08. 5月 2013 · (132) 楽譜どおりに演奏しても足りない場合:通奏低音 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,
譜例1:Corelli 作曲 Concerto Grosso op. 8, no. 6

譜例1 コレッリ:コンチェルト・グロッソ op. 6-8(クリックで拡大します)

季節外れですみませんが、譜例1は(59) クリスマスに聴きたい音楽 part 3(61) 楽譜どおり演奏してはいけない場合:バロック音楽の付点リズムでご紹介した、アルカンジェロ・コレッリ作曲《クリスマス・コンチェルト》原典版スコアの冒頭。上3段は独奏楽器であるヴァイオリン2つとチェロ((61) 譜例1はこの部分)、下4段は伴奏楽器群(ヴァイオリン2つとヴィオラ、バス)。この6小節間は、1番上と4段目のヴァイオリン I、上から2段目と5段目のヴァイオリン II、チェロとバスの楽譜は、それぞれ全く同じです。

コレッリが書いた7パートを演奏すれば音楽が完成するか? 実はこれだけでは足りません。CDを聴きながら耳を澄ますと、チャカチャカとかポロポロとか、弦楽器以外の音が聴こえます。そう、バロック音楽にはチェンバロ(ピアノのご先祖さまの鍵盤楽器。英語ではハープシコード)が付きもの。でも、スコアにはチェンバロ・パートはありませんね。どこを弾くの?

答えは、1番下のバス・パート。これはコントラバスのバスではなく、Basso Continuo (イタリア語。バッソ・コンティヌオと読みます)のバス。継続される低い音ということで、日本語では通奏低音と呼びます。バロック時代の特殊な伴奏法で、コラムでも既に(詳しい説明をしないまま)何度も使いました。この1番下のパートは、チェロやファゴット、ヴィオラ・ダ・ガンバなどの低音旋律楽器が弾くパートで、チェンバロ奏者も左手で弾きます。

右手で弾くべき楽譜はありません。右手も左手と同じ音をユニゾンで弾く……わけではなく、右手は遊んでいる……わけでもなく、右手は左手の低音旋律に合う和音を即興で弾くのです。譜例1のように、多くは弾くべき和音が数字で示されます。ジャズなどで使うコード・ネームのようなものですね。

譜例1の数字の読み方を簡単に説明します。数字が書かれていない場合は、右手で低音の3度上と5度上の音を弾きます(たとえば1小節目のソにはシ♭とレ)。6と書かれていたら、3度上と6度上の音(たとえば3小節目のシ♭の上には、レとソ)。縦に56と書かれていたら、3度上と5度上と6度上の音(たとえば3小節目の2拍目のシ♮には、レファソ)。いずれも、左手の音も弾いてオーケー。また即興ですから、弾きやすい音域の弾きやすい形で弾きます。たとえば1小節目のソシ♭レの和音は、レシ♭でもシ♭レでもシ♭レソでもレソシ♭でも構いません。

数字に♯♭♮が付いていたら、臨時記号に従ってその数字の音を半音変化させます。♯の代わりに+がついたり、2小節目のように数字に重ねて斜線が書かれることもあります(2小節目ラの上に弾く音は、6♯なのでファ♯とド)。数字が無いところに♯♭♮が書かれていたら、3度上の音を変化させよという意味。

もちろん、指定された和音を延ばすだけではなく、主旋律をまねしたり合いの手を入れたり、長い音符を分散和音で飾ったり、和音の中で自由に即興します。ハープシコード以外に、オルガンやリュートも使われました。通奏低音は記譜の手間が省けますし、楽器によって異なる特徴を活かした伴奏ができます。

というわけで、バロック時代の作曲家はチェンバロ・パートを作曲しませんでした1。現在の演奏用パート譜に含まれるチェンバロの楽譜は、校訂者が(数字から)和音を補ってくれたもの。一つの例に過ぎませんから、時代様式に合う趣味の良い内容であれば、自分なりの即興に変えて弾いてもよいのです。通奏低音はバロック時代のあらゆる編成の曲に使われましたが、古典派の時代になると衰退してしまいました。

  1. チェンバロをオブリガート楽器として使ったり、協奏曲の独奏楽器として使った場合を除く。

《第九》第1楽章のオープニング。セカンド・ヴァイオリンとチェロのかすかな刻みの上に、ファースト・ヴァイオリンが第1主題の断片を「ちゃらーん……ちゃらーん……」と繰り返します。「ちゃらーん」の「ちゃ」は32分音符。8分音符の1/4の音価(音の長さ)です。一方、かすかな刻みは6連符。四分音符に6つですから、八分音符の1/3の音価。伴奏なのに「ちゃ」と微妙にずれています。空虚5度の響き(どのパートもラとミだけ。真ん中にドかド♯が加われば、長調か短調かはっきりするのですが)と相まって、この先、何が始まるのかわからない、なんとなく落ち着かない雰囲気が続きます。

落ち着かない3分割で思い出すのが《魔王》。病気の息子を抱いた父親が嵐の中、馬を走らせるというゲーテの詩に、シューベルトがつけたピアノ伴奏は、最初からずーっと3連符。疾走する馬の描写ですが、それだけではありません。左手の3連符による上向音階とともに、心急く様子、不気味さ、ただならぬ雰囲気を醸し出しています。もしも16分音符だったら(速過ぎて弾けないのはともかく)、これほどの切迫感は得られなかったでしょう。

2本足で歩く私たちには2拍子系の拍子は身についています。特に日本人は、地面にどっしり足をつけた農耕民族。3拍子には縁がありませんでした(騎馬民族なら、早馬のリズムから3拍子を体感できた?)。民謡はもちろん、唱歌・軍歌・童謡もほとんどが2拍子系。ぱっと思い浮かぶ例外は、「ぞーうさん、ぞーうさん、おーはながながいのね」の《ぞうさん》(團伊玖麿作曲)くらい。1拍を3等分する3連符は、さらに人工的で不安定に感じられます。3拍子の舞踏が珍しくないヨーロッパにおいても同様なはず。単に、8分音符ではもの足りなくて16分音符では細かすぎるから3連符にするわけではありません。《第九》のオープニングや《魔王》のピアノ伴奏も、3分割特有の不安定さをうまく利用しています。

ところが!! 西洋音楽の歴史において最初に生まれたのは、3分割でした(と突然、アマ・オケ奏者のための音楽史 (9) に変身)。3はキリスト教の三位一体を象徴する神聖な数。このため3等分は、より完全な分割法と考えられたのです。それに対して2分割は、不完全分割と呼ばれました。

グレゴリオ聖歌の記譜に使われたネウマは、音高を示すことはできます((82) 1000年前の楽譜参照)が、音価を示すことはできませんでした。音符の形によって音価を表す現在のような記譜システムが考えられたのは14世紀。音符は長い方から、マキシマ、ロンガ、ブレヴィス(■)、セミブレヴィス(◆)、ミニマの5種類。ブレヴィス1個をセミブレヴィスに分けるとき、3つに完全分割することと、2つに不完全分割することが可能でした。そのセミブレヴィスをミニマに分けるときも、2種類。これらを組み合わせた4種類の体系が図1です。

図1;ブレヴィスの分割(クリックで拡大します)

各分割を表す記号、メンスーラ記号も考え出されました(図1の最上段)。円は完全を表す記号で、1番左の⦿は、ブレヴィスからセミブレヴィスへも、セミブレヴィスからミニマへも完全分割であることを示します。左から2番目の○は、ロンガからブレヴィスへのみ3分割でブレヴィスからセミブレヴィスは2分割の印です。一方、ロンガからブレヴィスが不完全分割の場合、右側2つのように円ではなく右側が欠けた半円の記号が使われました。

あれれ、1番右側の記号?! そうです。現在、4分の4拍子の記号として使われている C は、アルファベットの C ではありません。14世紀に、不完全分割を表す記号として工夫された半円形です。それ以来何百年もの間、2分割=不完全であることを示し続けているのです1

  1. 14世紀の音楽家や理論家たちは様々な記号を考えましたが、その中で生き残ったのがこの4つです。金澤正剛『中世音楽の精神史』講談社選書メチエ、1998、211−2(図1も)。実際に楽譜に使われるようになったのは、もっと遅いようです。
05. 9月 2012 · (97) ドレミが平等社会だったら:十二音技法 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

17世紀から19世紀まで西洋音楽の基本だった長調・短調の体系は、競争社会です。オクターヴ内の12人が就職活動をしても、ハ長調会社に就職できるのは白い鍵盤の7人だけ。ト長調会社の場合は、白い鍵盤ファの人が不採用で、代わりにファ♯の人が採用されます。失業率42%! 就職できた7人の中で社長、部長、次長になる人もいますが、社長秘書を含め4人はヒラ社員((79) ドレミは階級社会?参照)。厳しい!

この競争 & 階級制度を壊そうと (?!) 19世紀末から各種の改革 (?) が提案されます。就活中の12人全員を採用し、役職を置かない完全に平等なシステムも考えられました。オクターヴ内の12個の音を1回ずつ使って「音列」を作り、その順番で音を使います。たとえばドならどの高さのドでもオーケー。同じ音なら何回繰り返してもオーケー。音の長さは自由(だからリズムも自由)。ただ、決められた音の順番は変えられません。

音の並べ方は12×11×10……=479,001,600通り。順番に3つずつ4個の和音、あるいは4つずつ3個の和音にしたり、音列を途中で分けて、2声部で対位法的に使ってもオーケー。さらに、基本音列から派生した音列を組み込むことも考えられます。たとえば、基本音列の12の音を後ろから順番に使う逆行形。また、音列のそれぞれの音の間隔を保ったまま最初の音の高さを変えると、全部で11種類の移高形(または移置形)ができます。

1920年前後にこのような全く新しい体系を考えたのは、ハウアーとシェーンベルク。十二音技法(twelve-tone technique)と呼ばれます。シェーンベルクの体系のほうが作曲家に残された自由度が高く、主流になりました。譜例1は、彼のピアノ曲 op. 25 no. 1 の基本音列と、その全ての音を6半音ずつ高く移した移高形。譜例2は、その2つの音列の使われ方1。複雑ですね。この曲の分析を宿題にされたら、泣いちゃいそう。

譜例1:シェーンベルク Suite op. 25, no. 1(プレリュード)基本音列と7番目の移高形

譜例2:シェーンベルク Suite op. 25, no. 1(プレリュード)1〜3小節(上)と16〜17小節(下)

私たちは調性音楽にあまりにも慣れ親しんでいるため、導音→主音(シ→ド)とかドミナント→トニカのような特定の重要な音に「解決」する関係を、無意識に探してしまいがち((80) 音楽における解決参照)。階級社会の要素を排除した「音列」という全く新しい秩序にもとづく夢の平等社会、シェーンベルクの十二音技法は、第2次大戦後、さらに発展していくことになります。

  1. 譜例はいずれも上野大輔「十ニ音技法」『音楽通論』久保田慶一編、アルテス、2009、129〜130より。 © 1925, Universal Edition A. G., Wien / UE 7627.
13. 6月 2012 · (85) アルトは高い はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , ,

女声の低いパートをアルトと呼びますね。でも、アルトはイタリア語で「高い」という意味です。矛盾している? いえいえ、「テノールよりも高い」声部です。現在、高い男声を指すテノールは、中世以来、とても重要な役割を持つパートでした。アマ・オケ奏者のための音楽史第7回は、中世の音楽が私たちに馴染みのある音楽に少しずつ近づいて来た約500年間についてです。

グレゴリオ聖歌は、メロディー1本だけのモノフォニー。バス・ラインも和音もありませんでしたが、やがて、より豊かな響きを求めて対旋律が加えられるようになります。2つ以上の旋律から成るポリフォニー(多声音楽)の誕生です。9世紀末の理論書には、聖歌の各音の下に新しい音を1つずつ加えるシンプルな方法が書かれています。12世紀になると、聖歌より高い音域に、自由で装飾的な対旋律が作られるようになりました。ひとつの母音でたくさんの音を歌う新旋律の下で、聖歌の1つ1つの音は長く引き伸ばして歌われます。聖歌のような既存の旋律を「定旋律」、それを受け持つ声部をテノール(ラテン語の tenere 「保持する」から)、上声を「ディスカントゥス」(ラテン語で「別々に歌う」の意)と呼ぶようになりました。

対旋律をもう1つ加えて、3声のポリフォニーも作られました。14世紀、3つ目の声部はコントラテノール(「テノールに対する」)と呼ばれます。テノールと同じ音域で旋律が作られたからです。でも、音域は同じでも中身は対照的。コントラテノールや、カントゥス(ラテン語で「歌」)とかスペリウス(ラテン語で「最上の」)とも呼ばれた上声が自由に細かく動くのに対し、テノールは相変わらず、定旋律を長い音符で歌っていました。

15世紀(ルネサンス時代!)には4声部がスタンダードに。声部名も4つ必要になりました。1450年頃、コントラテノールがコントラテノール・バッスス(「テノールに対して低い」声部)とコントラテノール・アルトゥス(「テノールに対して高い」声部)に分かれます。長い名前の一部が省略されて、4つの声部は

  • ラテン語:スペリウス(カントゥス、ディスカントゥス)、アルトゥス、テノール、バッスス
  • イタリア語:ソプラノ(カント、ディスカント)、アルト、テノーレ、バッソ

と呼ばれるようになりました。4声部は、豊かな響きを得るための最少の単位。この組み合わせは、1450年頃から現在に至るまで使い続けられています(図1参照)。

図1:4声書法の発展

名前が揃っただけではありません。構成のし方も変わって来ました。初めの頃、テノールの定旋律に合わせてそれぞれの対旋律が作られたため、対旋律同士の音がぶつかることも(大目にみられました)。複数の旋律で構成されるポリフォニーは、横の音楽。縦の響きは、声部間の音の重なりによってその瞬間に偶然生じるものでした。

しかし、最低声部がテノールからバッススに変わったために、現在、私たちが親しんでいる縦の音楽(ホモフォニー)にぐっと近づきました。テノール声部が受け持つ既存の旋律の動きにしばられず、自分で作った低音の上に意図的に音を重ね、縦の響きをコントロールできるようになったのです。もちろん、この間にも作曲家たちは、内声(になってしまった)テノールでは聴き取れないから、定旋律を1番上のカントゥスに歌わせちゃおうとか、逆にテノールならあまり聴こえないから(!?)、流行歌や、恋愛を歌った世俗曲の旋律を宗教曲の定旋律として使っちゃおうとか、ポリフォニーならではのさまざまな試みも続けているのですが。

主旋律とも言える定旋律を担っていたため、別格扱いだったテノール。長い間、音符を長く保持しながら歌うから「tenere 保つ」→テノールと呼ばれたと考えられてきましたが、最近では、ポリフォニーの構造を「しっかりと支える」声部だからと考えられるようになったそうです1

  1. D. Fallows & O. Jander, “Tenor”, New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol.25, Macmillan, 2001, 284. 図1は、ミヒェルス編『図解音楽事典』日本語版監修 角倉一朗、白水社、1989、230ページを参考にしました。
24. 5月 2012 · (82) 1000年前の楽譜、ネウマ譜 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , ,

アマ・オケ奏者のための音楽史第6回は質問から。約1000年前の楽譜に存在しなかったものは?

  1. 小節線
  2. 音部記号(ト音記号など)
  3. 譜線(五線など)

    譜例1:ネウマ譜(イタリア、15世紀)

1000年前は11世紀、中世。クラシック音楽のルーツ、グレゴリオ聖歌が整えられていった時代です((65) グレゴリオ聖歌はいくつあるのか参照)。聖歌が、譜例1のような黒くて四角い「ネウマ」で書かれていたことをご存知の方もおられるでしょう。譜線は4本。聖書の言葉をぼそぼそ唱えているよりも、節をつけて歌った方が神様にも喜ばれるだろうと生まれたグレゴリオ聖歌ですから、歌と言っても音域が狭いのです。4線譜で十分でした。現代でも、グレゴリオ聖歌集はネウマで記されます。

音部記号もありますね。譜例1(クリックで拡大します)の中のAは、ヘ音記号。現在と同様、右側の2つの点に挟まれた線がファですから、右隣のネウマはラ。主の降誕のシーンが細密画で描かれた、大きなPのイニシャルの右側には、現在、ヴィオラの記譜に使われるハ音記号のCが書かれています(B)。Cに挟まれた線がドですから、白い楕円が重なった右隣のネウマはレ(ヘ音記号もハ音記号も、4線のどれにでも付けられます。聖歌の歌い手は男性だったので、ト音記号はありませんでした)。ということは、上の3つのうちで1000年前に存在しなかったのは、小節線だけ?

この黒く四角いネウマは、13世紀ころから一般的になった新しいタイプ。それ以前は、地域によってネウマの形や書き方が異なっていました。譜例2は、1030年頃に南フランスで作られたネウマ譜(聖パウロの日のための聖歌)。ラテン語の祈りの言葉(=歌詞)が小さく書かれた上の、茶色っぽい点々がネウマです。小節線はもちろん、音部記号もありません。だいたい、音部記号を書くにも線が無いし……。

譜例2:ネウマ譜(アクィタニア式記譜法、1030年頃)

あれれ、歌詞と歌詞の間に白っぽい線が見えます(拡大して見てください)。これが、ファを表す譜線。先が尖ったもので、羊皮紙を傷つけてあるのです。よく見ると、まるでこの線の上下に等間隔に線が引かれているかのように、音符の高さが揃っています。これなら、歌うことができますね。というわけで、1000年前の楽譜に存在しなかったのは、小節線と音部記号。もちろん、さらに古い時代には、譜線もありませんでした(譜例3参照)1

私たちが日頃お世話になっている楽譜は、数えきれないほどあるグレゴリオ聖歌の覚え書きとして始まりました。聖歌の歌詞の上に、旋律線を示すような簡単な印(ネウマ)を記し、メロディーを思い出せるようにしたのです。11世紀初めに、譜例2のようにファの譜線が刻まれるようになり、その後、ファの線が赤インクで書かれる→色違いのドの線が加わる→音部記号の導入と進み、正確な音高表記が可能に。四線譜の発明は、グイード・ダレッツィオ((78) ドレミの元参照)に帰せられています。小節線が加わるのは、まだまだ先です。

譜例3:ネウマ譜(ザンクト・ガレン式記譜法、950〜975年)

  1. 譜例1と3に書かれた聖歌は、両方とも、降誕祭のためのアンティフォナ《Puer natus est nobis 我らに幼な子が生まれ給えり》です。
26. 4月 2012 · (78) ドレミの元 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , ,

「アマ・オケ奏者のための音楽史」第5回はドレミについて。いつも何気なく使っていますが、どうしてディン ドン デン ドゥン ダンとか、クン シャン チャオ チュ ユとかではなく、ド レ ミ ファ ソ ラ シなのか、これが何に由来するのかご存知ですか? 話は中世まで遡ります。

11世紀の僧グイード・ダレッツィオ(991-2頃〜1033後)が起源((64)『のだめカンタービレ』ありがとう!の図1で、千秋がこの名前もあげていますよ)。グイードは、音の高さとシラブルを対応させて歌う「ソルミゼーション」を考案しました。洗礼者ヨハネの誕生の祝日(6月24日)に用いられる、賛歌という種類のグレゴリオ聖歌《Ut queant laxis(貴方の僕たちが)》は、6つの句の初めの音が1つずつ高くなっていきます(譜例1の◯で囲まれた音参照)。そこで、グイードは各句の最初のシラブルをそれぞれの音の名前にしたのです。この ut re mi fa sol la ウト–レ–ミ–ファ–ソル–ラの6つが、ドレミの元の形です。

譜例1:《Et queant laxit(貴方の僕たちが)》(クリックで拡大します)

グレゴリオ聖歌はたくさんあり((65) グレゴリオ聖歌はいくつあるのか参照)、1年に1日しか歌わない聖歌も(たとえば、上の洗礼者ヨハネの誕生の祝日に使う聖歌は、同じ洗礼者ヨハネ殉教日や、福音書家ヨハネの祝日には使えません)。しかも、ほぼ口伝の時代ですから、大変! でも、この6つのシラブルとそれぞれの音の関係を覚えておくと:

図1:グイードの手(15世紀終わりの写本より)

  • 知らない旋律を聞いたとき、ウト–レ–ミで書き取ることができる
  • 読めない記号で書き付けられた知らない旋律を、ウト–レ–ミに対応させて覚えることができる

6つの音のうち、ミとファだけが半音の関係。下から全音–全音–半音–全音–全音です。ドから始まる6音だけではありません。シドの半音をミファと考えると、ソから始まる6音もウト–レ–ミ–ファ–ソル–ラ。シ♭を使うときは、ラとシ♭の半音がミファで、ファから始まる6音もウト–レ–ミ–ファ–ソル–ラ。6音を越える音域を持つ旋律は、この3種類を置換え(ムタツィオ)しながら歌いました。音によっては3種類に置換えられるものもあり(たとえばドの音は、ウト、ファ、ソル)、手の関節を使った早見表が使われました。グイードの手と呼ばれます(実際には、グイードの死後100年ほどしてから考案されたようです)。

ややこしい置換えなしに使えるように、17世紀初めに7つ目のシが加えられました(賛歌の最後の「聖ヨハネ Sancte Ioannes」の頭文字からと言われています。ラテン語に J はありませんでした)。歌いにくいウトをドに変えて、ドレミファソラシが完成。私たちも中世の僧たちと同じように、新しい旋律を歌ったり、覚えたりするときにお世話になっています。

ut re mi fa sol la は、5種類すべての母音と、それぞれ異なる6種類の子音の組み合わせ。このバラエティーに富んだ6つのシラブルから始まる《貴方の僕たちが》の各句の最初の音が、ちょうど1音ずつ高くなっていたなんて、素晴らしい偶然だなと思ったあなたは鋭い! 実はこの賛歌、歌詞は9世紀まで遡ることができるのですが、旋律はグイードより古い時代の記録が無いのです。そのため、グイードがソルミゼーションのために自分で作曲したか、あるいは現在は失われた既存の旋律を、作り直したのだろうと考えられています。

10. 1月 2012 · (63) 音楽は数学だった?! はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , ,

長らく中断していた「アマ・オケ奏者のための音楽史」シリーズ、待望の (?!) 第3回は、中世の音楽についてです。西洋における中世は、5世紀頃から14世紀頃までの約1000年間と、かなりアバウト((27) 音楽史の時代区分参照)。古代ギリシア・ローマ時代の後、その素晴らしかった古代の文化を再興しようとしたルネサンス時代(Renaissanceはフランス語で「再生」の意)までの間の、何も無い「間の紀」を指したからです。「バロック」と同様「中世」も、もとはネガティヴな意味合いを持つ時代区分でした((45) いびつな真珠参照)。

すべてが宗教=キリスト教によって支配されていた中世ヨーロッパ。古代ギリシアの数比に基づく音楽論が継承され、キリスト教神学のもとで発展します。中世の高等教育機関において音楽は、教養人が学ぶべき自由学芸(アルテス・リベラーレス)の1つとして、必須の学でした1。自由学芸は7科目あり、トリヴィウム(ラテン語でtriは「3」、viumは「道」で、3科目の意)と、クヮドリヴィウム(quadriは「4」で、4科目)に分けられています。トリヴィウムは:

    文法 / 修辞学 / 弁証法

つまり言葉の学問です。まず初めに語学力を身につけ、言葉で表現することを学ぶのです。次に学ぶクヮドリヴィウムは:

    算術 / 幾何学 / 天文学 / 音楽

これらは数の学問です。中世において数の学問が重視されたのは、神が創造した全世界は素晴らしい調和(ハルモニア)によって造られていて、その調和の根本原理が数の関係上に成り立っている。だから、数を学ぶことで調和の謎を解明し、神によって造られた世界を詳しく知る手がかりを得られる、という当時のキリスト教の考え方によるものでした2。そして、その調和の根本原理を「ムジカ=音楽」と呼んだのです。

数の学問に含まれていることからもわかるように、中世における音楽は私たちが思い浮かべる音楽と大きく異なっていました。ボエティウス(485頃〜524)が書いた『音楽提要』(De institutione musica『音楽教程』とも)は、後世に大きな影響を与えた音楽理論書ですが、音楽を以下の3つに分けています3

  1. ムジカ・ムンダーナ(宇宙の音楽):宇宙全体の調和
  2. ムジカ・フマーナ(人間の音楽):肉体と魂の調和
  3. ムジカ・インストゥルメンターリス(器具の音楽):実際に鳴り響く音楽

最も下位に置かれたムジカ・インストゥルメンターリスが、現在私たちが音楽と呼んでいるもの。器楽だけではなく声楽も含まれます(実際に鳴り響くので)。他の2つは聞こえませんが、たとえばムジカ・ムンダーナは「天体は非常に速い速度で動いているので、私たちの耳には届かないものの、全く音を発せないわけがない」とボエティウスは考えました。中世において実際に聞こえる音楽は、音楽の一部に過ぎなかったのです。

まとめ:中世において音楽は、それを通して世界の調和のしくみを探求する、数学(より正確には数の学問)の1部門と位置づけられていました。わかったような、わからないような……。

  1. 中世の高等教育は初め、修道院や教会の付属学校で行われました。12世紀以降、ヨーロッパ各地に大学が設立され、これらの自由学芸が受け継がれます。
  2. 金澤正剛『中世音楽の精神史』(講談社選書メチエ、1998)、21ページ。
  3. 前掲書第2章では、ボエティウスの音楽論が詳しく説明されています。
18. 5月 2011 · (29) オーケストラは「踊り場」だった !? はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

アマ・オケ奏者のための音楽史第2回は、古代ギリシアについてです。実際の音の響きはわからないものの、西洋音楽史において古代は、「音楽」という言葉やその概念を考える上でとても重要な時代(……とは理解しつつ、中世から講義を始めることが多い私)。実は、オーケストラという言葉の由来も、古代ギリシアまで遡るのです。

アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスに代表されるギリシア悲劇や、アリストパネスのギリシア喜劇は、台詞が交わされるのではなく歌い踊られる、オペラのような音楽劇でした(古代ギリシア劇を復興する中でオペラが生まれたのですから、当然です。(28) バロック時代はなぜ1750年までか参照)。コロスと呼ばれる合唱隊が配置され、劇の進行に応じて彼らが歌ったり踊ったりする円形スペースの名前が、オルケストラだったのです。

図1  古代ギリシアの劇場

野外劇場は多くの場合、山の斜面を利用してすり鉢型に作られました。テアトロンと呼ばれる観覧席がとり囲むのが、円形の舞踏場オルケストラ。初めは、オルケストラの向こうに、衣装替えなどのためのスケネと呼ばれる楽屋のような建物があるだけでしたが、やがて俳優たちが演技するスペースを広げるため、プロスケニオン(「スケネの前」という意味)と呼ばれる舞台が設けられ、オルケストラは舞台と客席のあいだに位置することになりました(右図1参照1)。

時代は下って、1637年ヴェネツィアに史上初の公開オペラ劇場サン・カッシアーノが建てられたとき、歌を支える楽器奏者のためのスペースは舞台と客席のあいだに置かれ、古代ギリシアにならってオルケストラと呼ばれました。その言葉がやがて、ここで演奏する合奏団を指すようになったのです。ジャン=ジャック・ルソーが音楽辞典(1754)の中で、オーケストラを「合奏団員全体の集合」と定義していることから、18世紀半ばには現在の意味が一般的になっていたようです2。既にお気づきだと思いますが、コロスはコーラス、テアトロンはシアター、スケネーはシーン(場面)の語源になりました。

  1. 片桐功「古代ギリシア」『はじめての音楽史』音楽之友社、2009、17ページ。
  2. 上野大輔「オーケストラ」『音楽通論』久保田慶一編、アルテス、2009。
05. 5月 2011 · (27) 音楽史の時代区分 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags:

「アマ・オケ奏者のための音楽史」第1回は、音楽史概観です。西洋音楽史は、調性(長調短調に基づく)音楽の時代と、調性が成立する前の時代、調性が崩壊した後の時代の3つに大別できます。ただ、これでは大雑把すぎるので、世界史や他の文化史も参考に、たとえば以下のように区切ります(かっこ内は目安。ちなみに調性音楽の時代は4〜6です)。

  1. 古代ギリシア・ローマ
  2. 中世(5世紀〜14世紀)
  3. ルネサンス(15、16世紀)
  4. バロック(16世紀末〜1750)
  5. 古典派(18世紀半ば〜19世紀初め)
  6. ロマン派(19世紀)
  7. 20世紀(現在まで)

オーケストラの演奏会は、古典派とロマン派をレパートリーにしていますね。古典派はウィーン古典派の3巨頭、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの時代。聖フィル第3回定演で取り上げたグルックも、ここに含まれます1

ロマン派は、フル・オケ作品を作った、上記以外の作曲家ほぼ全員を含むと考えても良いでしょう。聖フィルは今まで古典派を中心に演奏していて、ロマン派作曲家はメンデルスゾーン、ブラームス、ブルッフしか取り上げていないのですが、次回第5回定演はシベリウス、シューベルト、ドヴォルジャークと、オール・ロマン派プログラムです。実は、シューベルトはベートーヴェンより1年しか長生きしていませんが、音楽の内容からロマン派に入れるのが普通です。

私が学生の頃は、ロマン派音楽の次を現代音楽と呼んでいましたが、最近はこの言葉をあまり見かけなくなりました。21世紀に入った現在、どこから「現代」と定義するか難しいのでしょう(たとえば、1913年の《春の祭典》は現代音楽か、1928年の《ボレロ》は現代音楽か……?)。1901年以降の作品を20世紀音楽と呼ぶのはいささか安易かもしれませんが、この時代の音楽は多種多様で、もはや共通する特徴は存在しません。便宜的なくくりです2

バロック時代を代表する作曲家はヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデルなどですね。ルネサンス時代を代表するのは、私がペンネームに名前をお借りしているパレストリーナ((7) クリスマスに聴きたい音楽 part 2や、金管楽器奏者の方々にはおなじみのジョヴァンニ・ガブリエーリ。中世の音楽と言われたら、グレゴリオ聖歌を思い浮かべてください。古代ギリシア時代の楽譜の断片は現存しますが、後世に大きな影響を与えたのは、むしろこの時代の音楽理論でした3

  1. ベートーヴェンの晩年の作品には、ロマン派的な要素も含まれます。もちろん各時代はオーバーラップしています。
  2. 同様に、ドヴォルジャークやムソルグスキーなどの国民楽派や、ドビュッシーの印象主義もあるから、ロマン派ではなく19世紀音楽と呼ぶべきだという意見もあります。
  3. パニアグワがアトリウム・ムジケーを指揮して1979年に録音した『古代ギリシアの音楽』(harmonia mundi、仏)は、彼が独自に「再創造」した響きであって、CDとしては非常に興味深い(と言うか、くせになります!)ものの、どれだけ古代ギリシアの響きに近いのかは、誰にも判りません。

多くのクラシック音楽愛好家の方は、以下のように考えていることでしょう。

  1. 音楽と言えばドイツ(語圏)が本場
  2. 音楽と言えばピアノ曲やオーケストラ曲などの器楽
  3. 一番重要なジャンルは交響曲

でも、長い音楽の歴史の中でこれらが常識になったのは、ごく最近のことです。

交響曲が最重要ジャンルに落ち着いたのは、ベートーヴェン以降でした。このコラムで「交響曲の誕生シリーズ」をお読みくださった方は、既にご存知ですよね。交響曲の原型は17世紀末に生まれた((18)「赤ちゃん交響曲」誕生まで)ものの、しばらくはBGMのような存在でした((17) 聴かなくてもよかった交響曲)。「交響曲を聴きに演奏会に行く」ようになったのは18世紀末以降((19) 独り立ちする交響曲)、演奏会のトリに落ち着いたのは1830年代以降((22)《運命》交響曲の初演)。それからまだ200年足らずです。

音楽の本場と言えば、イタリアでした。バッハは、ヘンデルのように現地でイタリア音楽を吸収する機会がなかったので、ヴィヴァルディなどの協奏曲の楽譜を研究し、オルガンやチェンバロ用に編曲しながら、新鮮で刺激的なイタリア音楽の書法を学びました。また、モーツァルトがなかなか定職を得られなかった((10) 自由音楽家としてのモーツァルト)最大の理由は、彼がドイツ語圏の出身だったからです。楽長などの要職は、ほとんどイタリア人が占めていました(ウィーンの宮廷楽長はサリエリ)。

ベルリオーズやラヴェルが目指したのは「ローマ大賞」。フランスにおける若手芸術家の登竜門で、絵画、音楽など各部門の優勝者はローマに国費留学し、イタリア文化の中で数年間過ごすことができました(ちなみに、ベルリオーズは4度目の挑戦で大賞を射止め、留学しましたが、ラヴェルは計5回応募したものの、大賞を得られずに終わっています)1

器楽に高い地位が与えられるようになったのは、19世紀になってから2。独立したジャンルとして成立したのも遅く、バロック時代のことです。それまで何百年もの間、音楽と言えば声楽でした(もちろん、器楽が全く無かったわけではありませんが)。音楽の常識も、時代とともに変化してきたのです3

クラシック音楽好きの方が弾いたり聴いたりする音楽は、ほとんどがここ2、300年程の間に作られたものです。それ以前の音楽は、どのようなものだったのでしょうか。古い時代から現在まで、音楽において変わることなく受け継がれてきたものは何か、また私たちにとっての常識はいつ頃作られたのか、考えてみませんか。古い音楽を知ることによって、音楽の聴き方感じ方が、少し変わって来るかもしれません。

というわけで、「アマ・オケ奏者のための音楽史」シリーズ、始めます。奏者に限らず、クラシック音楽がお好きな皆様、どうぞお楽しみに。

  1. 既に《水の戯れ》などで新進作曲家の地位を固めつつあった1905年の応募(年齢制限のため、これが最後のチャンス)では、予選で落とされてしまったため、ジャーナリズムが追求する「ラヴェル事件」に発展。パリ音楽院院長が更迭される騒ぎになりました。
  2. 一部表現を変更しました。2012/7/12追記。
  3. 音楽といえばドイツの器楽をイメージするようになった理由はいろいろ考えられます。ベートーヴェンが音楽史上で転換点を作る大きな役割を担ったことと、彼に続いてドイツ語圏で優れた作曲家が輩出したことはもちろんですが、音楽を学問的に研究する音楽学が、ドイツ語圏を中心に発展したことや、日本の場合は明治期の西欧文化の導入が、軍事技術の模範であったドイツを中心に行われたことなども、あげられるように思います。