で使うことはありませんでしたが。

ヴォルフガングスは、ヴォルフガングのラテン語形。ラテン語で記録されたからですね。「走る狼」という意味で、母方の祖父の名前です。聖ヴォルフガング(c.934〜994)にちなみ、病気になっても死なないようにという願いが込められていたとも2。一方、テオフィルスは洗礼式にも立ち会ったモーツァルトの名付け親の名前。ギリシア語で「神に愛される」という意味。ドイツ語ではゴットリープ Gottlieb、ラテン語ではアマデウス Amadeus になります。

父レオポルトは、息子の誕生を知らせる手紙(Johann Jakob Lotter 宛て)の中で名前をヨハネス・クリュソストムス・ヴォルフガング・ゴットリープと書きました。ご本人はイタリアで、1770年にはヴォルフガンゴ・アマデオ Wolfgango Amadeo、1777年以降はヴォルフガング・アマデ Wolfgang Amadè と名乗っていました。このイタリア語形を気に入っていたらしく、1782年8月3日付のコンスタンツェ・ヴェーバーとの結婚契約書も、ヴォルフガンク・アマデ・モーツァルト Wolfgang Amade Mozart とサインしています。

自分の名前を各国語で使い分けるのは、モーツァルトに限ったことではありません。楽譜出版の際にベートーヴェンも、ルートヴィヒの代わりにイタリア語のルイージ Luigi やフランス語のルイ Louis を使っています。モーツァルトはイタリア語やフランス語のアクセントの書き方に無頓著で、自分の名前も Amadé、Amadè、アクセント無しの Amade が見られるそうです。一方、アマデウス Amadeus は3通の手紙のサインに使われました。ただそれは、彼がふざけてラテン語風に全部に us を付け、ヴォルフガングス・アマデウス・モーツァルトゥス Wolfgangus Amadeus Mozartus と書いたときです3

この「アマデウス」、モーツァルトの死後に使われるようになります。死亡当日(1791年12月5日)、ウィーンの行政官が死亡記録にヴォルフガング・アマデウスと記入。経済的に困窮したコンスタンツェは、皇帝への年金の嘆願書(12月11日付)に故ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの未亡人と記入。役人からの返事にも、同じ名前が使われます(彼女の願いは聞き届けられました!!)。初期の伝記作家たちは、ゴッドリープの名を使っていたのですが、1798年にブライトコプフ&ヘルテル社がアマデウスの名前で全集出版を開始。1810年頃にはアマデウスが支配的に。

ラテン語形の「アマデウス」の方が、イタリア語やフランス語のアマデオやアマデより偉そう?!?  ふざけて使っただけのアマデウスが死後200年間、自分の正式な名前として使われているのを知ったら……。モーツァルト、驚くより喜ぶかもしれませんね(来週はコラムをお休みします。皆さま、良いゴールデン・ウィークをお過ごしください)。

  1. 同上のIdemしか読めませんが、2行目はサイン(か名前の略記)ではないかと思います。
  2. 海老澤敏『モーツァルトの名曲』ナツメ社、2006年、112ページ。
  3. 例えば Steinberg, Michael, ‘Another Word for Mozart,’ For The Love of Music, by Michael Steinberg; Larry Rothe, Oxford University Press, 2006, p.21.
06. 4月 2016 · (275) 《古典交響曲》の古典的でないところ はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , , , ,

前回ご紹介したように、《古典交響曲》はプロコフィエフがハイドン風に作った交響曲です。しかし、ハイドン的ではない点もあります。

まず思い当たるのは、第3楽章がメヌエットではないこと。ベートーヴェンがスケルツォに変えるまで((81) 交響曲の中の冗談参照)、4楽章構成の交響曲の第3楽章は、3拍子のメヌエットでした。もともと急ー緩ー急の3楽章構成だった交響曲をより楽しめるように、当時流行していた踊りの音楽を加えたのでしたね((87) 流行音楽メヌエット参照)。

ところが、《古典交響曲》の第3楽章はガヴォット。古典派より前のバロック時代に組曲などに使われた、フランス起源の舞曲です。トリオが挟まる AーBーA’ の形をしてはいますが、4/4拍子でしかも pesante(重く)。むしろ、ゆっくりながら3拍子の第2楽章が、古典的で優雅なメヌエットに近い音楽です。

第2に、楽器の高音域が使われていること。たとえば、《古典交響曲》ではファースト・ヴァイオリンの最高音はレ。五線の上に加線2本のレの、そのまた1オクターヴ上です。加線6本!

ベートーヴェンは交響曲で、ヴァイオリンのラより高い音を使いませんでした((99) 高音域を使わない理由参照)。ハイドンの時代はさらに、使用する音域が狭かったようです。彼が最後に作った104番の交響曲((158) ハイドンの交響曲は106曲!参照)を調べてみたら、第1楽章の展開部の終わりでソを繰り返し使っているものの、他はほとんど加線2本のレ以下。第3ポジションで弾ける範囲です。フルートも、同じくソまででした(《古典交響曲》では、その上のドが当たり前に使われています)。

でも、何よりハイドンっぽくないところは、転調のし方でしょう。ハイドンの時代は、属調(5度上)、下属調(5度下)、平行調(同じ調号を持つ長調と短調)、同主調(同じ音から始まる長調と短調)などの近親調へ、さりげなく転調しました。ところがプロコフィエフは、平気で(?!?)遠隔調へ移ります。

特に目立つ(?)のが、ニ長調からハ長調への転調。主調であるニ長調ではファとドにシャープがつきますから、ハ長調の主音ドはニ長調に含まれません。ところが、この遠い調への転調をプロコフィエフは第1楽章冒頭でいきなり断行。2小節間の上行アルペジオの序奏に続いて、8小節から成る第1主題を主調のニ長調で提示した後、そのままハ長調で繰り返すのです(主題の「確保」と言います)。

ニ長調からハ長調に転調すると、落ち込む感じがします。主音がレからドに1音下がることだけが理由ではありません、シャープ2つの調から調号無しの調への転調は、(シャープが減ることになるので)フラット方向への移動。これが「ずり落ち」感を強めています。第1楽章第1主題がハ長調で再現される際も同様。

落ち込む感じがずっと続くのが、終楽章の第2主題部(43小節〜)。アルベルティ・バス音型による伴奏の和音は、2小節、ときには1小節ごとに自由に目まぐるしく変化。最低音が「レード♯ーシーラーソ♯ーファ♯ーミーレ♯ーレード♯ード」と順次進行で下るにつれて、和音もどんどん下降していきます。「ハイドンがもし今日生きていたら作曲する」ような交響曲という、プロコフィエフの意図が分かりやすく現れた、この曲の聴きどころです。

30. 3月 2016 · (274) 《古典交響曲》の古典的なところ はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , ,

10日後に迫った聖フィル第14回定期演奏会のオープニングは、プロコフィエフの交響曲第1番ニ長調作品25(これがまた難しくて……という個人的な愚痴は脇に置いておいて)。1891年に生まれたプロコフィエフが、今から99年前の1917年に完成させた音楽。今までに聖フィルが取り上げた中で、最も新しい曲です(今回の2曲目《エスタンシア》は、さらに新しいのですが。(272) (273) 参照)。

別名《古典交響曲》。プロコフィエフは、「ハイドンがもし今日生きていたら、彼が前にやったように、しかし同時に彼の作曲法において何か新しいものを含むように、作曲すると思った。私はそんな古典派様式の交響曲を作りたかったのだ」と語っています1。マーラーが第10番交響曲を未完のまま亡くなったのが1911年。ストラヴィンスキーがロシア・バレエ団のために《春の祭典》を完成したのが1913年。それより後に作られたにもかかわらず、この曲には確かに、ハイドン的(?!)な点がたくさんあります。

  1. オーケストレーション:フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ、弦。トロンボーンとテューバはもちろん、ピッコロやコントラファゴットなども無し。ホルンとトランペットも2つずつ。ハイドンが第2期ザロモン交響曲で完成させた2管編成です ((146) フルートは持ち替えだった:2菅編成完成まで参照)。
  2. 構成:4楽章構成、第2楽章は緩徐楽章。
  3. 調性:主調はシャープ2つの二長調。古典派オーケストラの核である弦楽器が良く響くので、この時代に多用された調です。モーツァルトが彼のおよそ50曲の交響曲((14) モーツァルトが作った交響曲はいくつ?参照)で最も多く使ったのも、ニ長調。第1、第3、第4楽章が主調、第2楽章が属調のイ長調なのも、ハイドン時代の典型。
  4. 長さ:全楽章で10〜15分足らず。交響曲が開幕ベル代わりだった時代、コンサートの枠組みだった時代の長さです((16) 交響曲は開幕ベル参照)。
  5. 和音:3和音(ドミソのような、3度を2つ重ねた3つの音から成る和音)が基本。アルベルティ・バスが使用されています。アルベルティ・バスは古典派時代に鍵盤楽器(例えばフォルテピアノ)などで使われた伴奏法で、ドソミソのような分散和音のパターン。プロコフィエフは第4楽章で、第2主題の伴奏に使用(これがまた超難しくて……という個人的な愚痴も脇に置いておきます)。
  6. 形式:第1、第4楽章はソナタ形式。提示部、展開部、再現部の3部分から成ることや、展開部が提示部や再現部よりもずっと短いことはハイドン的。ソナタ形式の基本形をコラムできちんと説明していませんでしたが、ベートーヴェンが《エロイカ》第1楽章で展開部とコーダを拡大するまで、前者は提示部と再現部のつなぎ、後者は曲を締めくくる、文字通りしっぽに過ぎませんでした。

ハイドンやモーツァルトの交響曲のような、古典派的な要素がたくさん。この時代の、キュートで肩の凝らない交響曲ですが、そこはやはりプロコフィエフ。古典的ではない要素もあります(続く)。

  1. 英文は Redepenning, Dorothea, ‘Prokofiev, Sergey,’ New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 20. Macmillan, 2001, p. 408.
13. 1月 2016 · (267) メモリアル・イヤーの作曲家:パイジェッロ はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

今年は、ジョヴァンニ・パイジェッロの没後200年です。パイジェッロは、ハイドンが生まれた8年後の1740年にイタリアのタラント(タランテラの名前の元になった町)で生まれ、ハイドンが亡くなった7年後の1816年にナポリで亡くなりました。80以上のオペラを作っています。こんな人知らない!という方が(特にオケ奏者には)多いでしょうね。でもパイジェッロの《セビリアの理髪師》は、モーツァルトが《フィガロの結婚》を作るきっかけになりました。

えーっ、《セビリアの理髪師》ってロッシーニじゃないの?!! 確かに《セビリア》はロッシーニの代表作。でも、ロッシーニはモーツァルトが亡くなった翌年(1792年)生まれ。彼の《セビリア》はモーツァルトの生前には存在しません。モーツァルトに影響したのは、パイジェッロの《セビリアの理髪師》。

《セビリアの理髪師》は、フランスの劇作家ボーマルシェの3部作のなかの第1作。《フィガロの結婚》はその後日談です。召使いが機転をきかせて貴族をやりこめるお話ですから、ウィーンでは原作の上演は禁止。オペラ化もかなりの冒険でした。でも、1781年にウィーンに移って以来、イタリア・オペラ上演の機会に恵まれなかったモーツァルトは、台本作者のロレンツォ・ダ・ポンテと組んでリスクを取ります。パイジェッロの《理髪師》の成功を、目の当たりにしていたからです。

パイジェッロが、ペトロセッリーニの台本でオペラにした《セビリアの理髪師》は、彼が宮廷楽長をしていたペテルブルクで1782年に初演。翌1783年8月のウィーン初演後、ここでも大人気でした。86年のシーズン終了までに40回以上も上演されています1。ウィーンの人たちが、《セビリア》の続きである《フィガロ》を早く見たいと望んでいることをモーツァルトは知っていましたから、勝算があったのです。もしもパイジェッロがいなかったら、モーツァルトの代表作《フィガロの結婚》は生まれなかった!?!

パイジェッロは晩年ナポレオンに寵愛されましたが、彼の時代が終わるとともに復位した旧王の不興を買い、1816年不遇のうちに没しています2。同年、24歳のロッシーニが《セビリアの理髪師》を作曲。この大成功で、パイジェッロの同名作品は忘れられることになりました。運命のいたずらですね。

ピアノや声楽を学んだ人は、きっと、パイジェッロの曲を1つご存じですよ。ピアノ学習者が、ベートーヴェンのピアノ変奏曲の(ほぼ)最初に学ぶ《〈うつろの心〉による6つの変奏曲》WoO. 70(1795年。WoO.については (239) ベートーヴェンの作品番号参照)の〈うつろの心〉は、パイジェッロが1788年に作ったオペラ《水車小屋の娘》のなかの二重唱です。パリゾッティは最初の部分を独唱曲にして、イタリア古典歌曲集に収めました。パガニーニなども同じ旋律で変奏曲を作っていますから(1820年)、とても人気がある作品だったのですね。

  1. (268) マンドリンの調弦は?に、このオペラ1幕のカヴァティーナの動画を紹介しています(2016/1/20追記)。
  2. 小林緑「パイジェッロ」『音楽大事典4」平凡社、1982年、1802ページ。
16. 12月 2015 · (264) 飲んだくれでもなかった?! ベートーヴェンの父 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

2015年12月16日は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの245回目の誕生日です。と言いたいところですが、正確には16日が「誕生日と考えられる」ですね。1770年12月17日に、ボンの聖レミギウス教会で洗礼を受けた記録が残っているからです。

幼いベートーヴェンと言えば、酔っぱらった父親に無理矢理ピアノ(この時代の楽器はフォルテピアノと呼ぶべきですが。(49) ベートーヴェンのピアノ参照)を練習させられたというイメージがありませんか。昔読んだ子供向けの伝記などで植え付けられたように思うのですが、これは史実でしょうか?

ベートーヴェンの父ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンは、ボン(ケルン大司教兼選帝侯の居城がありました)の宮廷歌手(テノール)。祖父ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンもバス歌手で、1761年からは宮廷楽長も務めました。職業は世襲の時代。ベートーヴェン、最初は父から音楽を学んだはずです。

実はこのお父さん、生まれた年がわかりません。ボンのどの教会にも、洗礼記録が残っていないのです。父だけではなく、ベートーヴェンの幼い頃もよくわかりません。憶測と作り話はたくさん語られて来ましたが、証明された事実はほとんど無いからです。ベートーヴェンは「いつもピアノのそばに立たされて泣いていた」と伝えられています。ヨハンは激しい気性だったようで、いかにも「ありそう」な話。でも、スパルタ教育の証拠は残っていないのです1

驚いたことに、「酔っぱらった父親」部分も史実では無いそうです。ヨハンが大酒を飲むようになるのは、「妻が亡くなる前のある時期から」2。マリア・マグダレーナが結核で亡くなったのは1787年ですから、ヨハンは、息子の年少時から飲んだくれていたわけではなかったのです。

意外にも(ほとんどの伝記作家の記述とは異なり)、ベートーヴェンが幼い頃の彼の家庭は、それほど貧乏ではなかったそうです。ヨハンは宮廷歌手の仕事以外に、声楽だけではなくピアノやヴァイオリンを教えて収入を得ていました。1780年代半ばまで、彼はそれなりに一家を支えていたのです。

しかしその後、経済状態が悪化。1784年の公式報告にヨハンの声が「とてもひどい」と記されていることから、仕事の手段を失ったと考えられます3。飲酒癖も関係ありそうですね。そして、息子がハイドンに学ぶためにウィーンへ発った翌月、1792年12月18日にボンで亡くなりました。

  1. Kerman, Joseph, Tyson, Alan (with Burnham, Scott G.), “Beethoven,” New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 3. Macmillan, 2001, p. 73.
  2. Ibid., p. 74.
  3. Ibid., loc. cit.
09. 12月 2015 · (263) 「《第九》=年末」は日本だけ? はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

皆さま、今年も《第九》の季節がやってまいりました! サントリー・ホールの12月イヴェント・カレンダーには、《第九》がいっぱい! 18(金)読響、19(土)東フィル、20(日)新日フィル、21(月)日フィル、22(火)読響、25(金)日フィル、26(土)都響、27(日)N響、28(月)と29(火)東響1。複数回の《第九》演奏会が行われるホールは他にも多いですし、ホームページ(以下HP)で今月の《第九》演奏会を数えると、日フィル10回、読響9回、N響5回……。すごい!

先日の新聞に、《第九》は「欧州でも大みそかの演奏例はあるが、恒例どころか年に何度も演奏される曲ですらない」とありました2。既に書いたように、1992〜98年に留学していたボストンでは、暮の《第九》は、噂すら聞いたことがありませんでした。今回、ボストン交響楽団HPで《第九》の演奏記録を検索してみたのですが、1990年から今シーズンまで、41回も《第九》が演奏されていてびっくり。でも、そのうち25回は8月末のコンサート。12月に演奏されたことは、一度も無かったのです3

ウィーン・フィルHPでも過去の演奏記録を検索してみましたが、1990年以降29回の《第九》演奏会のほとんどは、日本を含む本拠地以外のコンサート。12月に演奏されたのは、ベルリンでの1回だけでした4

このように過去のプログラムが公開されているオーケストラHPは少数。ここから先は、今月(2015年12月)の話です。ベルリン・フィル、ロンドン交響楽団、フィルハーモニア管弦楽団、ニューヨーク・フィルの今月のプログラムに、《第九》はありませんでした(ニューヨークもボストンのように、《第九》と年末は関係無いようです)。しかし!!   12月の《第九》演奏会、意外に多く見つかりました。都市のアルファベット順に並べてみると:

  • ベルリン—-ベルリン放送交響楽団:30日、31日。Brandenburgisches Staatsorchester Frankfurt(フランクフルト・ブランデンブルク州立オーケストラとでも訳すのでしょうか?):28日、29日
  • ライプツィヒ—-ゲヴァントハウス管弦楽団: 29日、30日、31日
  • ロンドン—-ロンドン・フィル:9日。ロイヤル・フィル:26日、29日
  • ミュンヘン—-フィルハーモニー管弦楽団:30日、31日、2016年1月2日。ミュンヘン交響楽団:1月1日
  • ウィーン—-ウィーン交響楽団:30日、31日、1月1日

主なオーケストラのHPをざっと調べただけですが、《第九》は大みそかだけではありませんでした5。合唱+独唱+オケと大編成で準備が大変ですから、1回公演ではもったいないのでしょう。というわけで、「《第九》=年末」は日本だけではないようです。ただ、ミュンヘンやウィーンのように1月に入っても続くところも(教会暦の影響と思われます。降誕節は12月25日から1月6日まで)。「《第九》=年末」型、「《第九》=年末年始」型、「《第九》=1年中」型、いろいろですね。

  1. 間の23(水)は《メサイア》、24(木)はオルガンなどのクリスマス・コンサート。いずれもバッハ・コレギウム・ジャパン。
  2. 権敬淑「歓喜の歌 集わせる力」朝日新聞夕刊、2015年12月5日。
  3. 夏のタングルウッド音楽祭の最後を飾る位置づけでしょうか。毎年のように演奏されています。8月以外には、2006年3月にカーネギー・ホールとそれに先立つ演奏会で計5回、2009年11月にマゼールが3回、2012年5月にハイティンクが3回などでした。
  4. 2010年12月5日、ティーレマン指揮。この年は11月末からパリで4回、ベルリンで4回、ベートーヴェンツィクルスの演奏会を開いていて、最後が12月になったようです。
  5. ロンドン以外は、いずれも先に書いたオケの本拠地で行われる演奏会。コンツェルトハウス・ベルリン、ゲヴァントハウス、ガスタイク、ウィーン・コンツェルトハウス。ロンドンは9日ロイヤル・フェスティヴァル・ホール、26日ロイヤル・アルバート・ホール、29日バービカン・ホール。
03. 6月 2015 · (239) opus, WoO, Hess:ベートーヴェンの作品番号 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

ベートーヴェンが作曲した4つのトロンボーンのための《3つのエクヴァーレ WoO 30》をご紹介したら((238)「塔の音楽」)、「WoO って何?」「大文字 O と小文字 o の組み合わせはなぜ?」と質問されました。これはドイツ語で「作品番号の無い作品」を意味する Werke ohne Opuszahl の頭文字。英語なら work without opus number です。ドイツ語では、名詞を大文字で書き始めるのでしたね。これもついダブリュー・オー・オーと読みたくなりますが、ドイツ語ですからヴェー・オー・オー。

ベートーヴェンの作品番号で最も良く使われるのは、もちろん op.。 ラテン語で「作品」を意味する opus(オプス、英語読みするとオーパス)の省略形です。出版社が番号をつけるときに使われます。ですから出版順で、必ずしも作曲順ではありません。

ベートーヴェンは、「一貫性をもって作品番号を付けた最初の作曲家」1。主要な作品に自分で番号を付け、出版しました。いくつかの死後出版も含め、op. は138番(序曲《レオノーレ》第1番)まで。op. 1 の 3つのピアノ・トリオ(1795) のように複数の作品を含む番号もあるので、138番までで172曲分。

かなり多くの作品が出版されたベートーヴェンですが、未出版の作品もたくさん! この未出版=「opus 番号の無い作品」用の番号が、WoO 番号。ゲオルク・キンスキー(1882〜1951)が収集した資料をハンス・ハルム(1898〜1965)がまとめて出版した、いわゆるキンスキー=ハルムの『ベートーヴェン主題目録』(1955)で、WoO 1から205まで整理されました。この中には有名な《バガテル》イ短調 WoO 59も。えっ、そんな曲知らないって?! 別名《エリーゼのために》。ピアノ初心者あこがれのこの曲も、生前は出版されませんでした。

この opus と WoO の他に Hess 番号もあります。ヴィリー・ヘス(1906〜97)が1957年に『旧全集に含まれない作品目録』(1957)を出版。キンスキー=ハルムの WoO 番号1〜205と、その補遺 Anh. 1〜18(Anh. については (237) 参照のこと)とは別に、opus 番号の無い作品を整理。断片的な作品も含め、Hess 番号は1〜335まで。他に、疑わしい作品および偽作を収めた補遺が Hess A 1〜66。キンスキー=ハルムの WoO と重複するものは WoO 番号を使いますが、重複しないものは Hess 番号で示します。

opus、WoO、Hess、キンスキー=ハルムの補遺、ヘスの補遺。ベートーヴェンの作品番号、ややこし過ぎ!などと怒っている場合ではありません。目録化してくれた先人たちに感謝!です。

  1. 大村典子「作品番号」『音楽大事典2』平凡社、1982、967ページ。
27. 5月 2015 · (238) 「塔の音楽」 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: ,

留学中にティーチング・アシスタントとして使った、アメリカの一般教養の音楽の教科書(厚さ3cm、付録CDが8枚!!)。最近、楽書購読(音楽について書かれた英文を読む講座)のテキストとして読んで(読ませて)いたら、「楽器は情報伝達のためにも使われて来た。(中略)音楽家は塔から金管楽器を鳴らすことで時を伝えてきた」という記述がありました1。初期の合奏形態の1つ、「塔の音楽」ですね。ドイツ語で Turmmusik、英語では tower music。いつ、どんな音楽が奏されたのでしょうか。

教会や市庁舎の塔からの奏楽は、ドイツでは16世紀終わりころから18世紀初めころまで、ごく普通の習慣でした2。初めは塔守の、のちには町楽士と市参事会楽士の仕事3。信号、ファンファーレ、コラール(ルター派プロテスタントの賛美歌)、舞曲や、もう少し規模が大きい「塔のソナタ」と呼ばれる器楽曲が、毎日定まった時刻に奏されました。たとえばハレでは3時、11時、19時、土曜日には13時(1571。日の出前の3時を知らせたのはなぜでしょうね??)。4声か5声が一般的で、管楽器、特にコルネット、トランペット、トロンボーンが使われました。

出版された「塔の音楽」もあります。ヴァイオリニストでトランペット奏者であったヨハン・クリストフ・ペーツェル(1639〜94)の《10時の音楽》(1670)もその1つ。ルター派プロテスタント信者だったペーツェルは、1661年から81年までライプツィヒ市の楽士として雇われていました。彼のそのものズバリのタイトルのおかげで、1670年ころライプツィヒでは、10時に「塔の音楽」が奏されたことがわかりますね。2つのコルネットと、アルト、テノール、バスの3つのトロンボーン、あるいは2つのヴァイオリンと2つのヴィオラ、ヴィオローネのための5重奏曲集です。下の動画は、40曲収められた中の第3番。

時を知らせる「塔の音楽」とは異なりますが、ベートーヴェンも塔楽士のために、4つのトロンボーンのための《3つのエクヴァーレ WoO 30》を作曲しました4。ラテン語の aequale (等しい)に由来するエクヴァーレは、同じ種類の楽器あるいは声のための曲。18〜19世紀のオーストリアでは、特にトロンボーン合奏による葬儀用音楽でした5。トロンボーンが古くから教会で用いられていたからですね((42) 神の楽器トロンボーン参照)。1812年10〜11月に、ベートーヴェンが弟を訪ねてリンツに滞在したときに、リンツ大聖堂楽長グレッグルに依頼された作品で、「万霊節(11月2日)のため」という記述も。なお、3曲のうちの第1、3番(3:33〜)は、男声4重唱を加えて1827年3月29日のベートーヴェン自身の葬儀で、また第2番(2:00〜)は男声合唱の形で、1年後のベートーヴェンの墓石除幕式で演奏されたそうです。

  1. Kamien, Roger, Music: An Appreciation, 6th edition, McGraw-Hill College, 1996, p. 13.
  2. Rastall, Richard, ‘Turmmusik,’ New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 25. Macmillan, 2001, p. 928.
  3. 以下、「塔の音楽」『図解音楽事典』、U. ミヒェルス編、白水社、1989、319ページ。
  4. 同上。
  5. 以下、土田英三郎 「管楽器のための室内楽曲」『ベートーヴェン事典』、1999年、185−86ページ。