07. 9月 2016 · (289) コラム番外編 トーマス教会とバッハ はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

行って来ました、ライプツィヒ((288) ライプツィヒとバッハ参照)!! 東ドイツの一部だったことが信じられないほど、おしゃれで魅力的な街でした。今回のコラム番外編は、写真を添えたご報告です。

写真1左は、西日に映えるトーマス教会正面。1723年から亡くなる1750年まで、ヨハン・ゼバスティアン・バッハがカントルを務めた教会です。この右側面にあたる教会南側の広場(写真1中)には、オルガンの前に立つバッハ像(写真1右、1908年ゼフナー作1)。記念撮影の観光客で、朝から大にぎわい(ライプツィヒ在住20年以上の友人が勧めてくれた宿が、この像の真向かいでした)。右手に丸めた楽譜を持ち、指揮しようとしています。

写真1左:ライプツィヒのトーマス教会正面、中:トーマス教会南側広場、右:バッハ像

写真1

祭壇に向かって右側の窓には、ステンドグラスが施されています。バッハの肖像画(写真2左と中上)はもちろん、バッハと同様ライプツィヒに縁の深い、マルティン・ルター(写真2右)やメンデルスゾーンの肖像画(写真2中下)のステンドグラスもありました。

写真2

写真2

写真3左上は教会内部。向こう側=東側に祭壇があり、内陣にはバッハの墓(写真3左下)。第2次世界大戦で破壊されたため、1949年からここに置かれています。祭壇に向かって左側の2階には、2000年に設置されたバロック様式のオルガン(写真3中下)。祭壇の反対側、会衆席後ろの2階にあるオルガン(写真3右下)はロマン派様式で、礼拝などでは左側面のオルガンを弾いていました。

トーマス教会では、夏休みなどを除く毎週金曜6時からと土曜3時から、トーマス教会少年合唱団の公演が開かれます。金曜は無伴奏。土曜はゲヴァントハウス管弦楽団のメンバーが伴奏に加わったカンタータも。バッハの時代も、この2階後ろの聖歌隊席(写真3右上)でカンタータが演奏されたそうです。

いずれの公演もオルガン演奏で始まり、会衆も一緒に歌う聖歌やコラールを含む礼拝形式で行われますが、途中に入るのは説教というよりむしろスピーチに近い短いもの(写真3中上は、2公演と日曜礼拝のプログラム)。私が行った金曜(8/19)のコンサートには、通奏低音の伴奏が加わっていました。また翌土曜の公演では、バッハのカンタータ33番などの演奏前に、新しいトーマスカントル(ゴットホルト・シュヴァルツ氏)の就任式があり、18世紀にバッハが担っていた伝統が、21世紀の現在まで引き継がれていることを実感させられました。

写真2

写真3

  1. ライプツィヒ観光局のサイトより。
18. 9月 2013 · (151) 生きてる? オーケストラ演奏会のプログラム (2) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

(150) 歌が不可欠? オケ演奏会のプログラム (1) でご紹介した、ロンドンの同じ会場で行われた2つのオーケストラ定期演奏会。70年を経て、全体の曲数が減った以外の大きな違いとは? ヒントは作曲家です。各コンサートで取り上げられた作曲家は:

1、ザロモン予約演奏会、1791年5月27日

ロセッティ(1750〜91)
ザロモン(1745〜1815)
ハイドン(1732〜1809)
アンヌ=マリー・クルムフォルツ(1766〜1813)

2、ロンドン、フィルハーモニー協会定期演奏会、1861、3、18

†ヘンデル(1685〜1759)
†ベートーヴェン(1770〜1827)
パチーニ(1798〜1867)
メルカダンテ(1795〜1870)
†ヴェーバー(1786〜1826)
†メンデルスゾーン(1809〜47)
ベネディクト(1804〜85)
ロッシーニ(1792〜1868)

違いは歴然ですね。1の演奏会では、まだ生きている作曲家ばかり。一方2の演奏会では、生きているのは半数。声楽曲の作曲家が記録されていないザロモン演奏会と条件を合わせるためにパチーニとベネディクトを除くと、2/3(†印)が亡くなった作曲家です。

現在、聖フィルに限らずアマ・オケの演奏会で、存命の作曲家の作品を演奏することはほとんどありませんよね。ショスタコーヴィッチやハチャトゥリアンでも亡くなって30年以上経ちますし、聖フィルが今回取り上げるモーツァルトとハイドンは、200年以上! プロ・オケでも、特別なシリーズや委嘱作品を除くと、ほとんどが亡くなった作曲家の曲ばかりです。

でも、18世紀のコンサートは最近の音楽を聴くもので、古い作品を聴くという発想は一般的ではありませんでした1。したがって、生きているか、あるいはついこの前まで生きていた作曲家の作品が演奏されたのです。1781年に発足したゲヴァントハウス管弦楽団が1780年代の定期演奏会で取り上げた曲の中で、亡くなった作曲家の割合はわずか11%2。この割合が徐々に高くなり、1870年代には76%に。19世紀に設立されたパリ音楽院管弦楽団や、ロンドンのフィルハーモニック協会の定期演奏会でも同様で、1870年代にはそれぞれ78%と85%が、亡くなった作曲家の曲になります 3

変化の原因は? 18世紀まで作曲家は「職人」であり、曲は命令・注文されて、あるいは特定の機会のために作るものでした。このような(「交響曲」を含む)機会音楽は、多くの場合ほぼ使い捨て。また、オーケストラ演奏会における声楽曲や協奏曲は、曲を楽しむ以上にソリストの妙技を楽しむものでした。次々に新しい作品が求められたのは当然です。

これを変えたのが、ベートーヴェン。彼によって、開幕ベル代わりだった「交響曲」は、持てる力を全て注ぎ込んで、それまで誰も試みなかったような作品を作る記念碑的なジャンルに変貌しました。このように作られた9曲は、演奏会においてユニークな地位を得ます。

ゲヴァントハウス管弦楽団の定期演奏会では、1807年という非常に早い時期に、休憩後は交響曲(《エロイカ》)1曲だけという現在のようなプログラム構成が試みられました。他の交響曲も《第九》以外は1818年までに演奏され、その後、少なくとも3年に1度は取り上げられているそうです4

ロンドンのフィルハーモニック協会コンサートでも同様でした5。1825年(やはり第2部が1曲のみというプログラム構成で、《第九》のロンドン初演が行われた年。もともと、このオーケストラの委嘱がきっかけで作曲されたのでした)から34年までの計80回の定期演奏会中75回で、ベートーヴェンの作品(交響曲、協奏曲、室内楽、歌曲)が1曲以上取り上げられています。交響曲は全部で64回! 第5、6、7番は、この10年間、毎年欠かさず演奏されていました。ベートーヴェンと彼の交響曲の特別視する傾向は、1827年の没後に衰えるどころかますます盛んになり、19世紀を通して続きます。

生きている作曲家の作品中心から、亡くなった作曲家の作品中心へ。交響曲の在り方を変えたベートーヴェンは、音楽を享受する側の意識も変えました。プログラムの変化は、繰り返し演奏し試聴する「芸術作品」の成立の反映でもあるのです。

  1. ロンドンの Antient (sic.) Music コンサート・シリーズは例外的。「古代」と言ってもヘンリー・パーセル止まりでしたが。Weber, William, The Great Transformation of Musical Taste. Cambridge University Press, 2008, p. 70.
  2. 前掲書、p. 169.
  3. 同上。
  4. 前掲書、p. 175-76.
  5. Foster, Myles Birket, History of the Philharmonic society of London 1813-1912. London: John Lane, 1912. Internet Archive, http://archive.org/stream/historyofphilhar00fost#page/n0/mode/2up.
21. 8月 2013 · (147) 奏者のやりくり:18世紀のオーケストラ はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

古典派初期のオーケストラにおける持ち替えは、オーボエ奏者がフルートも吹く((145) フルートは持ち替えだった参照)だけではありませんでした。18世紀半ばの例をご紹介しましょう。1743年、ライプツィヒの裕福な市民たちが、職業演奏家を経済的に支援しつつ自らが企画運営する、ライプツィヒ演奏会協会を結成(食堂と旅籠を兼ねたガストハウスで行われていた演奏会は、1781年以降、織物業者組合の見本市用建物ゲヴァントハウスで開催されるようになりました1。つまりこれは、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の前身オーケストラの話です)。図1は、誕生間もない1746〜48年の演奏会協会の配置図2

図1:ライプツィヒ演奏家協会、1746〜48年

図1:ライプツィヒ演奏会協会、1746〜48年

メンバー(クリックで拡大します)は、フルート1、オーボエ(兼フルート)2、ファゴット3、ホルン2、ファースト・ヴァイオリン5、セカンド・ヴァイオリン5、ヴィオラ1、チェロ2、コントラバス2、チェンバロ1、歌手3(ソプラノ2、アルト1)の計27名。ヴァイオリンが5人ずつなのに、ヴィオラは1人?!

「トラヴェルソ、またはオーボエ」と書いてあるように、オーボエ奏者がフルートを持ち替え。オーボエとフルートが同時に必要な場合は、ファゴット奏者のうちの1人がフルートに。ホルン奏者の1番はヴィオラ、2番はセカンド・ヴァイオリンも担当。トランペットとティンパニが必要な場合は、ファースト・ヴァイオリン奏者1人と第2オーボエ奏者がトランペット、第1ホルン奏者がティンパニに。歌手のうち2人は、ヴィオラの助っ人。声楽が含まれない曲を演奏するときは、歌手も(できるだけ)楽器演奏に加わったのですね。ということは、ヴァイオリン5人ずつにヴィオラが3人(あるいはホルン1番も加わって4人)。一方、歌手が足りない場合は、ファースト・ヴァイオリンとセカンド・ヴァイオリンから1人ずつがテノールを、セカンド・ヴァイオリンの1人がバスを歌いました。

左上隅、第1ホルン奏者リーマー氏は大忙し。ホルンが含まれない弦楽合奏曲ではヴィオラを、祝祭的な曲ではティンパニを担当したのでしょう。でも、ティンパニが含まれる曲にホルンも必要だったら(おそらく必要ですよ)、どうしたんでしょうね?? 緩徐楽章のようなティンパニが休みの楽章では、ホルンを吹いたのかな?? 1曲の中で両方演奏した(=ティンパニが休みの部分でホルンを吹いた)とは考えにくいので、第2ホルン奏者だけで間に合わせたのでしょうか。

ハイドンが楽長をしていたエステルハージ侯爵のオーケストラでも、ファゴット奏者がヴィオラとティンパニを担当していましたね((100) ホルン奏者が多い理由参照)。あちらは1772年ですが、やりくりは似た感じ。実は、健康上・年齢上の理由で管楽器を吹けなくなったときに楽師としての地位を失わないように、管楽器奏者に早い段階から弦楽器も並行して学ばせたという、この時代ならではの事情もありました3

ところでこのリーマー氏、管・弦・打楽器をこなすのみならず、ライプツィヒ演奏会協会の年代記も記録していてくれました。図1もリーマー氏に基づく配置図ですが、よく見るとかなり奇妙です。中央のチェンバロ奏者が観客に背中を向けていたというのですが、18世紀の演奏会では、奏者は観客に背中を向けないのがエチケット(オペラの伴奏は別)。それに、客席がこの図の左側にあったとすると、ファースト・ヴァイオリン奏者はセカンド・ヴァイオリンよりも客席から遠いところで演奏し、歌手はさらにその後ろで歌ったことになりますね。普通はこの逆です。リーマー氏の間違いとみなして、チェンバロ奏者は観客に向かって座っていた、つまり図の右側が客席だったとすると、オーボエやフルートよりも手前にファゴットやコントラバス奏者がいたことに。これも普通ではありません。本当にこの配置で演奏したのか、不思議ですね。

  1. 小宮正安『オーケストラの文化史』春秋社、2011、82-84。
  2. Koury, Daniel J., Orchestral Performance Practices in the Nineteenth Century. Univ. of Rochester Press, 1988, p. 39 (source: Dörffel, Geschichte der Gewandhausconcerte zu Leipzig, Concert-Direction, 1884, p. 6).
  3. マーリング、大崎滋生『オーケストラの社会史』音楽之友社、1990、255。
29. 8月 2012 · (96) オーケストラの楽器配置(ライプツィヒ、1835) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

(89) どこで弾いていたのか? 第九の初演 (2) の図2を見て、オーケストラが合唱団の後ろで演奏していたことだけではなく、楽器の配置が現在とずいぶん違うことに驚かれたことでしょう。現在の配置の元を作ったのは、メンデルスゾーンと言われています。1835年にカペルマイスターとなったライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団で彼が採用したオーケストラの配置は、1843年にロンドンにも導入され、多くの点で「完全に革命的」と評されたそうです(図1。図はすべてクリックで拡大します)1

図1:メンデルスゾーンによる「完全に革命的」な楽器配置

手前が客席。指揮者を中心に、半円形に楽器奏者が並びます。いわゆる対向型とか両翼型と呼ばれる形ですが、ファーストとセカンドの位置が現在と逆。その間に書かれた楽器名はチェロ、その後ろがコントラバスのご先祖さま Violone ですね 。あれれ、何か足りないような……。そうか、ヴィオラがとんでいる。ヴィオラはどこ? ありました。3列目、木管楽器の右側。他の弦楽器よりも冷遇されていますね。

4種類の木管楽器は、音域が高い方から順番に右から一列に並んでいますね。その後ろに金管楽器。人数が多いホルンとトロンボーンが手前。バロック時代から祝祭的な音楽にペアで使われて来たトランペットとティンパニが、最も後ろです(ちゃんとPaukenもあります!)。図2は、1850年の、ゲヴァントハウス管弦楽団のリハーサルを描いたもの2。チェロの手前は、セカンド・ヴァイオリンということでしょうか。1人だけ台の上で弾いているのは、コンサート・マスターでしょうね。彼をはじめ、ヴァイオリンは立っています。

図2:ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏風景

ところで、この「革命的」な配置が導入されるまで、オーケストラの楽器はどのような配置だったのでしょう。ロンドンでは、指揮者を中心に奏者が客席に顔を向けて演奏していて、コントラバスが前にいたので、ヴァイオリンの主旋律が聴こえにくかったそうです。現在と全く違うので、想像しづらい……?

実は、全くの偶然ながら、既にこのような配置をご紹介していました。(57) ヨハン・シュトラウスは人気者の図1としてあげた楽譜の表紙を再掲します(図3)。右上に描かれたコヴェント・ガーデンでの演奏図(1867年)。観客席に向いて弓を振りながら指揮するヨハン・シュトラウス2世の左側に、ずらっと並んだ譜面台。演奏している楽器ははっきりしませんが、譜面台がこの向きで置かれているということは、奏者も客席の方を向いているということですね。それと、指揮者の右側の端に見えるのは、もしかしたらコントラバスと弓(白い横線)ではないでしょうか? このコラムを書いたときには、大人気のヨハン・シュトラウス楽団だからかと思ったのですが、それほど変わった風景ではなかったようです。

作曲家としての活躍以外に、バッハの《マタイ受難曲》を蘇演してバッハ・リバイバルのきっかけを作ったメンデルスゾーン。指揮者としても、大きな功績があったのですね。

図3:ヨハン・シュトラウス2世:《コヴェント・ガーデンの思い出》ピアノ独奏楽譜の表紙

  1. 森泰彦「ベートーヴェンのオーケストラ作品の演奏解釈」『ベートーヴェン全集10』講談社、2000、138ページ。
  2. 田村和紀夫『クラシック音楽の世界』新星出版社、2011、173ページ。