表1:楽士の給料リスト(1772年1月。クリックで拡大します)

(100) ホルン奏者が多い理由 表1「楽士の給料リスト」(右に再掲)に対する、ぼんじゅーるむっしゅさんからの3つの質問について考えてみましょう。

  1. リスト右側のお金の単位「f」と「Xr」は?
  2. 今の値段にするといくらくらい?
  3. 必ずしも正比例して上下していないが、何の順序か?

まずお金の単位は、fがフロリン、Xrがクロイツァー。1フロリン=60クロイツァー=1グルデン=16グロッシェン1

ハイドンの月給47フロリン50クロイツァーは、楽士の中の最高額(当たり前ですね)。2番目はソプラノ歌手のフリベルト、3番目がコンサート・マスターのトマジーニ。1741年生まれの彼が、1761年5月に従僕(兼楽士)として雇われたときの月給は、わずか12フロリン30クロイツァー 2。10年で、給料が3倍以上に増えました。もちろん、ハイドンも何度か昇給しています3

  • 1761年5月(エステルハージ家アントン候の副楽長として採用):年棒400フロリン(年4回分割)+従僕の食堂で食事をとるか、あるいは食事手当として1日半グルデン受け取ることができる((55) ハイドンの場合参照)
  • 1762年6月(3月18日アントン候死去。弟ニコラウス候が当主に):年棒600フロリンに
  • 1763年5月:年棒782フロリン30クロイツァーに。増額(182グルデン30クロイツァー)は食事手当

182グルデン30クロイツァーは、1年365日毎日、半グルデンずつ受け取った場合の金額です。休暇などの有無にかかわらず、この固定額を保証するということでしょうか。いずれにしろ、わずか2年間で給料は採用時のほぼ倍になりました。1766年に楽長になった時も給料は変わりませんでしたので、表1の1772年の年棒もこの額のはずですが……。47フロリン50クロイツァーを12倍しても、574フロリンにしかなりませんね。年棒の12等分を支給されるわけではなかったのでしょうか? まだ完成しておらず何かと不自由なエステルハーザ宮で過ごす夏の間の方が、エステルハージ家の本拠地アイゼンシュタットで過ごす冬の間よりも、給料が高かったという可能性はあるかしら……?

次に、この月給が今の値段でどれくらいか。これは超難問! 当時、エステルハージ家で購入していた日用品の値段と較べてみましょう(f=フロリン、Xr=クロイツァー)4

  • 肥えた大人の豚1頭(以下同)が10〜12f、小さな豚が6f、猪が4f、雄牛が10〜11f、乳牛が8f
  • アメリカ産ココア1ポンド(=560g。以下同)が1f 36Xr、オランダ産チーズが20Xr、米が10Xr
  • アイゼンシュタットのローカル・ワイン半リットルが1.5〜3Xr、およそ1リットルのビールが2Xr、牛肉1ポンドが4〜5Xr、がちょう1羽が16Xr、卵4個が1Xr
  • ヴィーンの仕立屋で、絹の裏地付き最上級スーツ1着が46f 48Xr、最安値が7f、コートが14〜26f

ということは、ハイドンの月給47フロリン50クロイツァー(=2870クロイツァー)は、およそ、豚や雄牛4頭分、乳牛6頭分、米160kg分、ビール1435リットル分、卵11480個分になります。

今の値段でどれくらいか、近所のスーパー(豚や牛は売っていませんが)で市場調査。米5kgが2500円くらいなので、160kgで80,000円。缶ビール500ml1缶265円で計算すると、1435リットルは約190,000円。卵10個1パック200円として、1148パック分は229,600円。うーん、イメージがわかない……。この比較、あまり意味がありませんでした。

ちなみに、17、18世紀において「700フロリンもあればふつう程度の家庭を維持していけた」が、「700フロリンという額は役職がついた場合で、ふつうの音楽家は400〜500フロリン程度の年収」だったそうです5。エステルハージ家の楽士23人中14人は、リストの額を12倍しても400フロリン以下。はたして彼らは生きていけたのでしょうか。次回に続く。

  1. この時代の通貨は国により地域により様々で、換算もとても複雑です。あまり詳しいことはわかりませんが、フロリンはイタリアのフィレンツェで発行された金貨に由来。一方、グルデンはオランダの貨幣単位(英語ではギルダー)。古オランダ語の意味(「金の」)が示すように、もとは金貨。両者はしばしば入れ替え可能です。ここではすべてフロリンで統一しました。
  2. H. C. Robbins Landon, Haydn: Chronicle and Works, Haydn at Esterháza 1766-1790. Thames and Hudson, 1978, p. 80.
  3. 同書, p. 41.
  4. 同書, pp. 33-4.
  5. 西原稔「音楽家の仕事と収入」『モーツァルト全集1』小学館、1990、74ページ。

おかげさまで、聖フィル♥コラム100回目! いつも読んでくださる皆さま、今、初めて読んでくださっている皆さま、どうもありがとうございます。

毎日、編集者用の統計ページで訪問者数や閲覧数、オンライン中の訪問者数などをチェックしながら一喜一憂。アメリカからは週末を中心に、珍しいところではウクライナからたびたびアクセスがあります。いつも同じ方(方々)でしょうか。ツイートやいいね!ボタンを押してくださる方、お知り合いに紹介してくださる方、どうもありがとうございます。やはり、たくさんの方に読んでいただけると書き甲斐があります。今年11月の2周年、来年11月の3周年を目指して続けますので、どうぞこれからもご愛読くださいませ。

100回目の今回は、私の人生を変えた曲についてです。大学3年の時、ハイドンの交響曲を概観するゼミを受講しました。皆(20人くらい)で手分けして100余曲の基本データ(成立や資料の整理と、各楽章の調性・拍子・速度・小節数・使用楽器とその音域など)をまとめる一方、主要な曲を分担して特徴を調べ、譜例を用いて発表するという内容でした。予め成立年代順にリストアップしていた交響曲を、T先生が受講生の名簿順に機械的に割り当てたところ、私は45番の担当になりました。

《告別》というニックネームで知られる45番。作曲のいきさつは、(55) ハイドンの場合:管弦と管絃 part 3で説明したとおりです。「急―緩―メヌエット―急」の通常の4楽章構成だと思ったら、終楽章が速いまま終わらずに、拍子も調性も速度も異なる音楽が始まり、しかも奏者が次第に減ってしまいます。数あるハイドンの交響曲の中でも、背景や音楽内容が特殊なこの45番が当たる(!!)とは、なんてラッキー!

譜例1:ハイドン作曲 交響曲 Hob. I/45《告別》第4楽章 Adagio

第4楽章後半アダージォは、12声部で書かれています(譜例1)。最初にオーボエ1とホルン2、次にファゴットという具合に、短いソロをした後、ろうそくを吹き消して奏者が退場1。最後まで残るヴァイオリン1と2を弾いていたのは、エステルハージ候お気に入りのイタリア人コンサート・マスター、ルイジ・トマジーニと楽長ハイドン。弱音器をつけたヴァイオリン二重奏が静かに終了し、彼らも退場。真っ暗にという趣向。

ここで疑問に思ったのは、ヴァイオリン奏者の人数でした。4パートのうち、1と3がファースト、2と4がセカンドですが、各パート1人ずつで弾いていたのか、あるいは3と4のパートは複数の奏者から成り立っていたのか。規模については先生もご存知無く、私は翌週まで、当時のエステルハージのオーケストラの編成に関する資料を捜すことになりました。

幸いにも、ランドンの分厚い研究書の中に、この交響曲が作曲された1772年の楽士の月給リストを発見(表1)2。ヴァイオリン奏者は3人だけ!?! でもよく読むと、ヴァイオリンとヴィオラを弾ける者は全部で8名。そのうち2人がヴィオラを担当したとしても、トマジーニとハイドン以外に、ヴァイオリン3と4のパートを2人ずつ演奏できたはずとわかりました。2つのパートを計3人ずつで弾いていたのが弱音器を付けた2人だけに減るなら、寂しい感じが高まり、効果的です。

給料リストを載せた配布資料を見ながら、先生が「他に何かコメントは?」と尋ねてくださったので、ホルン奏者が6人もいる理由を説明しました。「当時は複数の楽器を演奏できる楽士が多かった→ホルン奏者は狩りのお供をする仕事もあり、給料が高かった→(少しでも)ホルンを演奏できる楽士は、最初に契約する際にホルン奏者として契約した」のだそうです(表1の右側に、他にも演奏できた楽器名を加えてあります)。

まるで、事件を解き明かしていく探偵みたい。資料を探して音楽に関する疑問を解決するリサーチって、おもしろいものだなと私が初めて感じたのは、この発表の時でした。これをきっかけに大学院進学を真剣に考え始め、後にはアメリカの大学の博士課程にも進むことになります。

もしも学籍番号が、あるいは受講生の数が1つでもずれていたら、私は《告別》の担当にならなかったはず。奏者の人数についての疑問も持たず、分担に必要な資料だけ読んで発表を終え、大学院には進まず、今頃、全く違う人生を歩いていたことでしょう(実際、後期に発表したもう1曲の方は、番号すら覚えていません)。ほんのわずかの偶然が、私を《告別》に引き寄せ、音楽学の楽しさを教えてくれたのです。そして現在、楽譜を音にする以外にもある音楽のおもしろさを、なるべく多くの人に伝えたくて、こうして毎週コラムを書いています。人生って本当に不思議です。

表1:楽士の給料リスト(1772年1月)クリックで拡大します

  1. チェロ以外は立って演奏していたので、退場も楽でした。(96) オーケストラの楽器配置参照。
  2. H. C. Robbins Landon, Haydn: Chronicle and Works, Haydn at Eszterháza 1766-1790. Thames and Hudson, 1978, p. 91. これは1月の支給額ですが、《告別》の作曲はおそらく同年11月後半です。前掲書、pp. 181-2.
03. 2月 2012 · (66) 再現部は「ただいま」の気持ちで はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , ,

交響曲や室内楽曲、ピアノ・ソナタなどの第1楽章のほとんどは、ソナタ形式で作られています。この定型をご存知ですか。どんなことを考えながら、ソナタ形式の曲を弾いていますか。今回は、ソナタ形式の考え方シリーズの①です。

歌詞に合わせて作曲する声楽曲や、器楽でも小品の場合とは異なり、交響曲のような規模の曲を、音だけで構成するのは難しいですよね。しかも、コンサートの開幕音楽だった頃の「交響曲」は、ほぼ使い捨て((16) 交響曲は開幕ベル参照)。コンサートをたくさん開くには、交響曲がたくさん必要でした。必要に迫られた作曲家たちによる多くのプロセスを経て、経済的で作りやすく聴き映えがするパターンが完成したのです。それを1830年ころ(ベートーヴェンの死後)にソナタ形式と初めて呼んだのは、ドイツの音楽学者 A・B・マルクスと考えられています。

ソナタ形式:(序奏部) 提示部 ― 展開部 ― 再現部 (コーダ)

ソナタ形式は3部分から成ります。ハイドンのころの交響曲は、提示部の前にテンポの遅い序奏部がつくことが多く、展開部が短いのが特徴。18世紀の末ころから、再現部の後にしばしばつくようになったコーダを、ベートーヴェンは第2の展開部として充実させました。《運命》交響曲第1楽章の提示部、展開部、再現部、コーダがそれぞれ124、123、126、129小節で、1:1:1:1の割合なのは良く知られていますね。19世紀には、むしろこの4部分構成が一般的です。

ソナタ形式で大切なのは、調の変化。最初の調(主調と言います)から途中で転調し、また主調に戻って主調で終わるという調のコントラストです。転調するのは提示部の途中。転調先は:

  • 主調が長調の場合 → 5度上の調(たとえば主調がニ長調の場合はイ長調)
  • 主調が短調の場合 → 3度上の調(たとえば主調がニ調の場合はヘ調)

他の調から主調に戻るところが、再現部。この再現部をより印象的にしているのは、調だけではなく、提示部冒頭の主題も再現されること。提示部を繰り返す習慣がかなり後まで残ったのは、大事な冒頭主題を聴く人にしっかり確認してもらうためでしょう(再現に気づいてもらえなかったら悲しいですから)1

というわけで提案。交響曲の第1楽章を以下のように感じながら弾いたらいかがでしょうか。

  1. 最も重要な提示部の冒頭主題:                            しっかりと大事に「よろしくお願いします!」の気持ちで。
  2. 中間の転調部分(楽譜に臨時記号が多くなる):                    旅を楽しみつつ、故郷(主調)も懐かしむ気持ちで。
  3. 冒頭主題が主調で戻って来る再現部:                         旅を終えて「ただいま!」の気持ちで。

特に、3番目の再現部「ただいま!」が大切。聴いている場合は「おかえり!」ですね。全く同じでは芸が無いので、作曲家はほとんどの場合、再現部を提示部と何かしら変えています(強弱、音域や楽器編成の変化、対旋律の追加など)。また、冒頭主題を主調以外の調で出す、偽の再現にもご用心。再現部で「ただいま!」「おかえり!」と感じる習慣をつけると、交響曲に限らず室内楽曲やソナタなど、ソナタ形式の曲を弾いたり聴いたりすることが、いっそう楽しくなりますよ。

  1. 初期の交響曲(ハイドンやモーツァルトなど)で、提示部だけでなく後半も繰り返すのは、ソナタ形式の元になった古い形のなごりです。

貴族ではない職業的(=プロの)楽師が、部屋の外に座って打楽器を演奏している管絃の画像((52) なぜ管弦打楽と呼ばないのか:管絃 part 1)を見て思わずニヤリとした皆さま、笑っている場合ではありません。西洋音楽の世界において今でこそ音楽家は名士ですが、つい200年ほど前まで、作曲家や演奏家の地位はとても低かったのです。

1761年、ヨーゼフ・ハイドンがハンガリーの筆頭貴族エステルハージ家の副楽長になったときの雇用契約書の全14項目は、以下のような内容です1

  1. 楽長ヴェルナーは聖歌隊の音楽を担当するので、彼に服従すること。ハイドンはそれ以外の演奏やオーケストラ全ての指導権を持つ。
  2. ハイドンはエステルハージ家の従僕であるから、それにふさわしい行動をとること。部下の楽員に粗暴な態度をとらず、温和、寛大、率直かつ沈着であること。賓客の前で演奏するときは制服(白の靴下、白のリンネル、かつら)を着用し、本人や楽員全員が揃って見えるようにすること。
  3. 楽員を指導し、彼らの模範になるように不当な親交を避け、飲食、談話に中庸を保ち正しく行動し、平和を保つように部下を感化すること。
  4. 公に命じられた音楽を作曲する義務がある。それらを他の人に与えてはならない。また、許可無く他の人のために作曲してはならない。
  5. 昼食の前後には次の間に控え、公が楽団の演奏を希望されるか否かを伺うこと。希望の場合は楽員に伝え、彼らが時間を守るように注意・確認すること。
  6. 楽員たちの間に不和・苦情が起きたときは、調停すること。
  7. すべての楽譜と楽器を管理し、不注意・怠慢によって破損した場合は責任をとること。
  8. 歌手や団員を訓練すること。また本人も楽器練習に励むこと。
  9. 部下にこれらの義務を守らせられるよう、契約書のコピーを与える。
  10. 規則を遵守し、秩序ある楽団運営をすること。
  11. 年棒は400グルデン。年4回の分割払い。
  12. 従僕たちの食卓で食事をとるか、代わりに食事手当1日半グルデンを受け取ること。
  13. 3年契約とし、満了時に退職を希望する場合は6ヶ月前に届けること。
  14. これらを守るならば3年間の雇用を保証し、楽長に昇進させる可能性もあるが、反するならば公はいつでもハイドンを解雇できる。

ずいぶん細かく厳しく決められていますね。楽員たちに対して粗暴な態度を取らない(第2条)、飲み過ぎずしゃべり過ぎず、楽員たちがけんかしないように感化する(第3条)、もしもけんかが起きたら調停する(第6条)と、似たような内容が繰り返されていますが、これは要するに楽士たちが一般に、粗暴な態度を取ったり争ったりしていたということでしょう。この時代、楽譜は読めるけれど字は書けないというような楽士も多く、演奏会の後に酔っぱらって狼藉を働くこともあったそうです2

私たちは漠然と、音楽家は特別扱いであるようなイメージを持っていますが、ハイドンも料理人や掃除人、庭番、馬番など他の従僕たちと同じ場所で同じ食事をする(第12条)使用人でした。交響曲第45番《告別》(1772)にまつわる有名なエピソードも、彼の立場を映し出しています。

ヴェルサイユ宮殿を模して造営中のエステルハーザ宮はまだ完成しておらず、離宮で過ごすニコラウス公のお供の楽員たちは、ほとんどが単身赴任でした。ところが、6ヶ月の滞在が終わりに近づき、帰郷の日まであと少しという時期になってから、急に公が、滞在を2ヶ月も延長すると言い出したのです。ハイドンは、終楽章の後半で少しずつパートが減っていく交響曲を書きます。弾き終わった奏者が次々と、ろうそくを吹き消して退出し、最後は真っ暗に。作品の意図を汲み取った公は「彼らはみな立ち去った。したがって、われわれもまた去らねばなるまい」と言い、帰郷の命令を下したと伝えられています3

この時期、ハイドンは既に楽長に昇進。公が好んだバリトン(弓で奏する6、7本の弦の他に、9〜22本もの共鳴弦を持つ弦楽器)用のトリオをたくさん作り、時にはヴィオラを弾いてお相手も務めていました。でも、あくまでも従僕。「恐れながら申し上げます」と公に願い出(て、それが叶えられ)るような立場ではなかったのでしょう(それにしても、さすがハイドン! 楽員たちの希望を伝えるための、ウィットに富んだうまい方法でしたね)。

  1. 大宮真琴『ハイドン新版』(音楽之友社、1981)、60〜63ページを要約しました。(10) 自由音楽家としてのモーツァルトで、既に一部ご紹介しています。
  2. 1777年にレオポルト・モーツァルトは、音楽会後に酔った楽士たちが、ザルツブルク宮廷の広間のシャンデリアを壊してしまったと、息子に書き送っています。石井宏『反音楽史』(新潮文庫、2010)、43ページ。
  3. 大宮、前掲書、90〜91ページ。
21. 3月 2011 · (19) 独り立ちする「交響曲」 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , , , ,

17世紀の末に、ウヴェルチュール(フランス風序曲)と対をなすような形でオペラの序曲として誕生した「交響曲」シンフォニーア。オペラやコンサートの開幕を告げる曲にすぎなかった「交響曲」が、ようやく演奏会のメイン・プログラムに昇格する時がやってまいりました。ドイツ人ヴァイオリニストにして目先の利く興行師、ヨハン・ペーター・ザロモン(1745〜1815)がロンドンで行った「ザロモン・コンサート」が、その転換点と考えられます。

ザロモンは、約30年間勤めたエステルハージ家の契約から自由になったハイドンをロンドンに迎え、1791年と翌年に、新作交響曲6曲(93〜98番)を含む彼の作品を中心に据えた、各12回の予約演奏会を開催します。1794年と翌年には、ハイドンの第2期ザロモン交響曲と呼ばれる99〜104番の初演を含む、21回の予約演奏会が行われました。

これらの演奏会は「二部にわかれ、第二部のはじめにハイドンの大序曲、すなわち交響曲が演奏された。この順序は、全部のザロモン演奏会を通じてつねに守られた。これは、遅刻者たちも席に着いて場内がすっかり落ち着いてから、心ゆくまで交響曲を聴かせようという配慮にもとづくものであった」1

メイン・プログラムの一部として真ん中に据えられたとは言え、交響曲は第2部の「序曲」。その後に、独唱や協奏曲が続きます2。しかし、ロンドンの聴衆がハイドンの交響曲を、コンサート最大の呼び物と考えていたのは、第1期最初のザロモン演奏会を報じる新聞記事からも明らかです。

ハイドンによる新しい大序曲(交響曲第96番)は、最大の喝采を浴び(中略)、聴衆は魅了され、満場の希望によって、第2楽章がアンコールされた。つぎに第3楽章をもう一度繰り返すよう熱心に求められた。(後略)3

イギリスでは、庶民も聴くことができる公開コンサートが17世紀末に一般化し、ロンドンはパリと並ぶ音楽の先進地でした。聴衆の耳も、肥えていたことでしょう。会場のハノーヴァー・スクエア・ルーム(1773年〜75年建設)は、800人以上を収容できました4。また、ザロモンが率いたオーケストラは総勢約40名と規模が大きく、表現力も優れていたと思われます。

もちろんハイドンも、聴衆が「ソリストのいない協奏曲」である交響曲を楽しめるように、コンサート・マスターのザロモンを始め、管楽器奏者の独奏をあちこちに織り込んだり、突然の転調やゲネラル・パウゼ、予想を裏切る強弱変化など、ウィットに富む音楽作りを心がけています5。「交響曲を聴きに音楽会へ行く」という発想の大転換は、このような様々な条件が整って初めて可能になったのです。

余談ですが、先の新聞評が示す当時の演奏習慣についても述べておきます。現代の演奏会では、アンコール用の小曲を別に用意するのが慣例ですが、実は、「もう一度」というアンコール(仏語)の語源が示すように、聴衆が気に入ったプログラムの一部を、再び演奏するのが本来の形でした。

ちなみに、聴衆は音楽が気に入ると、曲が終わらなくても拍手することもありました。モーツァルトは父レオポルトに宛てて、《パリ》交響曲初演の際、第1楽章の途中に聴衆のために用意した「しかけ」が、拍手喝采を浴びたと書いています(この「しかけ」がどの部分を指すのかは不明)。後にメンデルスゾーンは、楽章が終わるたびに起こる拍手を嫌って、全楽章が連続して演奏されるヴァイオリン協奏曲やピアノ協奏曲を書きましたが、たしかにロマン派の協奏曲の多くは、第1楽章が終わると拍手したくなりますよね。この、楽章間に拍手する習慣は、20世紀になっても残っていたそうです。

  1. 大宮真琴『ハイドン新版』音楽之友社、1981、125ページ。たとえば、聖フィルが第1回定期演奏会で取り上げた、ハイドンの交響曲第100番《軍隊》の初演時のプログラム(1794年第8回ザロモン予約演奏会。3月31日午後8:00開演、ハノーヴァー・スクエア・ルーム)は、以下のとおりでした。

    第1部
    1. 交響曲(プレイエル、1757〜1831)
    2. 男声歌手のアリア
    3. 弦楽四重奏曲(ハイドン)
    4. 女声歌手の独唱
    5. ハープ協奏曲

    第2部
    1. 交響曲《軍隊》(ハイドン)
    2. 男声歌手の独唱
    3. ヴァイオリン協奏曲(ヴィオッティ、1755〜1824)
    4. 女声歌手の独唱

  2. この第1部と第2部を交響曲で始める形は、ベートーヴェンが《運命》交響曲を初演する際も引き継がれます。これについては、また改めて書きます。
  3. 1791年3月12日付けダイアリー紙。大宮、前掲書、126ページ。
  4. 石多正男『交響曲の生涯』東京書籍、2006年、86ページ。
  5. 実はこの「ソリストのいない協奏曲」(独奏楽器群なしの、伴奏楽器群だけによる協奏曲という意味で「リピエノ・コンチェルト」と呼びます)も、交響曲成立への重要な源の1つです。

交響曲を器楽の最重要ジャンルと捉えている方はもちろん、前回の聖フィル♥コラムで「交響曲』シンフォニーアが演奏会の開幕ベル代わりだったと知った方も、1780年代末に書かれたというこの記述には、いささかショックを受けることでしょう。

「コンサートは(中略)交響曲で始まる。これらは必要悪とみなされている(あなたはとにかく何かを演奏することで、コンサートを始めなければなりません)。そしてこれが演奏されている間、人々はおしゃべりしています」1

「交響曲」が聞こえて来ると、ロビーで談笑していた人々(当時からコンサートは、社交の場でした)は客席に向かい、着席する。しかし、「交響曲」が終わってメイン・プログラムが始まるまでは、おしゃべりしていてもかまわない……。

それでは、18世紀の人々はいったい何を聴くために、コンサートに出かけたのでしょうか。1783年3月23日に、モーツァルトがウィーンのブルク劇場で開いた演奏会を例に考えてみましょう。彼は同月29日付の手紙で、皇帝も臨席し、大成功に終わった自分の演奏会の全プログラムを、父レオポルトに報告しています(カッコ内は補足)。

  1. ハフナー交響曲(第35番)
  2. ランゲ夫人2の独唱。《イドメネーオ》よりアリア『もし私が父上を失い』
  3. モーツァルト独奏によるピアノ協奏曲(第13番)
  4. アダムベルガーの独唱。コンサート・アリア(《話したのは私ではない》)
  5. フィナールムジークよりコンチェルタンテ(《ポストホルン・セレナード》第3楽章)
  6. モーツァルト独奏によるピアノ協奏曲(第5番)
  7. タイバー嬢の独唱。《ルーチョ・シッラ》よりシェーナ『私は行く、私は急ぐ』
  8. モーツァルトのピアノ(即興)演奏。小フーガと変奏曲2曲–パイジェッロとグルックの主題による
  9. ランゲ夫人の独唱。レチタティーヴォとロンド(《お前は知らないのだ》)
  10. ハフナー交響曲の終楽章

現代のプログラム構成に慣れた者にとっては、まず演目の多さに驚かされます(10試合!?)。さらに、交響曲やら独唱やら協奏曲やら即興演奏やら、脈絡のない雑多な内容! 実は、観客の様々な好みに合うよういろいろなジャンルの音楽を盛り込むのが、演奏会の常識でした3。この例からも明らかなように、当時の人々が聴きたかったのはソロ。独唱や、協奏曲の独奏パートや即興独奏をする、ソリストたちの音楽でした。

ハフナー交響曲の初演も、ここでは「非日常」の始まりと終わりを告げる、音楽会の枠組みに過ぎませんでした4。このような価値の低い「交響曲」シンフォニーアの位置づけが変化したのは、ハイドンのいわゆるザロモン交響曲あたりからと考えられています。果たして「交響曲」のメイン・プログラム入りは成るか? 次回はようやく、シンフォニーアから聖フィル第4回定演の曲目に、話がつながりそうです。

  1. 「一般音楽新聞」1800年10月22日号。森泰彦「ヴィーンの森の演奏会」『モーツァルト全集6』小学館、1991、74ページ。日本語訳は石多正男『交響曲の生涯』東京書籍、2006年、221ページより。
  2. 旧姓アロイージア・ヴェーバー、モーツァルトの初恋の相手。
  3. 1つのジャンルの作品だけで演奏会を開いたのは、今年、生誕200年を迎えるリストが最初だと言われています。彼はピアノ・ヴィルトゥオーゾとして絶大な人気を誇っていたので、ピアノ曲だけのリサイタルが可能だったのです。
  4. この音楽会では、ハフナー交響曲の冒頭3楽章の後にメイン・プログラムが置かれ、最後に残りの終楽章が演奏されたというのが定説です。しかし手紙には、最後がハフナー終楽章とは明記されているものの、1曲目はハフナー交響曲としか書かれていません。したがって、冒頭に全楽章が演奏され、しめくくりに終楽章だけがもう一度演奏された可能性もあるのだそうです。海老沢敏『交響曲:華麗なる祝祭の響き』モーツァルト全集第1巻、小学館、1990。

前回のコラム「(14) モーツァルトが作った交響曲はいくつ?」に対してエスプリッコさんからいただいたコメントを読んで、もう少し古典派交響曲が成立するまでの「交響曲」について書きたくなりました。以前、聖フィル・ミニ・レクチャーでも触れたことがありますが、1720〜1810年の間に演奏会に現れた交響曲は、16,558曲にのぼるそうです1。小数点ではありませんよ。一万六千五百五十八曲! これは、全曲または冒頭が記録に残っているものの合計ですから、失われてしまったものを加えると、膨大な数になるはずです。

シンフォニーアというのは、イタリア語でシンフォニーのことです。たとえばベートーヴェンは、交響曲第3番を『シンフォニーア・エロイカ』と記しました(シンフォニーアは女性名詞ですので、後の形容詞も「エロイコ」ではなく「エロイカ」と女性形に変化しています)。ただ、音楽史でシンフォニーアというと、交響曲というジャンルの最も大切な源、およびそこから成長して行く、成熟する前の交響曲を指すのが一般的です2

この16,558曲以上の中で一般に知られているものは、ベートーヴェンの数曲(正確には6番まで)と、モーツァルトの約50曲、ヨーゼフ・ハイドンの約100曲くらいでしょうか。私は、モーツァルトが影響を受けたヨハン・クリスティアン・バッハ((11) 旅によって成長したモーツァルト参照)のシンフォニーアCDを3枚、その兄カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714〜88)のシンフォニーア集を1枚と、サンマルティーニ(1700/01〜75)とヨハン・シュターミツ(1717〜57)のシンフォニーア数曲ずつの音源を持っていますが、これ全部で30数曲3。ハイドンやモーツァルトを加えても、16,558曲の2%にも満たないのです。本当にものすごい数!

これほどたくさんのシンフォニーアや交響曲が作られた理由については、次回のコラムをお楽しみに。ちなみに、ハイドンが最後に作った交響曲は104番ですが、総数は106です。

  1. ラルー編纂『18世紀交響曲主題目録』の収録数。平野昭『ベートーヴェン事典』東京書籍、1999、22ページ。石多正男は「12,350曲以上のシンフォニーアや交響曲があった」と書いています(『交響曲の生涯』東京書籍、2006、302ページ)が、出典が不明であるため、上記の数に訂正しました。
  2. エスプリッコさんが挙げていたヨハン・メルヒオール・モルター(1696〜1765)の「交響曲」も、もちろんこのシンフォニーアですね。
  3. この中の、J. C. バッハのシンフォニーア op. 18−4は、ここから試聴出来ます。ジンマン指揮のCDより、テンポが遅めです。
12. 1月 2011 · (10) 自由音楽家としてのモーツァルト はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

聖フィル第4回定期演奏会では、モーツァルト(1756〜91)の交響曲第39番を取り上げます。彼は1781年からウィーンで、フリーランスの音楽家として活動しました。それまでの音楽家の生き方と、比較してみましょう。

たとえばバッハは1717年以降、宮廷楽長としてケーテン公に仕え、多くの世俗曲を作曲します。新年祝賀用の世俗カンタータ《日々と年を生み出す時は BWV134a》も、1719年元日に演奏されました(『新年の音楽』のコラムでこの曲を思い出せなくて、ごめんなさい!)。しかし、公の結婚相手が音楽に興味が無かったことや、息子たちの大学教育のため、就活を開始。ブランデンブルク辺境伯に献呈した協奏曲集も、その一貫だったと考えられています。第1候補と第2候補が辞退したため、ライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(合唱長)職に無事採用されたものの、激務が待っていました。毎週日曜に行われる礼拝用の教会カンタータの作曲と演奏以外に、教会付属学校での指導や、ライプツィヒ市の音楽監督として、行事用音楽を作曲。口を出す市のおえら方と何度も衝突しつつ、亡くなるまでの27年間、この職に留まりました。

ハイドンも約30年間、エステルハージ侯爵家に仕えます。「制服着用」「食事は召使いの食堂で」などの条件が並んだ契約書(1761年)が物語るように、この時代の音楽家は「料理が得意な召使い=コック」や「庭仕事が上手な召使い=庭師」と同じ、「楽器演奏や作曲が得意な召使い」に過ぎませんでした1。ハイドンが侯爵家との契約から解放されたのは1790年。フリーになったハイドンは、ザロモンに誘われてロンドンで新作交響曲を発表し、大成功します(コラム(19)参照のこと)。

モーツァルトは父レオポルトと同様、生地ザルツブルクの宮廷音楽家で、コンツェルトマイスターとしてオーケストラをまとめたり、教会や宮廷で使われる音楽を作るのが仕事でした。彼が最も望んでいたのはオペラでの成功でしたが、カトリックの直轄統治領ザルツブルクには、オペラ劇場もありません。セレナードやディヴェルティメントなどの、祝祭や娯楽用「機会音楽」を作曲し続ける退屈な日々。ミュンヘンやマンハイム、パリでの就活もうまくいきません。

とうとう1781年に、自分を召使い扱いする上司コロレード大司教と決裂。宮廷音楽家の職を辞し、ヴィーンでフリーランス音楽家として暮らし始めます。主な収入源は、作曲やピアノのレッスンと、自作を披露する予約演奏会。売れっ子作曲家としての人気が下降線をたどる87年に、ようやくヴィーン宮廷作曲家に任命されたものの、4年後に亡くなるまでに、驚くほど多額の借金を重ねることになります。

第39番を含む「三大交響曲」を作曲したのもこの窮乏の時期ですが、音楽は生活の疲れなど全く感じさせませんね。定職を捨て自立した音楽家として生きた、誇り高いモーツァルト。彼の生き方は、召使いであり職人であった音楽家が、独立し自分の意志で自己表現のために作曲する、「芸術家」へと変貌する様を示していると言えるでしょう。