15. 10月 2014 · (207) 6/8拍子で始まる交響曲 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

そもそもの発端は、田部井先生の「ブラームスの拍子の選択は変わっている」というご指摘でした。ブラームスのヴァイオリン協奏曲のように3拍子で始まる曲を調べて((199) 3拍子で始まる協奏曲)気づいたのが、6/8拍子の協奏曲の少なさ。(199) 註3に書いたように、名曲解説全集9 協奏曲 II(音楽之友社)に収められたC. シュターミツからヴォーン=ウィリアムズまでの113の協奏曲中、6/8拍子で始まるのは1曲だけ。その6/8拍子を、ブラームスは最初の交響曲の第1楽章に使いました。これはどれくらい「変わっている」のでしょう。

交響曲の拍子は古典派でも、協奏曲のように4拍子が圧倒的というわけではありません。たとえばベートーヴェン。9つの交響曲の冒頭部(序奏の有無にかかわらず)の拍子は:

4/4:第1番(以下数字のみ)、7
3/4:2、3、8
2/4:5、6、9
2/2:4

ハイドンは3拍子で始まる曲が多く、モーツァルトは4拍子が多いものの、3拍子2拍子も。

でも協奏曲と同様、6/8拍子で始まる曲はほとんどありません。1876年完成のブラームス第1番より前に6/8拍子で作られた交響曲は、メンデルスゾーンの4番(《イタリア》1833)とドヴォルザークの3番(1873)くらい。これより後も、サン=サーンスの3番《オルガン付き》(1886)やドヴォルザークの7番(1885)など、稀。ハイドンの94番《驚愕》、101番《時計》、103番《太鼓連打》、ベートーヴェンの7番などソナタ形式の主部が6/8の曲はありますが、違う拍子の序奏で始まります。

理由は明らか。(199) に書いたように、3/8、6/8、9/8などは終楽章で使われる拍子だったからでしょう。交響曲の最大のルーツ、シンフォニーア(イタリア風序曲)において急―緩―急の2つ目の急の部分は、速いメヌエットやジーグのような舞曲風に作られました1。つまり、3/8や6/8拍子だったということ。「赤ちゃん交響曲」が成長しても、この伝統が受け継がれたのですね。各楽章がなるべく多様な方が(聴くのも演奏するのも)良いですから、終楽章に使うべき拍子や性格を第1楽章に避けるのは、当然。

6/8で交響曲を書き始めたブラームス、確かにかなり「変わって」います。完成までに20年以上かかった曲ですから、偶然、レアな拍子を選んで作っちゃったわけでは無いでしょう。しかも、メンデルスゾーンの第4番第1楽章は舞曲的(終楽章は本物の舞曲)ですが、ブラームスの第1番第1楽章は、序奏も主部も6/8拍子ながら舞曲とは似ても似つかないシリアスな音楽です。今までほとんど使われなかった拍子を意識的に選び、伝統的な(舞曲風ではない)交響曲第1楽章を書いたブラームス。交響曲の遺産を受け継ぎ、それ(特にベートーヴェンの9曲)を越える曲を作ろうという彼の意気込みが、拍子からも静かに伝わって来るようです。

  1. Fisher, Stephen C., ‘Italian Overture,’ The New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 12, Macmillan, 2001, 637.
13. 8月 2014 · (198) チャイコフスキーの調選択 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , ,

チャイコフスキーの交響曲第5番の4つの楽章は、ホ短調ーニ長調ーイ長調ーホ長調。この選択は、ちょっと変わっています。

古典派の交響曲では、第3&4楽章は第1楽章と同じ調(主調)。第2楽章(緩徐楽章)だけが対立調でした。そもそも、交響曲のご先祖様シンフォニーア(イタリア風序曲)の「独立した3部分」が、主調ー対立調ー主調で作られました((18) 「赤ちゃん交響曲」誕生まで参照)から、メヌエットが加わって、主調ー対立調ー主調(メヌエット)ー主調が標準パターンになったのです。モーツァルトの時代なら、40番交響曲「ト短調ー変ホ長調ート短調ート短調」のような調選択になったはずです。

ベートーヴェンのほとんどの交響曲も、ほぼこの標準パターン(例外は、第3楽章も主調と異なる「イ長調ーイ短調ーヘ長調ーイ長調」の第7番)。ただ、ひねり(!?)が加わりました。《運命》交響曲の主調はハ短調なのに、終楽章はハ短調ではなくハ長調。この短調における「暗黒から光明へ」「苦悩を乗り越えて歓喜へ」型が、ロマン派の作曲家たちに好まれます。

チャイコフスキーの5番も、第1楽章ホ短調、終楽章ホ長調の部分は、ロマン派の標準パターン(しかも、終楽章の序奏部とコーダ部分はホ長調ですが、ソナタ形式の主部は、主調のホ短調ですね)。ただ、第2楽章がニ長調というのが珍しい選択。遠隔調ではありません(ニ長調は、ホ短調の平行調の属調。(77) 近い調、遠い調参照)が、第1楽章の導音嬰ニ音(レ♯)を元に戻したニ音を主音とした調だからです。

この交響曲の調号にお気づきでしょうか。第1楽章ホ短調は♯1つ、第2楽章ニ長調は♯2つ、第3楽章イ長調が♯3つ、終楽章ホ長調が♯4つ。4つの楽章を全部違う調にしたのみならず、♯が1つずつ増えています。偶然?? 「ホ短調で始まりホ長調で終わる交響曲を作ろう……ということは、第1楽章は♯1つ、終楽章は♯4つ……それなら2楽章は♯2つ、3楽章は♯3つにしちゃおう!……ホ短調とニ長調の楽章を並べるのは、ちょっと無理があるかな?……ま、いいか……」とチャイコフスキーが考えた……わけではないと思いますが。

25. 6月 2014 · (191) 《ピアノとフォルテのソナタ》再び はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

前回コルネットとトロンボーンとヴァイオリンの8重奏でとりあげた、ガブリエーリの《8声のためのピアノとフォルテのソナタ》について、3点補足します。まず第1に、これが教会の礼拝で使われる宗教曲であることを忘れないでください。

16世紀半ば以降、イタリア各地で対抗宗教改革が行われていました。カトリックの浄化を目指して開かれたトリエント公会議では、「歌詞が聴き取りにくいから、典礼(礼拝)においてポリフォニー(多声音楽)の使用を禁止し、グレゴリオ聖歌のみを歌うことにしよう」という過激(!!)な原点回帰の提案もあったほど1(《教皇マルチェルスのミサ曲》を作ってそれに反論し、ポリフォニーの救い主とされたのが、私がペンネームに名前をお借りしているパレストリーナです。あくまで伝説ですが)。しかし、ローマから遠いヴェネツィアでは、ポリフォニーどころか、コルネットやヴァイオリンなど世俗の楽器も用いた器楽曲が、教会で演奏されていたのですね。

第2にこの曲は、1597年に出版されたガブリエーリの『サクラ・シンフォニーア』に納められていること。『サクラ・シンフォニーア』とは「聖なる(複数の)響き」つまり宗教曲集ということですね。(171) いろいろなシンフォニーアに書いたように、ラテン語の歌詞を持つ声楽曲がメインで、45曲も収められています。器楽曲は、カンツォーナ(最後の母音を省略してカンツォンと表記)14曲とソナタ2曲の計16曲。

譜例1:G. ガブリエーリピアノやフォルテのソナタ》第7声部(「サクラ・シンフォニーア》(ヴェネツィア、1598)より)再掲

譜例1:G. ガブリエーリ作曲《ピアノとフォルテのソナタ》第7声部 『サクラ・シンフォニーア』(ヴェネツィア、1598)より(再掲)

当時の楽譜の慣例に従って、声部数が少ない曲(6声用)から順番に並べられています。最も曲数が多いのが8声用。声楽曲19曲の後に5曲のカンツォーナが続き、《ピアノとフォルテのソナタ》は最後。その後に、10声用の声楽曲、器楽曲、12声用の声楽曲、器楽曲、14声用声楽曲、15声用の声楽曲、器楽曲、16声用声楽曲と続きます。器楽も声楽と同等の扱い受けていますね。器楽曲には歌詞が無いので、ページが白っぽく見えますが、その中でピアノとフォルテのソナタ》だけ、ところどころに「Pian」「Forte」と印刷されています(譜例1)。

第3に補足したいのは、『サクラ・シンフォニーア』のレイアウト。スコアではなく、ペトルッチのオデカトンのような、見開きに全声部を納める聖歌隊用レイアウト(「クワイアブック・フォーマット」と呼びます。(184) 500年前の楽譜参照)でもなく、1声部ずつ分かれた「パートブック」スタイルです。この時代、声楽曲もほとんどがパートブックの形で出版されましたが、16声部の曲も含まれる『サクラ・シンフォニーア』は、全部で12分冊! 1冊も失くさないように、教会の財産として大切に管理したのでしょう。

14声部以上の曲は、1分冊に2パート印刷されています。巻末に目次もありますが、使いやすいように各分冊の同じページに同じ曲が印刷されています(そのため、不要なページ数は省かれ、たとえば第12分冊は50ページから始まります)。《ピアノとフォルテのソナタ》のような声部数が多く長い曲を、小節線が無い当時の楽譜で演奏するのは、さぞかしスリリングだったでしょうね。

  1. Nagaoka, Megumi, The Masses of Giovanni Animuccia: Context and Style, Ph.D. Diss., Brandeis University, 2004, pp.2-3.
05. 2月 2014 · (171) いろいろなシンフォニーア はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , , ,

先日、「シンフォニーアという語は意味が2種類あってわかりづらい、バロック・オペラの序曲(急―緩―急のイタリア風序曲)も、それが元になって交響曲が成立するまでの初期交響曲もシンフォニーアだから、混乱する」と指摘されました(このコラムでは、前者をシンフォニーア、後者を「交響曲」または「赤ちゃん交響曲」と書き分け……ようとしつつ、やはり後者もシンフォニーアと書いていますね)。大人の交響曲もイタリア語ではシンフォニーアですから、意味は3種類。

これは、「日本では、この(=交響曲)訳語が生まれたころにはまだシンフォニーの成立史についての理解が不足していたために、交響曲という言葉は、もっぱらヨーロッパ音楽の中で最も大きく中心的な曲種であったハイドン以降のシンフォニーを指す言葉として用いられてきた」から1。赤ちゃんでも交響曲は交響曲なのに、違う用語で呼ぶ慣習が続いているのです。

でもこの言葉は昔から、3種類どころではなくもっといろいろなものを指してきたんですよ。シンフォニーやシンフォニーアは、ギリシア語で「共に」をあらわす syn と「響き」をあらわす phonia に由来する言葉。音楽って、複数の音が鳴り響くことが多いですから。

シンフォニーアは、出版楽譜のタイトルとして使われました。ジョヴァンニ・ガブリエーリの《Sacrae symphoniae》(1597)は、器楽曲も含まれますが(〈弱と強のソナタSonata pian e forte a 8〉など)、メインはラテン語の歌詞を持つ無伴奏の多声声楽曲。少し時代が下がると、ガブリエーリの弟子ハインリヒ・シュッツの〈Symphoniae sacrae〉(1629)のように、器楽伴奏付きの宗教声楽曲集に使われます。

器楽曲という意味もありました2。器楽アンサンブルの中のプレリュード的性格を持つ曲や、宗教声楽曲の前に置かれて歌い出しの音を示す鍵盤楽器用プレリュードのいくつかが、シンフォニーアと名付けられています。1650年以降、舞曲の第1曲としてシンフォニーアが置かれ始めました。

声楽曲の中の器楽曲を指す言葉としても使われました。16世紀以来、劇作品の導入曲や、舞台転換の際に出る雑音を隠すために演奏される器楽曲が、シンフォニーアとも呼ばれていました。17世紀初めころ、声楽曲集に含まれる器楽曲シンフォニーアは、必ずしも演奏しなくても良かったようです。17世紀のオペラにおいては、シンフォニーアは独唱や合唱の前や間、後に置かれる器楽曲でした。

特定の形式を持つわけではなく、器楽曲を指す他の用語(たとえばソナタ)と取り替え可能だったシンフォニーア。急—緩—急の3楽章形式の序曲をこの名で最初に(1681)作ったのは、アレッサンドロ・スカルラッティです。18世紀初め以降、次第にシンフォニーアはこの形のオペラ序曲を指すようになりました。単独で演奏されたり、演奏会用に独立曲として作られるようにもなり、やがて(大人の)交響曲へ。

ただ、ヨハン・ゼバスティアン・バッハが長男の学習用に書いた《インヴェンションとシンフォニア》のような例もあります。教会カンタータやパルティータの冒頭曲をシンフォニーアと呼ぶ、より一般的な使い方もしているバッハ。修辞学で「第1段階」を意味するラテン語インヴェンツィオに由来するインヴェンションはともかく、3声用がシンフォニーアなのは??3 やはり一筋縄ではいかない用語です。

  1. 大崎滋生「交響曲」『音楽大事典2』平凡社、1982、889。
  2. Cusick, Suzanne G., “Sinfonia (i)” New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 23. Macmillan, 2001, p. 419-20.
  3. 久保田慶一「インヴェンション」『バッハ キーワード事典』春秋社、2012、162。
27. 6月 2012 · (87) 流行音楽メヌエット はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , ,

フランス起源の3拍子の舞曲メヌエット。17世紀半ばから18世紀末にかけて、フランス宮廷を中心に、貴族階級のダンス音楽として広く普及します。おだやかなテンポによるエレガントな踊りは典型的な宮廷舞曲で、市民層にも非常に人気がありました。

このメヌエット、18世紀初め以降、特にイタリア人作曲家たちによって、誕生間もない「交響曲」(シンフォニーア)に使われることがありました。(18)「赤ちゃん交響曲」誕生までに書いたように、シンフォニーアは 急―緩―急 の3楽章構成。その終楽章が、メヌエットの様式で作られたのです。しかし、1740年代になるとドイツ語圏では、緩徐楽章とフィナーレの間に第3楽章としてメヌエットが加えられ、4楽章構成の交響曲が主流になりました。急―緩―急 から 急―緩―やや急(メヌエット)―急 に変化したのです。

ドイツやオーストリアで、交響曲の中にメヌエットが定着したのはなぜでしょうか。それは、当時この地域でメヌエットが流行していたからです。要するに、聴衆サービス。18世紀の人々にとって「交響曲」は、コンサートで妙技を楽しむことができる独奏者をもたない、伴奏者だけで演奏する、おもしろみの少ない音楽でした。そこで、最も人気が高いダンスの音楽を取り入れて、聴衆が楽しめるようにしたのです。交響曲の途中で流れるメヌエットの舞曲を聴いて、人々は、自分が踊っているような気持ちを味わったのでしょう。ただ、ドイツ語圏と限定しなければ、18世紀末になっても交響曲の主流は、メヌエット無しの3楽章構成でした。モーツァルトがパリで作曲したいわゆる《パリ》交響曲ハ長調(第31番、1778)が良い例です。

さて、モーツァルトとメヌエットと言えばやはり、交響曲からは離れますが、オペラ《ドン・ジョヴァンニ》(1787)ですね。次回の聖フィル定演で演奏する序曲ではなく、第1幕フィナーレの「3つのオーケストラの場」。観客たちが、自らメヌエットを踊って楽しむ気分を味わったはずの場面です。ドン・ジョヴァンニとは、イタリア語でドン・ファンのこと(ドン・ファンはスペイン語)。従者のレポレッロが《カタログの歌》(第1幕第5場)の中で、犠牲になった女性は「イタリアでは640、ドイツでは231、フランスで100、トルコで91、スペインではもう1003」人と数え上げる、稀代の女たらしです。

彼は今、自邸での大宴会で村娘ツェルリーナを誘惑中。「音楽、再開!」という合図とともに、たくさんの客が自分の身分にふさわしいダンスを踊ります。最初に始まる音楽がメヌエットで、踊るのは仮面をつけたドンナ・アンナとドン・オッターヴィオ(ト長調、3/4拍子)。ドンナとドンという敬称からわかるように、2人は貴族。メヌエットにふさわしい踊り手です。演奏するのは、下の動画では舞台奥に並ぶ、第1オーケストラ(オーボエ2、ホルン2、弦4部)。

次いで、舞台右側の第2オーケストラ(ヴァイオリン2部と低弦。1’10″くらいに見えます)が、中流のための舞曲コントルダンス(2/4拍子)を弾き始めます(1’02″くらいから)1。踊るのはドン・ジョヴァンニとツェルリーナ。さらに、舞台左側の第3オーケストラ(ヴァイオリン2部と低弦)が、3/8拍子の、農民のためのドイツ舞曲を演奏(1’30″くらいから)。レポレッロはツェルリーナの婚約者マゼットと、無理矢理いっしょに踊ります。

ドン・ジョヴァンニによって別室へ連れ込まれたツェルリーナの悲鳴(1’57″くらい)によって中断するまで、拍子が異なる3種類の舞曲が同時進行。それぞれの舞曲が、踊り手の社会階級を示す場面です。芸が細かいモーツァルトは、遅れて加わる第2、第3オケの調弦の音まで書き込んでいます(1’17″くらいから、第3オケのヴァイオリンが、開放弦の和音を何回か鳴らしています)。

  1. ベートーヴェンの《12のコントルダンス集》WoO 14 第7曲は、《プロメテウスの創造物》や《エロイカ》終楽章の主題のもとになった曲でしたね。

1808年12月22日、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で、ベートーヴェンのハ短調交響曲が初演されました。作曲者本人の企画による、彼の作品のみで構成された大演奏会です。1809年1月25日号の『一般音楽新聞』によると当日のプログラムは(かっこ内は補足):

第1部

  1. 田園交響曲第5番(第6番)、絵画というよりむしろ感情の表現
  2. アリア。独唱はキリツキー嬢(《ああ、裏切り者》op. 65)
  3. ラテン語の歌詞による讃歌(ミサ曲ハ長調 op. 86 からおそらくグローリア)
  4. ピアノ協奏曲(第4番)。ベートーヴェンによる独奏

第2部

  1. 大交響曲ハ短調第6番(第5番)
  2. ラテン語の歌詞による聖歌(ミサ曲ハ長調からおそらくサンクトゥス)
  3. ピアノ独奏のための幻想曲(ベートーヴェンによる即興演奏)
  4. ピアノ、管弦楽、最後に合唱が加わる幻想曲(《合唱幻想曲》 op. 80)

《運命》が第6番、《田園》が第5番と書かれているのは、単に演奏順序によるのかもしれません。12月22日とはずいぶん寒い時期ですが、クリスマス前はオペラや芝居の上演が禁止されていて、競合しないからです。ちなみにこの意欲的な演奏会は、大失敗に終わりました。先の新聞は「演奏に関しては、あらゆる点で不十分であった」と評しています。主な原因は練習不足1

ベートーヴェンは、交響曲で始まりその後に独唱や協奏曲、即興演奏が続く、伝統的なプログラム構成を踏襲しています。客席の照明を暗く、ステージを明るくして開幕を知らせることができなかったロウソクの時代に、「交響曲」シンフォニーアは、オペラやコンサートの開始を告げる曲でした。しかし《田園》と《運命》交響曲は、序曲の役目を果たすには、成長し過ぎました。この演奏会のメインとして新たに作曲された《合唱幻想曲》よりも、冒頭に置かれた2つの交響曲の方が、音楽的にはるかに複雑で重要な意味を持つのは明らかです。

ベートーヴェンの9作品により、交響曲は「作曲家が1曲ごとに、持てる力をすべて注ぎ込んで作る」「作曲家の力量を推し量る指標となる」ジャンルにまで高められました。このような変化を反映し、1830年代には「序曲→協奏曲(またはアリア)→交響曲」という、今日まで続くプログラム構成が珍しくなくなったと言います2。交響曲の歴史においてこの1808年12月のベートーヴェン演奏会のプログラムは、現代まで続く交響曲像が完成する直前の、18世紀的な概念と19世紀的な実像の矛盾を映し出す好例と言えるかもしれません。

  1. 最後の《合唱幻想曲》では途中で演奏がずれて、もう一度初めからやり直さなければなりませんでした。当時、オーケストラの総練習は1回というのが普通だったそうですが、この演奏会では曲目が多過ぎて、全部を通す時間さえなかったと言います。ベートーヴェンは、同じ日に他の劇場でハイドンの作品によるチャリティー・コンサートが行われ、優秀な演奏家を取られてしまったと書き残していますが、彼の革新的な書法は、仮に演奏家が優秀であったとしても難かしかったことでしょう。11/11/24 追記:(56) アドヴェントと音楽もご覧ください。
  2. 森泰彦「ベートーヴェン時代のウィーンの演奏会」『ベートーヴェン全集5』講談社、1998、105ページ。13/09/18 追記:少なくともフィルハーモニック協会定期演奏会の、20世紀初頭までのプログラムをたどる限り、このような構成はかなり稀のようです。(150)・(151) 参照のこと。
21. 3月 2011 · (19) 独り立ちする「交響曲」 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , , , ,

17世紀の末に、ウヴェルチュール(フランス風序曲)と対をなすような形でオペラの序曲として誕生した「交響曲」シンフォニーア。オペラやコンサートの開幕を告げる曲にすぎなかった「交響曲」が、ようやく演奏会のメイン・プログラムに昇格する時がやってまいりました。ドイツ人ヴァイオリニストにして目先の利く興行師、ヨハン・ペーター・ザロモン(1745〜1815)がロンドンで行った「ザロモン・コンサート」が、その転換点と考えられます。

ザロモンは、約30年間勤めたエステルハージ家の契約から自由になったハイドンをロンドンに迎え、1791年と翌年に、新作交響曲6曲(93〜98番)を含む彼の作品を中心に据えた、各12回の予約演奏会を開催します。1794年と翌年には、ハイドンの第2期ザロモン交響曲と呼ばれる99〜104番の初演を含む、21回の予約演奏会が行われました。

これらの演奏会は「二部にわかれ、第二部のはじめにハイドンの大序曲、すなわち交響曲が演奏された。この順序は、全部のザロモン演奏会を通じてつねに守られた。これは、遅刻者たちも席に着いて場内がすっかり落ち着いてから、心ゆくまで交響曲を聴かせようという配慮にもとづくものであった」1

メイン・プログラムの一部として真ん中に据えられたとは言え、交響曲は第2部の「序曲」。その後に、独唱や協奏曲が続きます2。しかし、ロンドンの聴衆がハイドンの交響曲を、コンサート最大の呼び物と考えていたのは、第1期最初のザロモン演奏会を報じる新聞記事からも明らかです。

ハイドンによる新しい大序曲(交響曲第96番)は、最大の喝采を浴び(中略)、聴衆は魅了され、満場の希望によって、第2楽章がアンコールされた。つぎに第3楽章をもう一度繰り返すよう熱心に求められた。(後略)3

イギリスでは、庶民も聴くことができる公開コンサートが17世紀末に一般化し、ロンドンはパリと並ぶ音楽の先進地でした。聴衆の耳も、肥えていたことでしょう。会場のハノーヴァー・スクエア・ルーム(1773年〜75年建設)は、800人以上を収容できました4。また、ザロモンが率いたオーケストラは総勢約40名と規模が大きく、表現力も優れていたと思われます。

もちろんハイドンも、聴衆が「ソリストのいない協奏曲」である交響曲を楽しめるように、コンサート・マスターのザロモンを始め、管楽器奏者の独奏をあちこちに織り込んだり、突然の転調やゲネラル・パウゼ、予想を裏切る強弱変化など、ウィットに富む音楽作りを心がけています5。「交響曲を聴きに音楽会へ行く」という発想の大転換は、このような様々な条件が整って初めて可能になったのです。

余談ですが、先の新聞評が示す当時の演奏習慣についても述べておきます。現代の演奏会では、アンコール用の小曲を別に用意するのが慣例ですが、実は、「もう一度」というアンコール(仏語)の語源が示すように、聴衆が気に入ったプログラムの一部を、再び演奏するのが本来の形でした。

ちなみに、聴衆は音楽が気に入ると、曲が終わらなくても拍手することもありました。モーツァルトは父レオポルトに宛てて、《パリ》交響曲初演の際、第1楽章の途中に聴衆のために用意した「しかけ」が、拍手喝采を浴びたと書いています(この「しかけ」がどの部分を指すのかは不明)。後にメンデルスゾーンは、楽章が終わるたびに起こる拍手を嫌って、全楽章が連続して演奏されるヴァイオリン協奏曲やピアノ協奏曲を書きましたが、たしかにロマン派の協奏曲の多くは、第1楽章が終わると拍手したくなりますよね。この、楽章間に拍手する習慣は、20世紀になっても残っていたそうです。

  1. 大宮真琴『ハイドン新版』音楽之友社、1981、125ページ。たとえば、聖フィルが第1回定期演奏会で取り上げた、ハイドンの交響曲第100番《軍隊》の初演時のプログラム(1794年第8回ザロモン予約演奏会。3月31日午後8:00開演、ハノーヴァー・スクエア・ルーム)は、以下のとおりでした。

    第1部
    1. 交響曲(プレイエル、1757〜1831)
    2. 男声歌手のアリア
    3. 弦楽四重奏曲(ハイドン)
    4. 女声歌手の独唱
    5. ハープ協奏曲

    第2部
    1. 交響曲《軍隊》(ハイドン)
    2. 男声歌手の独唱
    3. ヴァイオリン協奏曲(ヴィオッティ、1755〜1824)
    4. 女声歌手の独唱

  2. この第1部と第2部を交響曲で始める形は、ベートーヴェンが《運命》交響曲を初演する際も引き継がれます。これについては、また改めて書きます。
  3. 1791年3月12日付けダイアリー紙。大宮、前掲書、126ページ。
  4. 石多正男『交響曲の生涯』東京書籍、2006年、86ページ。
  5. 実はこの「ソリストのいない協奏曲」(独奏楽器群なしの、伴奏楽器群だけによる協奏曲という意味で「リピエノ・コンチェルト」と呼びます)も、交響曲成立への重要な源の1つです。
13. 3月 2011 · (18) 「赤ちゃん交響曲」誕生まで はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , , , , ,

フランス語で「あけるもの」という意味のウヴェルチュール。実は単なる「幕開けに演奏される器楽曲」というだけに留まらない、しっかりと形が定まった音楽形式で、日本語では『フランス風序曲』と呼ばれます。ルイ14世に仕えたジャン・バティスト・リュリ(1632〜87)が、「赤ちゃん交響曲」が生まれる前の1650年代から、宮廷バレエやオペラの序曲として作曲し始めました1

ウヴェルチュールの形式は:

  • 緩—急—緩の三部分から成る。
  • 三部分が途切れることなく、連続している。
  • すべての部分が同じ調で書かれる。
  • 最初の遅い部分は2拍子系で、付点のリズムを使う。
  • 早い部分は対位法を使う。まず1声部が演奏を始め、他の声部が1つずつ、同じような旋律を演奏しながら加わって行く。
  • 冒頭と同じ(または似た)付点リズムの音楽で締めくる。この部分は省略可。

フランス国外でも流行し、ヘンデルは自作のイタリア・オペラの序曲に使いましたし2、G線上のアリアなどが含まれるバッハの《管弦楽組曲》の本名(=バッハが書いたタイトル)も、ウヴェルチュールです。オペラの序曲から離れて、「ウヴェルチュールで始まる組曲」という意味も持つようになったのです。

ウヴェルチュールに遅れること数十年、ようやく「赤ちゃん交響曲」シンフォニーアが誕生します。シンフォニーアは、古代ギリシア語の syn(共に)- phonia(響き)に由来する言葉で、複数の音が同時に鳴り響く楽曲に広く(古い時代には声楽曲にも!)使われていました。しかし、ナポリ派オペラの作曲家アレッサンドロ・スカルラッティ(1660〜1725)が、1680年代以降に作り始めた、ウヴェルチュールと異なる定型のオペラ序曲を指す用語になります(日本語では『イタリア風序曲』)。

シンフォニーアの形式は、ウヴェルチュールとは対照的です。

  • 急—緩—急の三部分から成る。
  • 三部分はそれぞれ独立している。
  • 最初と最後の部分は同じ調、真ん中はそれとは違う調が使われる。
  • 真ん中の部分は音量が小さく叙情的に作曲され、非常に短いこともある。
  • 対位法は使われず、旋律声部と伴奏声部の区別がはっきりしている。

ほーら、赤ちゃんでも、形の上では後の交響曲の特徴をしっかり備えていますね。これにハイドンがメヌエットを加えた4楽章構成を整え、ベートーヴェンがメヌエットをスケルツォに変えれば、私たちに馴染み深い交響曲の出来上がり!3

緩—急—緩のウヴェルチュールと急—緩—急のシンフォニーアは、しばらく仲良く?並存していたのですが、やがて正反対の運命を辿りました。シンフォニーアはオペラや演奏会の導入曲として作曲され続け、後に最重要の器楽ジャンルにまで上り詰めましたが、ウヴェルチュールは1750年頃までに廃れてしまいます。付点音符やら対位法やら、作曲上のお約束事が多くて窮屈だったことや、王侯貴族の世にはふさわしかった壮麗な雰囲気が、都市市民が音楽の担い手になった時代にそぐわなくなったなどの理由が考えられます。

でも、今回の聖フィル定演曲である、モーツァルトの交響曲39番の第1楽章。付点のリズムとともに荘重に始まる序奏部は、ウヴェルチュールのスタイルを模しています。速い下降・上行音階による合いの手や、不協和音や半音進行を活かしたハーモニーを織り込んで、モーツァルトは流行遅れの形式を、モダンに違和感なく再生していますね。

  1. このリュリさん、当時の指揮法であった、重い杖を床に打ち付けて拍子をとっているときに、誤って自分の足を打ち、そのけがが元で亡くなったという不名誉なエピソードで有名ですが、実は彼はイタリア人だったことを、ご存知ですか。もともと貴族のイタリア語会話の相手としてフランスに連れて来られたらしいのですが、いつの間にかバレエや楽器演奏の技術を身につけ、ルイ14世自身も太陽役などを踊った宮廷バレエ(太陽王のニックネームはここから来ている)を作曲したり、相手役を務めて王のお気に入りになり、やがて宮廷オペラの上演権を独占してしまいます。
  2. ゆっくりした付点のリズムで始まる《メサイア》の序曲も、ウヴェルチュールの形式です。でも、ウヴェルチュールとは書いていません。キリストの生涯を描いた神聖なオラトリオの序曲に、世俗曲の代表であるオペラの序曲の名前と書くのは、はばかられたようです。
  3. もちろん交響曲の成立には、シンフォニーア以外にも、様々な要素が複雑に影響しています。

交響曲を器楽の最重要ジャンルと捉えている方はもちろん、前回の聖フィル♥コラムで「交響曲』シンフォニーアが演奏会の開幕ベル代わりだったと知った方も、1780年代末に書かれたというこの記述には、いささかショックを受けることでしょう。

「コンサートは(中略)交響曲で始まる。これらは必要悪とみなされている(あなたはとにかく何かを演奏することで、コンサートを始めなければなりません)。そしてこれが演奏されている間、人々はおしゃべりしています」1

「交響曲」が聞こえて来ると、ロビーで談笑していた人々(当時からコンサートは、社交の場でした)は客席に向かい、着席する。しかし、「交響曲」が終わってメイン・プログラムが始まるまでは、おしゃべりしていてもかまわない……。

それでは、18世紀の人々はいったい何を聴くために、コンサートに出かけたのでしょうか。1783年3月23日に、モーツァルトがウィーンのブルク劇場で開いた演奏会を例に考えてみましょう。彼は同月29日付の手紙で、皇帝も臨席し、大成功に終わった自分の演奏会の全プログラムを、父レオポルトに報告しています(カッコ内は補足)。

  1. ハフナー交響曲(第35番)
  2. ランゲ夫人2の独唱。《イドメネーオ》よりアリア『もし私が父上を失い』
  3. モーツァルト独奏によるピアノ協奏曲(第13番)
  4. アダムベルガーの独唱。コンサート・アリア(《話したのは私ではない》)
  5. フィナールムジークよりコンチェルタンテ(《ポストホルン・セレナード》第3楽章)
  6. モーツァルト独奏によるピアノ協奏曲(第5番)
  7. タイバー嬢の独唱。《ルーチョ・シッラ》よりシェーナ『私は行く、私は急ぐ』
  8. モーツァルトのピアノ(即興)演奏。小フーガと変奏曲2曲–パイジェッロとグルックの主題による
  9. ランゲ夫人の独唱。レチタティーヴォとロンド(《お前は知らないのだ》)
  10. ハフナー交響曲の終楽章

現代のプログラム構成に慣れた者にとっては、まず演目の多さに驚かされます(10試合!?)。さらに、交響曲やら独唱やら協奏曲やら即興演奏やら、脈絡のない雑多な内容! 実は、観客の様々な好みに合うよういろいろなジャンルの音楽を盛り込むのが、演奏会の常識でした3。この例からも明らかなように、当時の人々が聴きたかったのはソロ。独唱や、協奏曲の独奏パートや即興独奏をする、ソリストたちの音楽でした。

ハフナー交響曲の初演も、ここでは「非日常」の始まりと終わりを告げる、音楽会の枠組みに過ぎませんでした4。このような価値の低い「交響曲」シンフォニーアの位置づけが変化したのは、ハイドンのいわゆるザロモン交響曲あたりからと考えられています。果たして「交響曲」のメイン・プログラム入りは成るか? 次回はようやく、シンフォニーアから聖フィル第4回定演の曲目に、話がつながりそうです。

  1. 「一般音楽新聞」1800年10月22日号。森泰彦「ヴィーンの森の演奏会」『モーツァルト全集6』小学館、1991、74ページ。日本語訳は石多正男『交響曲の生涯』東京書籍、2006年、221ページより。
  2. 旧姓アロイージア・ヴェーバー、モーツァルトの初恋の相手。
  3. 1つのジャンルの作品だけで演奏会を開いたのは、今年、生誕200年を迎えるリストが最初だと言われています。彼はピアノ・ヴィルトゥオーゾとして絶大な人気を誇っていたので、ピアノ曲だけのリサイタルが可能だったのです。
  4. この音楽会では、ハフナー交響曲の冒頭3楽章の後にメイン・プログラムが置かれ、最後に残りの終楽章が演奏されたというのが定説です。しかし手紙には、最後がハフナー終楽章とは明記されているものの、1曲目はハフナー交響曲としか書かれていません。したがって、冒頭に全楽章が演奏され、しめくくりに終楽章だけがもう一度演奏された可能性もあるのだそうです。海老沢敏『交響曲:華麗なる祝祭の響き』モーツァルト全集第1巻、小学館、1990。

プロでもアマでもオーケストラ演奏会と言えば、1曲目に短い曲、2曲目にやや長い曲、休憩をはさんでメインの交響曲という構成が定番ですよね。最後の交響曲は最も長く、エスブリッコさんが前回のコラム「交響曲の成長期」コメントに書かれたように、緩徐楽章でついウトウトということも。でも、初期の交響曲(このコラムでは「交響曲」と表記)であるシンフォニーアは、このような現在のイメージから全くかけ離れたものだったのです。

18世紀における交響曲=シンフォニーアは、序曲でした。序曲と聞くとオペラの序曲が頭に浮かびますが、オペラ以外にも教会の礼拝音楽や演奏会の開幕を告げるために、シンフォニーアが演奏されました。シンフォニーアは、オペラや礼拝、演奏会など、普段の生活とは異なる「非日常」の世界の始まりを告げる役目を果たしていたのです。オペラや演奏会が始まりますよ、上司の小言や息子のぱっとしない成績など忘れて(!?)、英雄譚や三角関係のもつれにはらはらどきどきする、あるいは超絶技巧に目を見張る、そんな特別な時間を過ごしましょう!というわけです1

モーツァルトがオペラ序曲を交響曲に転用したのは、この2つが共通の役割を持っていたからですね。また、演奏会の最後にもシンフォニーアが演奏されることがありましたが、それは現在のようなメインの曲ではなく、「非日常」の時間が過ぎ去り、日常生活が戻ってくることを告げるものでした。

1720〜1810年に16,558曲ものシンフォニーアがあったのは、オペラや礼拝や演奏会の開始音楽が、それだけたくさん必要だったからです。同じ「交響曲」を何度も使えませんでしたから。開幕ベル代わりですから、1曲30分なんてとんでもない! 1曲10分程度2。CD1枚に6曲でぴったりです。

しかも、その10分程の「交響曲」、極めるどころか別に聴かなくてもよかったらしいですよ…。この続きは次回のコラムをお楽しみに。

  1. 前回第3回定期で《オーリドのイフィジェニー》序曲を取り上げたグルックは、オペラ改革者としてヴァーグナーに高く評価されました。その主唱のひとつが、序曲において、オペラ本体で使われる音楽や雰囲気を先取りするというオペラ序曲の改革です。この手法は、現代の私たちには当然のことですが、「非日常」の始まりを告げるだけの序曲なら、オペラ本体と音楽的に関連付ける必要はありませんでした。
  2. 前回のコラムで紹介したJ. C. バッハのシンフォニーア 18-4、遅めの演奏で10分37秒かかっていますが、これは1楽章ではなく3楽章全体の時間です。