06. 4月 2016 · (275) 《古典交響曲》の古典的でないところ はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , , , ,

前回ご紹介したように、《古典交響曲》はプロコフィエフがハイドン風に作った交響曲です。しかし、ハイドン的ではない点もあります。

まず思い当たるのは、第3楽章がメヌエットではないこと。ベートーヴェンがスケルツォに変えるまで((81) 交響曲の中の冗談参照)、4楽章構成の交響曲の第3楽章は、3拍子のメヌエットでした。もともと急ー緩ー急の3楽章構成だった交響曲をより楽しめるように、当時流行していた踊りの音楽を加えたのでしたね((87) 流行音楽メヌエット参照)。

ところが、《古典交響曲》の第3楽章はガヴォット。古典派より前のバロック時代に組曲などに使われた、フランス起源の舞曲です。トリオが挟まる AーBーA’ の形をしてはいますが、4/4拍子でしかも pesante(重く)。むしろ、ゆっくりながら3拍子の第2楽章が、古典的で優雅なメヌエットに近い音楽です。

第2に、楽器の高音域が使われていること。たとえば、《古典交響曲》ではファースト・ヴァイオリンの最高音はレ。五線の上に加線2本のレの、そのまた1オクターヴ上です。加線6本!

ベートーヴェンは交響曲で、ヴァイオリンのラより高い音を使いませんでした((99) 高音域を使わない理由参照)。ハイドンの時代はさらに、使用する音域が狭かったようです。彼が最後に作った104番の交響曲((158) ハイドンの交響曲は106曲!参照)を調べてみたら、第1楽章の展開部の終わりでソを繰り返し使っているものの、他はほとんど加線2本のレ以下。第3ポジションで弾ける範囲です。フルートも、同じくソまででした(《古典交響曲》では、その上のドが当たり前に使われています)。

でも、何よりハイドンっぽくないところは、転調のし方でしょう。ハイドンの時代は、属調(5度上)、下属調(5度下)、平行調(同じ調号を持つ長調と短調)、同主調(同じ音から始まる長調と短調)などの近親調へ、さりげなく転調しました。ところがプロコフィエフは、平気で(?!?)遠隔調へ移ります。

特に目立つ(?)のが、ニ長調からハ長調への転調。主調であるニ長調ではファとドにシャープがつきますから、ハ長調の主音ドはニ長調に含まれません。ところが、この遠い調への転調をプロコフィエフは第1楽章冒頭でいきなり断行。2小節間の上行アルペジオの序奏に続いて、8小節から成る第1主題を主調のニ長調で提示した後、そのままハ長調で繰り返すのです(主題の「確保」と言います)。

ニ長調からハ長調に転調すると、落ち込む感じがします。主音がレからドに1音下がることだけが理由ではありません、シャープ2つの調から調号無しの調への転調は、(シャープが減ることになるので)フラット方向への移動。これが「ずり落ち」感を強めています。第1楽章第1主題がハ長調で再現される際も同様。

落ち込む感じがずっと続くのが、終楽章の第2主題部(43小節〜)。アルベルティ・バス音型による伴奏の和音は、2小節、ときには1小節ごとに自由に目まぐるしく変化。最低音が「レード♯ーシーラーソ♯ーファ♯ーミーレ♯ーレード♯ード」と順次進行で下るにつれて、和音もどんどん下降していきます。「ハイドンがもし今日生きていたら作曲する」ような交響曲という、プロコフィエフの意図が分かりやすく現れた、この曲の聴きどころです。

30. 3月 2016 · (274) 《古典交響曲》の古典的なところ はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , ,

10日後に迫った聖フィル第14回定期演奏会のオープニングは、プロコフィエフの交響曲第1番ニ長調作品25(これがまた難しくて……という個人的な愚痴は脇に置いておいて)。1891年に生まれたプロコフィエフが、今から99年前の1917年に完成させた音楽。今までに聖フィルが取り上げた中で、最も新しい曲です(今回の2曲目《エスタンシア》は、さらに新しいのですが。(272) (273) 参照)。

別名《古典交響曲》。プロコフィエフは、「ハイドンがもし今日生きていたら、彼が前にやったように、しかし同時に彼の作曲法において何か新しいものを含むように、作曲すると思った。私はそんな古典派様式の交響曲を作りたかったのだ」と語っています1。マーラーが第10番交響曲を未完のまま亡くなったのが1911年。ストラヴィンスキーがロシア・バレエ団のために《春の祭典》を完成したのが1913年。それより後に作られたにもかかわらず、この曲には確かに、ハイドン的(?!)な点がたくさんあります。

  1. オーケストレーション:フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ、弦。トロンボーンとテューバはもちろん、ピッコロやコントラファゴットなども無し。ホルンとトランペットも2つずつ。ハイドンが第2期ザロモン交響曲で完成させた2管編成です ((146) フルートは持ち替えだった:2菅編成完成まで参照)。
  2. 構成:4楽章構成、第2楽章は緩徐楽章。
  3. 調性:主調はシャープ2つの二長調。古典派オーケストラの核である弦楽器が良く響くので、この時代に多用された調です。モーツァルトが彼のおよそ50曲の交響曲((14) モーツァルトが作った交響曲はいくつ?参照)で最も多く使ったのも、ニ長調。第1、第3、第4楽章が主調、第2楽章が属調のイ長調なのも、ハイドン時代の典型。
  4. 長さ:全楽章で10〜15分足らず。交響曲が開幕ベル代わりだった時代、コンサートの枠組みだった時代の長さです((16) 交響曲は開幕ベル参照)。
  5. 和音:3和音(ドミソのような、3度を2つ重ねた3つの音から成る和音)が基本。アルベルティ・バスが使用されています。アルベルティ・バスは古典派時代に鍵盤楽器(例えばフォルテピアノ)などで使われた伴奏法で、ドソミソのような分散和音のパターン。プロコフィエフは第4楽章で、第2主題の伴奏に使用(これがまた超難しくて……という個人的な愚痴も脇に置いておきます)。
  6. 形式:第1、第4楽章はソナタ形式。提示部、展開部、再現部の3部分から成ることや、展開部が提示部や再現部よりもずっと短いことはハイドン的。ソナタ形式の基本形をコラムできちんと説明していませんでしたが、ベートーヴェンが《エロイカ》第1楽章で展開部とコーダを拡大するまで、前者は提示部と再現部のつなぎ、後者は曲を締めくくる、文字通りしっぽに過ぎませんでした。

ハイドンやモーツァルトの交響曲のような、古典派的な要素がたくさん。この時代の、キュートで肩の凝らない交響曲ですが、そこはやはりプロコフィエフ。古典的ではない要素もあります(続く)。

  1. 英文は Redepenning, Dorothea, ‘Prokofiev, Sergey,’ New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 20. Macmillan, 2001, p. 408.
16. 12月 2015 · (264) 飲んだくれでもなかった?! ベートーヴェンの父 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

2015年12月16日は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの245回目の誕生日です。と言いたいところですが、正確には16日が「誕生日と考えられる」ですね。1770年12月17日に、ボンの聖レミギウス教会で洗礼を受けた記録が残っているからです。

幼いベートーヴェンと言えば、酔っぱらった父親に無理矢理ピアノ(この時代の楽器はフォルテピアノと呼ぶべきですが。(49) ベートーヴェンのピアノ参照)を練習させられたというイメージがありませんか。昔読んだ子供向けの伝記などで植え付けられたように思うのですが、これは史実でしょうか?

ベートーヴェンの父ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンは、ボン(ケルン大司教兼選帝侯の居城がありました)の宮廷歌手(テノール)。祖父ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンもバス歌手で、1761年からは宮廷楽長も務めました。職業は世襲の時代。ベートーヴェン、最初は父から音楽を学んだはずです。

実はこのお父さん、生まれた年がわかりません。ボンのどの教会にも、洗礼記録が残っていないのです。父だけではなく、ベートーヴェンの幼い頃もよくわかりません。憶測と作り話はたくさん語られて来ましたが、証明された事実はほとんど無いからです。ベートーヴェンは「いつもピアノのそばに立たされて泣いていた」と伝えられています。ヨハンは激しい気性だったようで、いかにも「ありそう」な話。でも、スパルタ教育の証拠は残っていないのです1

驚いたことに、「酔っぱらった父親」部分も史実では無いそうです。ヨハンが大酒を飲むようになるのは、「妻が亡くなる前のある時期から」2。マリア・マグダレーナが結核で亡くなったのは1787年ですから、ヨハンは、息子の年少時から飲んだくれていたわけではなかったのです。

意外にも(ほとんどの伝記作家の記述とは異なり)、ベートーヴェンが幼い頃の彼の家庭は、それほど貧乏ではなかったそうです。ヨハンは宮廷歌手の仕事以外に、声楽だけではなくピアノやヴァイオリンを教えて収入を得ていました。1780年代半ばまで、彼はそれなりに一家を支えていたのです。

しかしその後、経済状態が悪化。1784年の公式報告にヨハンの声が「とてもひどい」と記されていることから、仕事の手段を失ったと考えられます3。飲酒癖も関係ありそうですね。そして、息子がハイドンに学ぶためにウィーンへ発った翌月、1792年12月18日にボンで亡くなりました。

  1. Kerman, Joseph, Tyson, Alan (with Burnham, Scott G.), “Beethoven,” New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 3. Macmillan, 2001, p. 73.
  2. Ibid., p. 74.
  3. Ibid., loc. cit.
25. 12月 2013 · (165) 交響曲? 協奏曲? サンフォニー・コンセルタント はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , ,

日本語で協奏交響曲と訳されるサンフォニー・コンセルタントsymphonie concertante(仏)。18世紀後半から19世紀にかけてパリやマンハイムなどで流行した、「複数の独奏楽器をもつ交響曲と協奏曲の中間形態」です1。実際には交響曲というよりも協奏曲。ハイドンの、オーボエ・ファゴット・ヴァイオリン・チェロのための協奏交響曲は、ホーボーケンが交響曲第105番(Hob.I:105)に分類しましたが、現在は交響曲の中に含めません( (158) ハイドンの交響曲は106曲!参照)。

バロック時代のコンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲。(59) クリスマスに聴きたい音楽 part 3で、コレッリの《クリスマス・コンチェルト》をご紹介しました)も、複数の独奏楽器を持つ協奏曲です。ただ、似ているのは形だけ。コンチェルト・グロッソではソロとトゥッティの対比が重視されましたが、サンフォニー・コンセルタントではソロ群が中心。カデンツァも付きます。

1767年5月に、出版譜に初めてサンフォニー・コンセルタントの名が使われて以来(実はこの曲、5重奏曲でしたが)、1830年頃までに570曲ほどが作られました(sinfonia concertante や concertante だけのタイトルを含む)2。半数は、フランス人、あるいはフランスで活動した作曲家によるものです。多作の筆頭は、半世紀以上をパリで過ごしたと言われるイタリア人カンビーニ(1746〜1825?)で、なんと82曲! 次いで、マンハイム楽派第2世代カール・シュターミツ(1745〜1801)の、30曲以上。

緩徐楽章を欠く2楽章構成と、通常の協奏曲と同じ急―緩―急の3楽章構成が、ほぼ1:1。緩徐楽章でも、アンダンテよりも遅いテンポ(アダージョなど)は全く使われていないそうです。速い方が、ソリストの妙技披露に向きますものね。耳に快いメロディーが次々と出て来るのは、セレナードやディヴェルティメントなど、当時の「軽い」ジャンルの音楽と似ています。短調の曲は全体のわずか0.5%。古典派時代は圧倒的に長調の曲が多いのですが、交響曲の2.5%と較べても、短調の少なさが際立っています。

独奏楽器の数は、2、3から時に8、9まで。ソロ楽器の組み合わせも様々で、鍵盤楽器の4手連弾(テオドール・フォン・シャハト作)、ハープシコード・ヴァイオリン・ピアノ(ジャン=フランソワ・タプレ)、ピアノ・マンドリン・トランペット・コントラバス(レオポルト・コジェルフ)、2ヴァイオリン・2ヴィオラ・2オーボエ・2ホルン・1チェロ(ヨハン・クリスティアン・バッハ)など、響きが想像しにくいユニークなものも。

モーツァルトは、1778年にパリで作ったフルート・オーボエ・ホルン・ファゴットのための K. Anh.9 (297B)(消失。19世紀半ばに見つかった楽譜は、真作かどうかわかりません)と、翌年のヴァイオリンとヴィオラのための K.364 (320d) を、サンフォニー・コンセルタントと呼びました。一方、同じ1778年にパリで作ったフルートとハープのための K.299(297c) は、複数の独奏楽器を持つのに、ただの(!?)協奏曲。その理由は?

サンフォニー・コンセルタントは本来、独奏楽器の名演奏家(ヴィルトゥオーゾ)たちのための、公開演奏会用の作品でした。チケットを購入すれば、一般市民も楽しめる公開演奏会。複数のソリストの妙技を同時に楽しむことができるサンフォニー・コンセルタントは、メイン・プログラムにうってつけ。モーツァルトは、アマチュアのフルート奏者ド・ギーヌ公爵が娘と一緒にサロンで演奏するために注文した曲と、パリの名高い公開演奏会コンセール・スピリテュエル用の曲とを、はっきりと区別していたのです。

  1. 西原稔「サンフォニー・コンセルタント」『音楽大事典2』、平凡社、1982、1001ページ。
  2. Brook, Barry / Gribenski, Jean, “Symphonie concertante,” New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 24. Macmillan, 2001, 807.
06. 11月 2013 · (158) ハイドンの交響曲は106曲! はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

ハイドンの交響曲は全部で104曲と思っている方、多いですね。小さなことに目くじら立てるなと言われそうですが、やはり気になります。ハイドンが最後に作曲したのは、《ロンドン》というニックネームの104番。でも、これは総数ではありません。ハイドンの交響曲は、初期のコラム((15) 交響曲の成長期)で言及したように、全部で106曲です。

この勘違い、モーツァルトの交響曲とよく似ています。19世紀にケッヘルがナンバリングしたモーツァルトの交響曲番号は未だに広く使われていて(最新のケッヘル目録第6版ではこの番号を除いていますが)、最後に作曲したのは確かに41番《ジュピター》。でも、欠番もありますし、ケッヘル没後に見つかった真作交響曲もあります。総数はおよそ50曲でしたね((14) モーツァルトが作った交響曲はいくつ?参照)。

ハイドンの作品目録(器楽曲は1957年出版)を作ったホーボーケン(大感謝!)が交響曲につけた番号は、H I:1から108まで。そのうち1~104は、実は1908年にブライトコップ社から刊行されたハイドン旧全集の、マンディツェフスキーがつけた番号をそのまま踏襲しています。ホーボーケンが加えたのは、残りの105~108番。

108から除外されるのは、105番と106番。105番は協奏交響曲。18世紀に流行した、複数の独奏者を持つ協奏曲(バロック時代のコンチェルト・グロッソにあたります)で、現在は協奏曲に含めます。一方106番は、第1楽章しか現存しません(1769年に作られたオペラ《漁師の娘たち》の序曲として作曲されたと考えられています1)。

それでは、107番と108番が旧全集から漏れた理由は? 107番は変ロ長調 3楽章構成。1762年以前に作曲された初期の交響曲。ハイドンの交響曲Aと呼ばれます。管楽器パート(オーボエ2とファゴット2)を取り除いた形で、1764年に弦楽四重奏曲作品1の5として出版されたのが混乱のもと。ハイドン存命中に作られたエルスラー目録(ジャンル別。ハイドンの写譜屋ヨハン・エルスラーが、1805年に作製)に弦楽四重奏として記載され、ホーボーケンも弦楽四重奏のカテゴリー(III)の5番に(現在、H III:5は欠番)2

108番は、同じく変ロ長調で1765年以前に作曲されました。こちらはハイドンの交響曲B。オーボエ2、ファゴット1、ホルン2と弦の編成です。1769年にパリで交響曲として出版され、しかもエルスラー目録の交響曲の項に記載されていました。旧全集に納められなかった理由はわかりません。

ところで、モーツァルトの交響曲数が研究者によってまちまちなのに対して、ハイドンの交響曲数はどの資料でも106曲。信頼度が高くない(少なくとも西洋音楽史に関しては)ウィキペディア日本語版にも、106曲と出ています。

でも、ハイドンが交響曲とみなしていたのは、この106曲(当時は協奏交響曲も交響曲の範疇に入っていたので、正確には107曲)だけではなかったはず。エルスラー目録も、当時まだ交響曲というジャンルが確立していなかった状況を反映しています。たとえばフルート1、オーボエ2、ホルン2、ヴァイオリン2と通奏低音のためのスケルツァンド(H II:6)が、シンフォニーアとして記入されていましたし、交響曲グループの最初には、オペラ《薬剤師》(H XXVIII:3)の序曲が記載されていました3

それにしても、モーツァルトにしてもハイドンにしても、一度流布してしまった情報を修正するのは難しいですね。マンディツェフスキーは作曲年代順に番号をつけたのですが、その後の研究で年代が修正された交響曲も少なくありません。というわけで、ハイドンの交響曲総数は106曲(面倒ならいっそ「100曲以上」とでも)、番号は作曲年代順ではないということを、どうぞお忘れなく。

  1. Webster, James, “Haydn.” The New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol.11, Macmillan, 2001, p. 232.
  2. ウィーン宮廷作曲家だったヴァーゲンザイル(1715〜77)の作とする資料もあります。
  3. 大宮真琴『新版ハイドン』音楽之友社、1981、p. 173。
11. 9月 2013 · (150) 歌が不可欠? オーケストラ演奏会のプログラム (1) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

18世紀と19世紀のオーケストラ演奏会のプログラムを比較してみましょう。70年もの時が過ぎているとは思えないほど、よく似ていることに驚かされます。

1、ザロモン予約演奏会、1791年5月27日、ロンドン、ハノーヴァー・スクエア・ルーム

「序曲」=交響曲      (ロセッティ)
女性歌手によるアリア
ヴァイオリン協奏曲     (ザロモン、独奏も)
男性歌手によるアリア
フルートとファゴットのための協奏曲
ーーーーー(休憩)
「序曲」=交響曲      (ハイドン)
「カンタータ」オペラ《哲学者の魂》より(ハイドン)
新しい弦楽四重奏曲     (ハイドン)
女性歌手によるアリア
ペダル・ハープのための協奏曲(アンヌ=マリー・クルムフォルツ、独奏も)
男性歌手によるレチタティーヴォとアリア
「フィナーレ」=交響曲の楽章(ロセッティ)

2、フィルハーモニック協会演奏会、1861年3月18日、ロンドン、ハノーヴァー・スクエア・ルーム

《サウル》から死者の行進、ケント公爵夫人追悼のため(ヘンデル)
交響曲第2番         (ベートーヴェン)
《忠実な妻》からアリア   (パチーニ)
ロマンス          (メルカダンテ)
序曲《オイリアンテ》    (ヴェーバー)
ーーーーー
交響曲第3番《スコットランド》(メンデルスゾーン)
「スティリアのメロディー」より2重唱(ベネディクト)
序曲《ウィリアム・テル》  (ロッシーニ)

1は、(19) 独り立ちする交響曲の註であげた1795年のザロモン予約演奏会と同様に、1番の「売り」であるハイドンの新作交響曲をプログラムの真ん中に据えたもの(交響曲=序曲ですから、休憩後の第2部であろうと、1曲目という位置は譲れません!)。聞いても聞かなくてもよかった「交響曲」が、それを目的に音楽会に来るジャンルに格上げされた、記念すべき演奏会シリーズでしたね。

曲数が多くしかも雑多なのは、この時代、演奏会の数が非常に少なかったから。その、数少ない演奏会を聴きに集まる様々な好みを持つ人々の全てが、何かしらの曲で満足できるようにという配慮です。

2では、曲数は減りましたが、器楽曲と声楽曲が交互に並ぶ構成は変わりません1。ロンドンに限らずライプツィヒやパリでも、オーケストラの演奏会なのに声楽曲が含まれるプログラムは、19世紀後半でもみられます。ヨーロッパの鉄道網が整備されたために、1830年代にはシーズンごとの契約だった出演歌手が、1、2週間ごとに替わるようになったそうですが2。でも、一見よく似た構成に見える上の2つのプログラムには、実は大きな違いがあります。それについては改めて。

  1. 1曲目のハイドンは追悼のために加えられた曲。本来のプログラムは交響曲からでしょう。
  2. Weber, William, The Great Transformation of Musical Taste. Cambridge University Press, 2008, p. 264.
19. 6月 2013 · (138) 弦楽四重奏:不公平な編成はなぜ? はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , , , ,

各パートを1人で演奏する音楽である室内楽の中で、最も重要でレパートリーも多いのが、弦楽四重奏曲。ヴァイオリン2人にヴィオラとチェロが1人ずつ。弦楽五重奏やピアノ五重奏などと違って、弦楽四重奏の編成は必ずこの組み合わせと決まっています。

弦楽器って4種類あるのだから、4重奏ならヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス各1の方が自然ですよね。でもそうではなく、ヴァイオリンが2人。その分コントラバスは入れてもらえない。不公平! 以前書いたように、弦楽器の中でコントラバスだけがヴィオール属の血を色濃く残していますが((31) 仲間はずれはだれ?参照)、それが理由ではありません。

「弦楽四重奏の父」ハイドンがこの(不公平な)編成で作曲したいきさつについて、グリージンガーは伝記の中で以下のように述べています。「フュルンベルク男爵という人が、ときどきちょっとした音楽を演奏させるために、彼の主任司祭、管理人、ハイドン、そしてアルブレヒツベルガーを招いた。男爵はハイドンに、この4人のアマチュアが演奏出来るような曲を何か作るようにリクエストした。当時18歳だったハイドンはこれを受けて、彼の最初の弦楽四重奏曲 op. 1, no. 1 を考案した。それが世に出るや否や、世間一般に良く受け入れられたので、ハイドンは思い切ってこの形でさらに作曲した」1

えーっ、たまたまヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ1が集まったから、このジャンルが生まれたということ?!? もしも集まった4人のうちの3人がチェリストだったら、ハイドン(とその後)の弦楽四重奏はヴァイオリン1、チェロ3の編成になっていたかもしれないの?!? まさか、そんなはずありませんよね。彼がこの編成のジャンルを「考案」したわけではありません。ちなみに、ハイドンが最初期の弦楽四重奏曲10曲を作ったのは、1757〜62年頃。20代後半です2。18歳なんて、グリージンガーさんサバ読み過ぎ!

不公平な編成の理由は、バロック音楽の通奏低音の中に見つかります。低音旋律楽器と鍵盤楽器の左手が、低音旋律を演奏するのでしたね((132) 楽譜どおり演奏しても足りない場合参照)。前者にはチェロやファゴットだけではなく、コントラバスも含まれます。つまり、チェロとコントラバスは同じパートを演奏していたのです。だから、各パート1人の室内楽ではコントラバスはあぶれて(?!)しまいました。

それならなぜ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの弦楽3重奏が主流にならなかったのでしょうか。この理由もバロック音楽のトリオ・ソナタの中に見つかります。トリオとカルテットじゃ1人違う……のではなく、トリオ・ソナタの演奏者も4人でしたね((135) トリオはトリオじゃなかった?参照)。最も一般的だったのは、ヴァイオリン2つとチェロ、チェンバロという組み合わせ。

実はこのトリオ・ソナタは、弦楽四重奏の主要な先駆形態のうちの1つ。2パートのヴァイオリンのかけあいをチェロとチェンバロの通奏低音が支えていたのですが、このバロック時代の伴奏習慣は次第に廃れていきます。チェンバロ(の右手)に代わって、旋律と低音の間を埋めるために使われるようになったのが、ヴィオラ(ようやく登場! (37) ヴィオラはえらい?参照)。でも、ヴィオラ1つで和音充填するのはかなり難しい。そのため、ヴァイオリン1は旋律、2はヴィオラとともに伴奏という分業が普通に。

というわけで、弦楽四重奏の編成が不公平なのは、バロック時代のトリオ・ソナタがご先祖様の1つだったから。もう1つのご先祖様については、また改めて。

  1. Jones, David Wyn, “The Origins of the Quartet” The Cambridge Companion to the String Quartet. Cambridge University Press, 2003, p. 177(グリージンガーの『伝記』の英訳が引用されている)。大宮真琴はアルブレヒツベルガーを有名な対位法家本人と書いていますが(大宮真琴『ハイドン』音楽之友社、1981、44ページ)、Jonesはその兄弟のチェリストとしています。
  2. Jones, 前掲書、178。
12. 12月 2012 · (111) 《第九》とトルコ行進曲 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , , ,

《第九》終楽章にはトルコ風の音楽が含まれています。独唱や合唱が「歓喜に寄す」を第3節まで歌った後、急に静かになるところ。ファゴットとコントラファゴット、大太鼓が、低い音域でぼわっ、ぼわっと出て、シンバルとトライアングルも加わる八分の六拍子「行進曲風に」のところ。これは、メヘテルハーネによるトルコ音楽(のパロディ)です。

16世紀前半から18世紀後半まで、オスマン帝国はヨーロッパにとって大きな脅威でした。ヴィーンも1529年と1683年の2度、包囲されています。メヘテルハーネは、そのオスマン帝国の精鋭部隊イェニチェリ(トルコ語で「新しい軍隊」)が伴った軍楽隊。士気を鼓舞したり、儀式でスルタンの威光を表したりするのに使われました。図1は、1720年にオスマン帝国の宮廷画家によって描かれた細密画です。色とりどりのコスチュームが鮮やか。しかも大編成!

図1:メヘテルハーネ(Abdulcelil Levni, 1720)クリックで拡大します

右側のパネル中央に黒い管楽器ズルナ(チャルメラのようなダブル・リード属)奏者が8人、続いて2つ一組の小型太鼓ナッカレが5人。左側のパネルでは、胴がオレンジ色の大太鼓ダウルが8人、その後ろにズィル(シンバル)が6人、パネル左端にボル(トランペット)が6人。向こう側には、2つ一組の鍋形太鼓キョスが3人も。ズィルとナッカレは宗教的な用途でも使用されたそうです1

メヘテルハーネは、大音量のエキゾティックな音色と、目をひくコスチュームでヨーロッパの人々に大きなインパクトを与えました。18世紀半ば、各国の軍楽隊はトルコの楽器を加え始めます。まず大太鼓。その後、シンバルとトライアングル。18世紀末にはターキッシュ・クレセント(1番上に三日月型の飾りがついている、錫杖のような打楽器)も。ピッコロも付きものでした。

この響きと、1拍目の強いアクセントを利用した音楽が流行します。《第九》のようにオーケストラに大太鼓やシンバル、トライアングルを入れたのが、モーツァルトの《後宮からの逃走》序曲や、ハイドンの交響曲第100番《軍隊》(聖フィル第1回定期で演奏しました)。

打楽器を使わない例も。モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番の終楽章では、弦楽器の弓の木の部分で演奏するコル・レーニョ奏法を用いて打楽器を模しています。有名なモーツァルトのトルコ行進曲(実はピアノ・ソナタの終楽章)でも、左手が Alla Turca(トルコ風)。長調部分では、アルペジオの装飾音で1拍目が強調されます。

ただ《第九》の八分の六拍子の部分は、シンバル、トライアングル、大太鼓を単なる東洋趣味として取り入れたのではないでしょう。「走れ、はらからよ、君たちの道を、喜び勇んで、勇士が勝利へと向かうように(土田英三郎訳)」という歌詞の、戦いや勝利のイメージとリンクさせているように思われます。

メヘテルハーネの響きのサンプルとして、最もポピュラーな《ジェッディン・デデン Ceddin Deden》の動画をあげます。祖父も父もみんな英雄だったという歌詞。中央にキョス(行軍ではないので、床に置いています。叩き方にも注目。図1の動きですね)。左側にターキッシュ・クレセントを鳴らしながら歌う人々、奥にズルナ。1分過ぎくらいから右側にナッカレ、ズィル、ダウルも見えます。イェニチェリは1826年に廃止され、その後、ヨーロッパの軍楽が逆輸入されたため、メヘテルハーネの音楽は残念ながら、このような博物館的存在になってしまったそうです2

  1. Pirker ’Janissary music,’ The New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., 12, Macmillan, 2001, p. 801.
  2. 柘植元一「メヘテルハーネ」『音楽大事典5』平凡社、1983、2515ページ。他に、小泉文夫記念資料室ホームページの「アジアの楽器図鑑」を参考にしました。

表1:楽士の給料リスト(1772年1月。クリックで拡大します)

毎日、牛肉500gとワイン2.8リットル(!!)を飲み食いできるほどの現物など、エステルハージ家の使用人中3番目の高給を得ていた楽長ハイドン((106) ハイドンの給料 (2)参照)。今回は部下の楽士たちに焦点を当てて、エステルハージ家における雇用について考えます。

ぼんじゅーるむっしゅさんが指摘したように((100) ホルン奏者が多い理由へのコメント参照)、パート内の序列と給料の金額は、必ずしも一致しません。6人も登録されているホルン(ドイツ語でWaldhorn=森のホルン)奏者の給料は、3番と4番が最も高額。5番、1番と2番、6番と続きます(表1参照。再々掲)。最高額を得るはずの第1奏者は、4番目。

勤続が長い順? いいえ、この6人中の最古参は5番奏者(1761年採用。残りの5人は、1:1763、2:1767、3&4:1769、6:1772で、採用の順番ですが)。生年はエステルハージ家の資料に記録されていない場合が多いので年齢順かどうかは不明ですが、楽器の演奏技術に対する報酬が、年功序列とは考えにくいですね。

それにしても、1番奏者フランツの給料が高くないのは不思議です。彼は同時代の書物において、当時のヴァルブ無しのナチュラル・ホルンで「高音域も低音域もストップ奏法で半音階をやすやすと吹き……彼に匹敵する奏者はほとんど見つけられないだろう」と評されているそうです1。バリトンやヴァイオリンも弾きましたが、すばらしいホルン奏者であったのは間違いないのですが……。

3番オリーヴァと4番パウエルの給料が高い理由もわかりません。ホルン奏者として契約したものの、2人とも劇場オーケストラでヴァイオリンを担当。ただ、彼らは1764年にプラハで、オーケストラのメンバーとして雇われていました2。1769年にエステルハージで新規採用されたときから100ドゥカート(=417 f 30 Xr)の年棒なのは、経験者だからかもしれません(表1の 34 f 22.5 Xr は、このちょうど1/12です)。

ランドンによると、エステルハージ家の歌手や楽器奏者の給料は、ヴィーン宮廷楽団員の給料の額よりも概して高いそうです3。住み込みで食事付き。光熱費や年間の制服も支給されていました。それに、エステルハージの楽士たちの仕事は音楽だけ。演奏や練習をする以外の時間に、通常の召使いとして仕事をするという条件で楽士を雇う宮廷もありましたから、彼らは恵まれていたのです4

しかもエステルハージ家では、年老いたり病気で働けなくなった雇用人に年金を支給していました5。たとえば、勤続17年の後、耳が不自由になって辞めなければならなかったファゴット奏者ヒンターベルガー(表1では第1奏者ですね)には年額230フロリンと薪6クラフター、彼の死後は未亡人に、150フロリンと薪4クロフターが支給されました。楽士たちは、大の音楽愛好家であるのみならず、福利厚生に関しても時代に先んじた考えを持つ領主の元で、老後を心配せずに働くことができたのです。

それに、楽長は暖かくてユーモアを解するハイドン! 《告別》交響曲のエピソードが物語るように、上司だけではなく部下の楽士たちとの関係も良好で、子どもたちの洗礼式に立ち会ったり、結婚の証人になったり、領主への請願が受け入れられるように助けたりしています。エステルハージ家の楽士にとって、ハイドンの作品に接することとはもちろん、素晴らしい楽長とともに働くことが、大きな喜びであり誇りであったことでしょう。

1枚の給料リストに対する、ぼんじゅーるむっしゅさんの疑問から出発したハイドンの給料シリーズは、図らずも、音楽学研究の少々専門的な一端をご紹介する結果になりました。楽曲の話が全然出て来ない、つまらないコラムと思う方もおられるかもしれませんが、音楽学って曲を分析するだけではないのです。作曲家が置かれていた状況や作品が成立したプロセスも、大事な研究対象。そのような背景まで理解することによって、曲をより深く捉えることが可能になるからです。

  1. H. C. Robbins Landon, Haydn: Chronicle and Works, Haydn at Esterháza 1766-1790. Thames and Hudson, 1978, p. 71.
  2. 同上、p. 76.
  3. 同上、p. 92.
  4. 同上、pp. 92-3.
  5. 同上、pp. 34-5.
08. 11月 2012 · (106) ハイドンの給料 (2) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

ふつう程度の家庭を維持するのに年700フロリン必要なのに、エステルハージ家の楽士23人中14人の年棒は400フロリンかそれ以下((105) ハイドンの給料 (1) 参照)。どうやって生活していたのでしょうか。

宮廷楽士は基本的に「制服支給+食事付き+住み込み」でした。定職につけず食うや食わずの楽士も多かったのですから、たとえ給料が少なかろうと、衣食住が保証されていればそれで十分。宮廷全体の中では楽士は高いポストとは言えなかったものの、公募やオーディションに合格して宮廷に就職することは、楽士にとってあこがれでした。

エステルハージ家では臨時収入も。ニコラウス候は、非常に満足できるオペラ公演や演奏会の後、ハイドンや楽士たちにドゥカート金貨を与えることもあったそうです。ハイドンは10年間で260ドゥカートほど賜りましたが、これがざっと1126フロリン! 1

さらに、現金だけでなく時にはそれを上回る現物支給があったのです! 生活必需品が現物で支給されるのが、当時の給与体系でした。1773年にアイゼンシュタット(エステルハージ家の本拠地)の宮廷礼拝堂オルガニストが亡くなり、冬の間はハイドンが代理オルガニストを務めることになります。彼は、その分の給料の現物払いを希望しました。表1は、現金支給額(1763年から変わらず)を含む内訳です2

表1:エステルハージ家での年棒

この表ではフロリンではなくグルデンで書かれていますが、価値は同じです。小麦などの単位1メッツェンは3.44リットル3。1ポンドは560グラム。薪の単位1クラフターは約1.8mのようです。ワインなどの単位1アイマーは、オーストリアでは56.5リットル。この表で調理用香辛料と書いてある欄には、レンズ豆や大麦、セリモナ粉などの穀物が含まれます。野菜とはキャベツやビート。最後の豚は、1頭の誤りです。この他に、馬2頭分の飼料も支給されました(つまり、ハイドンは馬を2頭所持していたということ?)。

1年分とはいえすごい量です。1日につき牛肉500gとワイン約2.8リットル(56.5 × 18 ÷ 365)!! 当時、肉などありつけない人も多かったのではないでしょうか。それに、ワインが水代わりだったとしても、朝昼晩にボトル1本ずつ飲んでも、まだ余りますね。これらすべてを現金に換算すると179フロリン13クロイツァーで、現金との合計額は961フロリン45クロイツァー。ハイドンは、領地管理人(現金2200フロリン+現物支給400フロリン以上)と常任医師(現金2200フロリンのみ)に次ぐ、エステルハージ宮で3番目の高給を得ることになりました(もしもオルガニストを勤められない時には、自費で代理を頼まなければならないという条件付きですが)。

この現物支給の量は、扶養家族の人数によって変わるようです。表1のグリースラーは、1761年に34才で採用されたバス歌手兼ヴァイオリン奏者(1772年の給料リストには含まれていませんね……)。現金支給額はハイドンよりもずっと少ないのに、小麦・ライ麦などは、ハイドンよりも多く支給されています。家族が多かったのでしょう(娘が3人以上いたことは確かです)。塩、バター、野菜はハイドンと同量。ハイドンよりも量が少ないろうそく、薪、ワインは、贅沢品だったと言えそうです。

ハイドンの給料を今の日本の金額にうまく換算することはできませんが、当時としてはかなり恵まれていたようですね。彼以外の楽士たちも同様です。仕事内容や規則が細かく定められた窮屈な宮仕えであったにせよ、従僕としてそれは当然のことでした(3つ目の質問、何の順番で序列がついていたのかについては、また改めて書きます)。

  1. H. C. Robbins Landon, Haydn: Chronicle and Works, Haydn at Esterháza 1766-1790. Thames and Hudson, 1978, p. 41.
  2. 西原稔「音楽家の仕事と収入」『モーツァルト全集1』小学館、1990、76ページを元にしました。
  3. 単位や詳細は、Landon、前掲書、pp. 42-43によります。