25. 5月 2011 · (30) スメタナとドヴォルジャーク はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

第5回聖フィル定演では、国民楽派の作品を取り上げます。国民楽派とは、民族意識が高まった19世紀に、ロシアや北欧・東欧などで、西洋音楽の主流(イタリア、フランス、ドイツ、オーストリア音楽)の影響を受けつつも、それぞれの地に固有の民族的特色、たとえば民謡のメロディーや民族舞曲のリズム、地域の民話や伝説などを活かしながら、芸術音楽を創造しようとした作曲家たちを指します。

藤森亮一先生が共演してくださるチェロ協奏曲を作ったドヴォルジャーク(1841〜1904)は、「チェコ国民楽派の祖」スメタナ(1824〜1884)の業績を受け継ぎ、発展させた作曲家です1。チェコは17世紀以来ハプスブルク帝国に支配され、公用語はドイツ語。チェコ語は日常語や下層社会の言葉とされていました。

スメタナは、チェコ語で苦労しています。1859年にイタリア独立戦争に負けたオーストリア政府は、非ドイツ系民族への締め付けを緩め、文化においても大幅な自由を認めました。チェコ独自の音楽創造を目指すスメタナは、チェコ語による国民オペラの作曲に取りかかりますが、ドイツ語で育ったため、母国語であるはずのチェコ語をうまく使いこなせなかったのです。困難を乗り越えて1866年に発表した、ボヘミアの農村を舞台にした喜歌劇《売られた花嫁》が大成功し、国民劇場仮劇場の正指揮者に迎えられます2

ドヴォルジャークの場合は、ドイツ語が作曲家への道を開きました。父は彼に家業の宿屋兼肉屋を継がせようと、経営に必須のドイツ語を学ばせたのですが、幸運にもドイツ語教師リーマンが優れた音楽家だったのです。彼は、ドヴォルジャークがプラハのオルガン学校へ進む際も力になってくれました。卒業後は、生活費を得るために国民劇場仮劇場オーケストラのヴィオラ奏者になり、1866年以降はスメタナの指導を受けます。

ブラームスの紹介で出版した《スラブ舞曲集》で名前が知られるようになったドヴォルジャークは、音楽界の大御所ハンスリックから「ウィーンに出てドイツ・オペラを作曲するよう」勧められます3。オペラで成功すれば、国際的な名声のみならず経済的な安定も得られます。在学中も卒業後も貧困に苦しめられたドヴォルジャークが、心動かされなかったはずはありません。

しかし彼は、チェコの作曲家として生きる道を選びます。支配国オーストリアに対する複雑な思いはもちろんですが、1871年にオーケストラを辞めるまでの5年間薫陶を受けたスメタナの、国民音楽創造への情熱を受け継いだのでしょう。その後ドヴォルジャークはイギリスやロシア、アメリカなどでも活動し、チェコ国民音楽の魅力を広めることになります。

  1. 彼の名前はドボルザーク、ドヴォルザークとも表記されますが、このコラムではドヴォルジャークに統一します。チェコ語の発音に近いのは、ル無しのドヴォジャークだそうです。
  2. 昨年ようやく、チェコ語による「コンサートオペラ」上演を見ました。噂にたがわずとても楽しい内容でした。早い時期にすぐれたドイツ語に訳されたおかげで、各地の歌劇場のレパートリーに加えられ受容が進んだというのは、皮肉ですね。
  3. リストやヴァーグナーの革新的な音楽を攻撃し、ブラームスを高く評価したハンスリックは、交響曲や協奏曲、室内楽などを中心に作曲したドヴォルジャークを好ましく思ったのでしょう。