09. 1月 2013 · (115) 愛の楽器? クラリネット (2) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , ,

オーケストラの4種の木管楽器の中で最も遅く、18世紀初めに誕生したクラリネット((113) 愛の楽器? (1)参照)。名曲を多く残したモーツァルトが、クラリネットを初めて知ったのはいつでしょう?

ヴィーン宮廷楽団に仕えたクラリネットの名手シュタードラーはモーツァルトの3歳上。五重奏曲(1789)や協奏曲(1791)は、彼のために作られました。《セレナード〈グラン・パルティータ〉》(1784)も、彼の演奏会用と言われています。フリーメイソンの盟友でもあり、プラハでの《皇帝ティートの慈悲》初演に友情出演。シュタードラーの優れた演奏技術から、モーツァルトは大きな刺激を受けました。しかし、クラリネットを知ったのはもっと前のことです。

  • 1778年(22歳)の就活旅行の際、パリで、クラリネットを用いた初めての交響曲を作ったとき?

パリのコンセール・スピリテュエルのオーケストラは、当時、モーツァルトが仕えていたザルツブルク宮廷楽団(オーボエ2+ホルン2+弦約20、時にトランペットやティンパニも。この時代の標準的な編成)の、ほぼ2倍。フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット各2+ティンパニ+弦約40の大編成!1 このオーケストラの演奏会用に作られたのが《パリ》交響曲です((11) 旅によって成長したモーツァルト参照)。しかし、クラリネットを知ったのはもっと前。

  • 同じ1778年、パリに向かう前に訪れたマンハイムでクラリネットが入った宮廷楽団に接したとき?

選帝候カール・テオドールが質・量ともに高めたマンハイムのオーケストラ。1758年という早い時期からクラリネット奏者が雇われていて、この楽器がオーケストラで定席を得るのに貢献しました。もしも、マンハイム楽派の祖ヨハン・シュターミッツ(1757年没)作と伝えられるクラリネット協奏曲の帰属が正しいならば、記録が残るよりも前から、優秀なクラリネット奏者が在籍したことになります。ただし、モーツァルトがクラリネットを知ったのはこのマンハイム滞在よりも前。

  • 15歳で初めてクラリネットを用いた作品を書いたとき?

1771年、第2回イタリア旅行中にミラノで作った、弦4部、クラリネット2、ホルン2のための《8声のディヴェルティメント変ホ長調(K.113)》が、彼の初クラリネット入り音楽2。しかし、モーツァルトはさらに前の1764年にクラリネットを使っています。

「西方への大旅行」中に長逗留したロンドンで、モーツァルトは当地で活躍していたアーベルの交響曲op. 7, no. 6を筆写。新しいジャンルである交響曲を学ぶためですね(上記 (11) 参照)3。でも、そのまま写したのではありませんでした。アーベルが書いたオーボエ・パートを、移調してB♭クラリネット用に書き替えているのです 4。このとき彼、8歳。

モーツァルトがクラリネットを初めて知ったのがいつかは、はっきりわかりません。このロンドンでかもしれませんし、あるいは、前年、ザルツブルクを発ったばかりの頃に立ち寄ったマンハイムでという可能性もあります。いずれにしろ、彼はこの新興の楽器が持つ大きな可能性に早い段階で気づき、亡くなる直前に協奏曲を完成するまで、生涯をかけてその魅力を引き出し続けたのですね。

それにしても、今回も「愛」の話は全く出て来ません。タイトルを変更したほうが良さそう……。

  1. 海老澤敏編著『図解雑学モーツァルトの名曲』ナツメ社、2006、21ページ。
  2. この曲には、オーボエ、イングリッシュ・ホルン、ファゴット各2の第2稿が存在。これを、第1稿のクラリネットとホルンに加えると考えると、同じ編成(オーボエ、クラリネット、イングリッシュ・ホルン、ホルン、ファゴット各2)のための2曲のディヴェルティメント(K. 166/159dとK. 186/159b)のように、第3回イタリア旅行のために書かれたことになります。一方、クラリネットが不要と考えると、奏者がいないザルツブルクで演奏するために書き替えられたことになります。竹内ふみ子『モーツァルト事典』東京書籍、1991、319ページ。
  3. ケッヘルは自筆譜に基づいてモーツァルトの交響曲第3番K.18とし、旧全集にも収められました。
  4. アーベルのオーボエ・パートを旧全集のクラリネット・パートと比較してみたところ、数カ所、音が違っていました。他パートとの平行進行を避けるためと思われる所もありましたが、理由がよくわからない変更もありました。