14. 4月 2011 · (24) 川畠成道先生のアンコール曲 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , , , , ,

第4回聖フィル定期演奏会にご来場くださったみなさま、どうもありがとうございました。お楽しみいただけましたでしょうか。川畠先生のブルッフ、素晴らしかったですね。でも、その後のアンコールも圧巻でした。曲目は、イザイ作曲「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番作品27−3《バラード》」。実は私、「イザイ=有名なヴァイオリニストで難しいヴァイオリン曲を作った人」程度しか知りませんでしたので、さっそく調べてみました。

ベルギー生まれのウジェーヌ・イザイ(1858〜1931)は、《蝶々夫人》を作ったプッチーニと同い年。他にエルガー(イザイより1つ年上で、3年長生きした)、ドビュッシー(4つ下)、リヒャルト・シュトラウス(6つ下)、シベリウス(7つ下)らが同世代です。歌劇場指揮者であった父にヴァイオリンを教わり、その後ヴィェニャフスキ(1835〜80)やヴュータン(1820〜81)に学びました。フランクが最初の結婚のプレゼントとして、ヴァイオリン・ソナタを献呈したことでも有名です(1886)1

イザイの作品では、今回のアンコール曲を含む「6つの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ(1924)」の演奏機会が多いようです。6曲はそれぞれ別の、当時の著名なヴァイオリニストに捧げられました。作曲のきっかけはもちろん、 J. S. バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」。バッハは3曲のソナタを、緩-急-緩-急の4楽章から成る教会ソナタ型に、3曲のパルティータ(この場合は「組曲」の意味)のうちの2曲を、アルマンド-クーラント-サラバンド-ジーグの組曲定型に(有名な第2番のシャコンヌは、これらに続く第5楽章)、残る1曲をガヴォットやメヌエットなどを含むフランス風の組曲に作りました。

イザイはかなり自由に、しかしバッハを強く意識しながら作曲しています。シゲティに捧げられた第1番はグラーヴェ(=緩)で始まりアレグロ(=急)で終わる4楽章構成ですし、クライスラーに捧げられた第4番には、アルマンドとサラバンドが含まれます。ティボーに捧げられた第2番のように、バッハのパルティータ第3番のプレリュードがそのまま引用される曲もありますし、対位法的な書法もあちこちに使われています。

川畠先生が弾かれた第3番《バラード》は、ルーマニア生まれのエネスク(エネスコ)に捧げられました。バラードは、14、15世紀フランスで作られた世俗声楽曲の形式ですが、ロマン派時代、物語に触発された自由な形式の器楽作品も指すようになりました(ショパンの4曲のバラードが代表例です)。

曲は、レチタティーヴォ風にと指示された序奏で静かに始まります。ここでは「ら-し-#ど-#れ-ふぁ-そ」の全音音階が多用され、調性感はあいまいです。古典派モーツァルトとベートーヴェン+ロマン派ブルッフという演奏会のアンコールに、20世紀の響きを持つ曲を選ばれた川畠先生の、絶妙のバランス感覚に感服! 3拍子アレグロの主部に入ると、鋭い付点リズムを含んだ主旋律が、かなり明確なニ短調の主調で現れます。複数の弦を同時に弾く重音奏法が多用されるのみならず、複雑に絡み合った旋律と伴奏の弾き分け(無伴奏ですから、1つのヴァイオリンで両方担当しなければなりません)も要求されます。最後は主旋律の音型も用いながら、次第にテンポを上げていきます。

ソナタの中にバラードを収めることも、その1楽章だけでソナタを構成することも、通常は絶対に有り得ません。しかし、音楽に強い物語性が感じられ、しかもしっかりと完結しているために、イザイの意表をついたネーミング&構成には説得力があります。非常に雄弁な音楽を作り出すことが出来る川畠先生に、ふさわしい曲だと感じました。

余談ですが、寺田寅彦が随筆の中でイザイについて触れていると、団員の chezUe さんが教えてくださいました。著名な地球物理学者であり、漱石門下として多数の随筆を残した寺田寅彦は、ヴァイオリンを弾く音楽好きだったそうです。

バイオリンやセロをひいてよい音を出すのはなかなかむつかしいものである。(中略)たとえばイザイの持っていたバイオリンはブリジが低くて弦が指板にすれすれになっていた、他人が少し強くひこうとすると弦が指板にぶつかって困ったが、イザイはこれでやすやすと驚くべき強大なよい音を出したそうである。(後略)2

  1. ショーソンの《詩曲(ポエム)》などを初演しました。ビルゼ楽団(ベルリン・フィルの前身)のコンサート・マスター(1879〜62)、ブリュッセル音楽院教授(1886〜98)、シンシナティ交響楽団の指揮者(1917〜22)などを務めています。
  2. 小宮豊隆編、寺田寅彦随筆集第3巻より「『手首』の問題」、岩波文庫、1948。このようなわずかな記述を記憶しておられた chezUe さん、さすがですね。
21. 3月 2011 · (19) 独り立ちする「交響曲」 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , , , ,

17世紀の末に、ウヴェルチュール(フランス風序曲)と対をなすような形でオペラの序曲として誕生した「交響曲」シンフォニーア。オペラやコンサートの開幕を告げる曲にすぎなかった「交響曲」が、ようやく演奏会のメイン・プログラムに昇格する時がやってまいりました。ドイツ人ヴァイオリニストにして目先の利く興行師、ヨハン・ペーター・ザロモン(1745〜1815)がロンドンで行った「ザロモン・コンサート」が、その転換点と考えられます。

ザロモンは、約30年間勤めたエステルハージ家の契約から自由になったハイドンをロンドンに迎え、1791年と翌年に、新作交響曲6曲(93〜98番)を含む彼の作品を中心に据えた、各12回の予約演奏会を開催します。1794年と翌年には、ハイドンの第2期ザロモン交響曲と呼ばれる99〜104番の初演を含む、21回の予約演奏会が行われました。

これらの演奏会は「二部にわかれ、第二部のはじめにハイドンの大序曲、すなわち交響曲が演奏された。この順序は、全部のザロモン演奏会を通じてつねに守られた。これは、遅刻者たちも席に着いて場内がすっかり落ち着いてから、心ゆくまで交響曲を聴かせようという配慮にもとづくものであった」1

メイン・プログラムの一部として真ん中に据えられたとは言え、交響曲は第2部の「序曲」。その後に、独唱や協奏曲が続きます2。しかし、ロンドンの聴衆がハイドンの交響曲を、コンサート最大の呼び物と考えていたのは、第1期最初のザロモン演奏会を報じる新聞記事からも明らかです。

ハイドンによる新しい大序曲(交響曲第96番)は、最大の喝采を浴び(中略)、聴衆は魅了され、満場の希望によって、第2楽章がアンコールされた。つぎに第3楽章をもう一度繰り返すよう熱心に求められた。(後略)3

イギリスでは、庶民も聴くことができる公開コンサートが17世紀末に一般化し、ロンドンはパリと並ぶ音楽の先進地でした。聴衆の耳も、肥えていたことでしょう。会場のハノーヴァー・スクエア・ルーム(1773年〜75年建設)は、800人以上を収容できました4。また、ザロモンが率いたオーケストラは総勢約40名と規模が大きく、表現力も優れていたと思われます。

もちろんハイドンも、聴衆が「ソリストのいない協奏曲」である交響曲を楽しめるように、コンサート・マスターのザロモンを始め、管楽器奏者の独奏をあちこちに織り込んだり、突然の転調やゲネラル・パウゼ、予想を裏切る強弱変化など、ウィットに富む音楽作りを心がけています5。「交響曲を聴きに音楽会へ行く」という発想の大転換は、このような様々な条件が整って初めて可能になったのです。

余談ですが、先の新聞評が示す当時の演奏習慣についても述べておきます。現代の演奏会では、アンコール用の小曲を別に用意するのが慣例ですが、実は、「もう一度」というアンコール(仏語)の語源が示すように、聴衆が気に入ったプログラムの一部を、再び演奏するのが本来の形でした。

ちなみに、聴衆は音楽が気に入ると、曲が終わらなくても拍手することもありました。モーツァルトは父レオポルトに宛てて、《パリ》交響曲初演の際、第1楽章の途中に聴衆のために用意した「しかけ」が、拍手喝采を浴びたと書いています(この「しかけ」がどの部分を指すのかは不明)。後にメンデルスゾーンは、楽章が終わるたびに起こる拍手を嫌って、全楽章が連続して演奏されるヴァイオリン協奏曲やピアノ協奏曲を書きましたが、たしかにロマン派の協奏曲の多くは、第1楽章が終わると拍手したくなりますよね。この、楽章間に拍手する習慣は、20世紀になっても残っていたそうです。

  1. 大宮真琴『ハイドン新版』音楽之友社、1981、125ページ。たとえば、聖フィルが第1回定期演奏会で取り上げた、ハイドンの交響曲第100番《軍隊》の初演時のプログラム(1794年第8回ザロモン予約演奏会。3月31日午後8:00開演、ハノーヴァー・スクエア・ルーム)は、以下のとおりでした。

    第1部
    1. 交響曲(プレイエル、1757〜1831)
    2. 男声歌手のアリア
    3. 弦楽四重奏曲(ハイドン)
    4. 女声歌手の独唱
    5. ハープ協奏曲

    第2部
    1. 交響曲《軍隊》(ハイドン)
    2. 男声歌手の独唱
    3. ヴァイオリン協奏曲(ヴィオッティ、1755〜1824)
    4. 女声歌手の独唱

  2. この第1部と第2部を交響曲で始める形は、ベートーヴェンが《運命》交響曲を初演する際も引き継がれます。これについては、また改めて書きます。
  3. 1791年3月12日付けダイアリー紙。大宮、前掲書、126ページ。
  4. 石多正男『交響曲の生涯』東京書籍、2006年、86ページ。
  5. 実はこの「ソリストのいない協奏曲」(独奏楽器群なしの、伴奏楽器群だけによる協奏曲という意味で「リピエノ・コンチェルト」と呼びます)も、交響曲成立への重要な源の1つです。