15. 8月 2012 · (94) モーツァルトとドヴォルジャーク はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , , ,

アマ・オケ演奏会のプログラムは往々にして、「弾ける曲」あるいは「弾きたい曲」を並べるだけになりがち。共通点を持つ曲を組み合わせるとか、全体でストーリーを構成するのは、なかなか難しいのですが……。聖フィル第7回定演のプログラム3曲は、1つのラインで結ばれています。モーツァルトとドヴォルジャークに共通するものは、何でしょう?

答えは、プラハ。ドヴォルジャークはプラハ近郊に生まれ、プラハに建てられた「国民劇場仮劇場」楽団のヴィオラ奏者として、指揮者スメタナの薫陶を受けました((30) スメタナとドヴォルジャーク参照)。《チェコ組曲》ではボヘミアの民族舞曲を用いています((91) フリアントは速くなかった参照)し、《新世界》交響曲は、アメリカから遠い祖国へ送った音楽便りです。

それでは、モーツァルトとプラハの関連は? 《プラハ》というニックネームを持つ交響曲がありますし、今回序曲を演奏するオペラ《ドン・ジョヴァンニ》は、当時モーツァルトが住んでいたヴィーンではなく、プラハの国立劇場で初演されました(図11)。1787年10月29日のことです(1791年には同劇場で《皇帝ティートの慈悲》も初演)。でも、それだけではありません。モーツァルトにとってプラハは、特別な街でした。

1783年、《後宮からの誘拐》の上演以降、一般にもモーツァルトの名が知られるようになっていたプラハ。1786年12月、ヴィーンに次いで《フィガロの結婚》が上演され、大成功! 演奏に立ち会うように招かれたモーツァルト夫妻は、翌1787年1月11日昼にプラハに到着します。昼食後に歓迎の演奏会。さらに、

6時に馬車で……いわゆるブライトフェルトの舞踏会に出かけた。……この人たちがみんな、コントルダンスやドイツ舞曲に編曲されたぼくの《フィガロ》の音楽に合わせて、有頂天になって跳ねまわっているのを、最高にうれしい気持ちで……眺めていた。だって、ここではみんな《フィガロ》の話しかしないんだ。弾いても、歌っても、口笛を吹いても、《フィガロ》ばっかり。《フィガロ》みたいにお客の多いオペラはないし、どこにいっても《フィガロ》《フィガロ》だ。たしかに、ぼくにとってはじつに名誉なことだ!2

17日、夫妻は《フィガロの結婚》上演に列席。19日、モーツァルトが音楽会を開催。このとき初演された交響曲(ニ長調 K.504[第38番])は、《プラハ》と呼ばれるようになりました。また、オペラの中でフィガロが歌う有名なアリア《もう飛ぶまいぞこの蝶々》による即興演奏で、拍手喝采を浴びています。22日、モーツァルト自ら《フィガロ》を指揮。2月8日に帰途につく前、興行師ボンディーニに、次シーズンのための新作オペラを依頼されました。

この機会に作られたのが、《ドン・ジョヴァンニ》です。上演のため、モーツァルトは同年10月4日から再びプラハに滞在。14日に、皇帝ヨーゼフ2世の妹マリア・テレジア皇女と婚約者のプラハ訪問のために催された祝典公演でお披露目するはずが、間に合わず(代わりに、モーツァルトの指揮で《フィガロ》を上演しました)。24日に延期された《ドン・ジョヴァンニ》初演は、歌手の1人が病気になったために29日に再延期。オペラが完成したのは、その前日でした。果たして首尾は? もちろん、大成功!

半年後、改訂版でヴィーン初演。でも、《フィガロ》のように《ドン・ジョヴァンニ》も、ヴィーンではあまり受けませんでした。生地ザルツブルクと同様、フリーランスとして活動していたヴィーン((10) 自由音楽家としてのモーツァルト参照)も、モーツァルトにとってハッピーな街ではなかったのです。

モーツァルトを暖かく迎え、彼の音楽を高く評価し、彼に大成功をもたらしたプラハ。「ぼくは当地で最高の好意と名誉を受けている。……プラハは実に美しい。気持ちのいいところだ」とモーツァルトに書かれたことを、プラハの人々は誇りに思っているでしょう3。モーツァルトとドヴォルジャーク、意外なところで重なり合っているのです。

図1:《フィガロ》や《ドン・ジョヴァンニ》が上演されたプラハの国立劇場

  1. H. C. ランドン『モーツァルト:ゴールデン・イヤーズ 1781ー1791』吉田泰輔訳、中央公論社、1991(原書は1989)、185ページ。
  2. ゴットフリート・フォン・ジャカンへの手紙より(1787年1月15日付、プラハ)。R.マーシャル『モーツァルトは語る』高橋英郎、内田文子訳、春秋社、1994(原書は1991)、372-4ページ。
  3. 前掲書、184ページ。