09. 12月 2015 · (263) 「《第九》=年末」は日本だけ? はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

皆さま、今年も《第九》の季節がやってまいりました! サントリー・ホールの12月イヴェント・カレンダーには、《第九》がいっぱい! 18(金)読響、19(土)東フィル、20(日)新日フィル、21(月)日フィル、22(火)読響、25(金)日フィル、26(土)都響、27(日)N響、28(月)と29(火)東響1。複数回の《第九》演奏会が行われるホールは他にも多いですし、ホームページ(以下HP)で今月の《第九》演奏会を数えると、日フィル10回、読響9回、N響5回……。すごい!

先日の新聞に、《第九》は「欧州でも大みそかの演奏例はあるが、恒例どころか年に何度も演奏される曲ですらない」とありました2。既に書いたように、1992〜98年に留学していたボストンでは、暮の《第九》は、噂すら聞いたことがありませんでした。今回、ボストン交響楽団HPで《第九》の演奏記録を検索してみたのですが、1990年から今シーズンまで、41回も《第九》が演奏されていてびっくり。でも、そのうち25回は8月末のコンサート。12月に演奏されたことは、一度も無かったのです3

ウィーン・フィルHPでも過去の演奏記録を検索してみましたが、1990年以降29回の《第九》演奏会のほとんどは、日本を含む本拠地以外のコンサート。12月に演奏されたのは、ベルリンでの1回だけでした4

このように過去のプログラムが公開されているオーケストラHPは少数。ここから先は、今月(2015年12月)の話です。ベルリン・フィル、ロンドン交響楽団、フィルハーモニア管弦楽団、ニューヨーク・フィルの今月のプログラムに、《第九》はありませんでした(ニューヨークもボストンのように、《第九》と年末は関係無いようです)。しかし!!   12月の《第九》演奏会、意外に多く見つかりました。都市のアルファベット順に並べてみると:

  • ベルリン—-ベルリン放送交響楽団:30日、31日。Brandenburgisches Staatsorchester Frankfurt(フランクフルト・ブランデンブルク州立オーケストラとでも訳すのでしょうか?):28日、29日
  • ライプツィヒ—-ゲヴァントハウス管弦楽団: 29日、30日、31日
  • ロンドン—-ロンドン・フィル:9日。ロイヤル・フィル:26日、29日
  • ミュンヘン—-フィルハーモニー管弦楽団:30日、31日、2016年1月2日。ミュンヘン交響楽団:1月1日
  • ウィーン—-ウィーン交響楽団:30日、31日、1月1日

主なオーケストラのHPをざっと調べただけですが、《第九》は大みそかだけではありませんでした5。合唱+独唱+オケと大編成で準備が大変ですから、1回公演ではもったいないのでしょう。というわけで、「《第九》=年末」は日本だけではないようです。ただ、ミュンヘンやウィーンのように1月に入っても続くところも(教会暦の影響と思われます。降誕節は12月25日から1月6日まで)。「《第九》=年末」型、「《第九》=年末年始」型、「《第九》=1年中」型、いろいろですね。

  1. 間の23(水)は《メサイア》、24(木)はオルガンなどのクリスマス・コンサート。いずれもバッハ・コレギウム・ジャパン。
  2. 権敬淑「歓喜の歌 集わせる力」朝日新聞夕刊、2015年12月5日。
  3. 夏のタングルウッド音楽祭の最後を飾る位置づけでしょうか。毎年のように演奏されています。8月以外には、2006年3月にカーネギー・ホールとそれに先立つ演奏会で計5回、2009年11月にマゼールが3回、2012年5月にハイティンクが3回などでした。
  4. 2010年12月5日、ティーレマン指揮。この年は11月末からパリで4回、ベルリンで4回、ベートーヴェンツィクルスの演奏会を開いていて、最後が12月になったようです。
  5. ロンドン以外は、いずれも先に書いたオケの本拠地で行われる演奏会。コンツェルトハウス・ベルリン、ゲヴァントハウス、ガスタイク、ウィーン・コンツェルトハウス。ロンドンは9日ロイヤル・フェスティヴァル・ホール、26日ロイヤル・アルバート・ホール、29日バービカン・ホール。
18. 2月 2015 · (225) 波瀾万丈ヴァーグナーの生涯:お尋ね者編 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , ,

リガでの借金を踏み倒し、パリにやって来たヴァーグナー((224) 夜逃げ編参照)。しかし、赤貧にあえぐ惨めな2年半(1839年9月〜42年4月)の後、この大都会での成功をあきらめ、《リエンツィ》上演が決まったザクセン王国の首都ドレスデンへ。大好評により、ベルリン初演の予定だった《さまよえるオランダ人》もドレスデンで初演されました(前作ほどの好評は得られず)。しかも、当地の宮廷歌劇場 第2指揮者のポストが空き、定職を手に入れます(43年2月)。29歳にしてはじめて生活が安定し、波瀾万丈を卒業。

彼の仕事は、オペラやオーケストラの指揮と、宮廷の特別な機会のための作曲。イギリスで亡くなったヴェーバーの遺骨が1844年12月15日にドレスデンに改葬された際、ヴェーバーの《オイリアンテ》の2つの動機による葬送曲(吹奏楽)や、《ヴェーバーの墓前に》という無伴奏男声合唱曲を作っています。宮廷家劇場では、グルックの《アルミーダ》や《オーリドのイフィジェニー》などを指揮。

さらに重要なのは、1846年の枝の主日(イースター前の日曜日)コンサートで、ベートーヴェンの交響曲第9番を取り上げたこと。《第九》は当時もまだ、近寄りがたい謎の作品とみなされていていました。当然、上層部は反対。でも、財政的にも芸術的にも大きな成功を収めることができました(ヴェーバー、グルック、ベートーヴェン、いずれもドイツ作曲界の重鎮たちですね)。相変わらず借金は多かったものの、《タンホイザー》や《ローエングリン》を完成。

彼を波瀾万丈な人生に引き戻したのは、1848年のパリ二月革命、ウィーン三月革命に影響された、ドレスデン蜂起(49年5月3日)でした。劇場改革や、国民劇場の計画(監督の選出、演劇学校の設立、宮廷楽団の充実、自主運営組織など)に関する提案が当局に却下され、不満が募っていたヴァーグナー1。ロシア人無政府主義者バクーニンに影響され、「あらゆる支配権をぶち壊す……権力を、法律の力を、私有財産を破壊する」というような物騒な檄文を書くのですが……2

図1:ヴァーグナーの人相書(1853)

図1:ヴァーグナーの人相書

国王軍の軍事力は圧倒的で、反乱はすぐに鎮圧。5月16日、首謀者の1人とみなされたヴァーグナーの逮捕状が出されます。「当時の宮廷楽長(ママ)リヒャルト・ヴァーグナーは、当市に起こった反乱に全面的に荷担したかどにより、取り調べを受けることになっているが、もっかのところ行方不明である……ヴァーグナーは37、8歳、中背、頭髪は茶色、眼鏡を着用」3。お尋ね者ヴァーグナーは、ヴァイマール宮廷楽長リストに匿われ、偽のパスポートでスイスに亡命。追放が完全に解除されたのは、1862年のことでした。

  1. Millington, Barry, ‘Wagner: (1) Richard Wagner,’ The New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 26, Macmillan, 2001, p. 934.
  2. 西原稔『クラシックでわかる世界史』アルテスパブリッシング、2007、247ページ。
  3. 前掲書、246ページ。
04. 2月 2015 · (223) 何が特別? ミサ・ソレムニス はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

ベートーヴェンの代表作のひとつ、ミサ・ソレムニス ニ長調 op. 123。「荘厳ミサ曲」と訳されることが多いですね。なんだか偉そうな(!?)タイトルですが、いったい何のことでしょう? ベルリオーズ(1824)やブルックナー(1854)も作曲しています。

現在、ミサ・ソレムニスという用語は、聖書朗読以外の全ての部分を歌うミサ典礼を指します1。でも以前は、司祭1人による通常の形と異なる、司祭以外に複数の助祭が奉仕する大きなミサ、盛儀ミサを指しました(昨年12月、横浜の聖光学院で行われた新校舎竣工記念式典は、この形態だったそうですね)。そのため、音楽用語としてはベートーヴェンのミサ・ソレのような、大規模で厳かなミサ曲に使われます。

ローマ・カトリック教会のミサ(プロテスタントでは聖餐式と呼びます)は、主日(=日曜日)や一定の祝祭日、婚儀や葬儀に行われます。ミサの式次第は、慣れない者にはかなり複雑。聖書朗読(使徒書簡と福音書)のような聞く部分だけではなく、式文を一緒に唱えたり歌ったりする部分がたくさんあります。季節や祝祭日によって変わる式文がミサ固有文、変わらない式文がミサ通常文。

ミサ曲は、その1年中変わらないミサ通常文の中の、歌われる部分を作曲したもの。キリエ(あわれみの賛歌)、グローリア(栄光の賛歌)、クレド(信仰宣言)、サンクトゥス(感謝の賛歌)、アニュス・デイ(平和の賛歌)の5部分から成ります。歌詞はラテン語ですが、キリエは例外的にギリシア語。

キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイなら、バッハのロ短調ミサ曲と同じ!と気づいた方、そのとおり。タイトルにはありませんが、実際はミサ・ソレムニスです。ハイドンやモーツァルト、シューベルトもミサ・ソレムニスを作っていますし、ブルックナーがただの(?!)ミサと名付けた3大ミサ曲も、実はミサ・ソレムニス。

教会用か演奏会用かは、関係ありません。ベートーヴェンのミサ・ソレも、当初は盛儀ミサのための実用音楽として構想されました。パトロンであるルドルフ大公が、1819年4月24日に枢機卿に。さらに、モラヴィアのオルミュッツ大司教になる就任式が、翌年3月9日と決定。ベートーヴェンは大公宛の1819年6月初旬の手紙に、「殿下の式典に際し、私の作曲する盛儀ミサ曲の演奏が許されますならば、その日こそ私の生涯でこの上なき最良の日となりましょう」と書いています2。残念ながら就任式には全く間に合わず、キリエ、クレド、アニュス・デイの3章がウィーン初演されたのは、5年後の《第九》初演の演奏会でした。

  1. ‘Missa solemnis,’ The New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 16, Macmillan, 2001, p. 760 (unsigned).
  2. 平野昭「ミサ・ソレムニス」『ベートーヴェン事典』東京書籍、1999、477ページ。
05. 3月 2014 · (175)《エロイカ》で始まるコンサート はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , ,

前回、前々回に引き続き、19世紀パリの音楽界シリーズ(?!)第3回。ベルリオーズがベートーヴェンの《英雄》と《運命》を聴いて大きな影響を受けた((173) 幻想交響曲の奇妙さ参照)、1828年パリ音楽院演奏協会のプログラムを見つけました1。設立初年の第1回演奏会(1828年3月9日(日)2:00、パリ音楽院コンサート・ホール、指揮はフランソワ=アントワーヌ・アブネック)の曲目は:

    1. ベートーヴェン:《英雄》交響曲
    2. ロッシーニ:オペラ《セミラミス》から2重唱
    3. メフレ:ヴァルブ付きホルン独奏(作曲者本人による演奏)
    4. ロッシーニ:アリア
    5. ローデ:ヴァイオリン・コンチェルト(新作)
    6. ケルビーニ:オペラ《プロヴィンスの白女》より合唱
    7. ケルビーニ:オペラ《アベンセラージュ》序曲
    8. ケルビーニ:荘厳ミサ曲よりキリエとグローリア

協奏曲や序曲などの器楽と、アリアや2重唱、合唱などの声楽が交互に並びます((150) 歌が不可欠?参照)。メフレ(1791〜1867)はヴァルブ付きホルンのパイオニア。パリ音楽院で教え、『ヴァルブ付き半音階ホルンのための教本』を出版しました2。前年に亡くなったベートーヴェン以外、ローデ(フランス人なので正確にはロード、1774〜1830)も、3曲も演奏されたケルビーニ(1760〜1842、1822年からパリ音楽院院長)も存命((151) 生きてる?参照)。この時代の公開演奏会の、典型的なプログラム構成です。

でも、《エロイカ》が最初?!  演奏会シリーズの記念すべき第1回オープニングに、若々しくかつ華々しい《エロイカ》はうってつけ。でも、長い! 重すぎる! 奏者はもちろん聴衆も、1曲目で疲れちゃう!

と驚いたものの、他に適当な場所がありません。開幕ベル代わりの「交響曲」から成長したとはいえ、交響曲の役割は演奏会の枠組みのまま。メインは、ソリストが活躍するアリアや協奏曲です。日常に戻ることを告げる演奏会最後の曲として使われることもありましたが、パリ音楽院演奏協会の初年度7回の演奏会では、この第1回のミサ曲のように、規模が大きい合唱曲で締めくくられる方が普通でした(次第に序曲や交響曲でも終わるようになりますが)。

そういえば、ベートーヴェンの《運命》が初演された演奏会の1曲目は、《田園》でしたね((22) 《運命》交響曲の初演参照)。《エロイカ》や《田園》で始めるなんて、想像できません。パリ音楽院演奏協会は、音楽院で学ぶプロやプロの卵たちから成るオーケストラで、よく訓練されていたそうですから、メインのアリアや合唱、協奏曲のために余力を残して《エロイカ》を弾いたのでしょうか。

初年度に取り上げられたベートーヴェンの交響曲は、《エロイカ》(この第1回と、好評により第2回演奏会でも。ベルリオーズはどちらを聴いたのか?)と《運命》(第3、5、6、7回。ちなみに第4回は、オール・モーツァルト・プロ)の2曲のみ。翌1829年に《田園》と7番、1830年に4、2、1番、1831年に《第九》、1832年に8番がレパートリーに加わりました。この中で、《第九》の扱われ方は、他と少し異なります。1831年3月27日の定期演奏会は「ベートーヴェンの合唱付き大交響曲初演」と銘打たれ、プログラムも4曲のみ(1:コリオラン序曲、2:アリア、3:バズーン(バソン)独奏、4:《第九》)。翌年の再演(1832年4月15日)では、《第九》がまっぷたつ!

    1. ベートーヴェン:《第九》第1 & 2楽章
    2. ケルビーニ:《アヴェ・マリア》(ソプラノとコーラングレのための)
    3. ベートーヴェン:弦楽四重奏曲作品18(弦楽器奏者全員による。何番か不明)
    4. ヴェーバー:《魔弾の射手》から〈狩人の合唱〉(16人のホルン奏者だけによる)
    5. ヴェーバー:《魔弾の射手》からアリア
    6. ベートーヴェン:《第九》第3 & 4楽章

1834年1月26日の再々演も、同様のプログラム構成でした。

  1. Holdman, D. Kern, The Société des Concerts du Conservatoire (1828-1967), http://hector.ucdavis.edu/sdc/.
  2. Joseph Meifred, Méthode pour le Cor Chromatique, ou à Pistons. Paris: S. Richault, 1840.  メジャーな演奏家による最初のメトードと言えます。Ericson, John, “Joseph Meifred and the Early Valved Horn in France: A Pioneer of the Valved Horn. Horn Article Online http://www.public.asu.edu/~jqerics/articles_online.htm 中の http://www.public.asu.edu/~jqerics/meifred.htm.
02. 10月 2013 · (153) 音楽愛好家協会:ウィーンの場合 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

(152)  管弦楽団 vs.交響楽団で書いたフィルハーモニー協会と似ているのが、音楽を愛するウィーンの市民や貴族が1812年に設立した、Gesellschaft der Musikfreunde in Wien。直訳するとウィーン音楽友達協会です(楽友協会って名訳!)。自分たちが聴きたい曲の演奏会を主催するために、自前のオーケストラを組織していました。

フィルハーモニー協会はプロ音楽家たちが設立した団体でしたが、こちらは音楽を愛する人々の集まり。会員はもちろんオーケストラ奏者にも、プロやプロの卵たちだけではなくアマチュアが含まれていました。専門家ではありませんから、演奏会でむずかしい曲が取り上げられると大変!

ベートーヴェンの《第九》初演の際、ウィーン宮廷楽団のメンバーだけでは足りなかったため、楽友協会オーケストラのメンバーも参加。ゲネプロの前に、アマチュア団員だけの練習が1回行われましたが((107) 練習は何回?参照)、その程度では足りなかったはず。長くて音楽的に複雑で、つまりすっごく難しいこの曲の初演がうまくいかなかった理由は練習不足。アマとの混成チームであれば、なおさらです1

生まれも育ちもウィーンのシューベルトも、八重奏曲などの室内楽や歌曲が公開コンサートで演奏されるなど、楽友協会とはいろいろご縁がありました。1825年10月、素晴らしい献呈辞をつけて協会に正式にハ長調交響曲(《グレート》)のスコアを贈呈したのに、初演してもらえなかったことは、よく知られていますね。協会の運営委員会は返礼として彼に100フロリン送り、パート譜の写譜も手配したのですが、結局、演奏は見送られました2。とにかく長いし(特に終楽章)、複雑。(上手とは言え)アマチュアも含まれているオーケストラでは、手に余ると判断したのでしょう(シューマンがスコアを「再発見」し、メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団が初演したのは、1839年)。

1827年、シューベルトは若干30歳でその協会運営委員に選出されます。また、1828年3月26日(ベートーヴェン没後1周年)には、協会主催によるシューベルトの作品だけ(歌曲や室内楽)の演奏会が開かれました。ホールは満席3。純益は800フロリンに上りました。公務員の数ヶ月分の給料にあたる(生涯初の)大金を手に入れたシューベルトは友人たちにおごり、さらにパガニーニのウィーン公演チケットを購入4

話を戻して。音楽の都ウィーンにプロのオーケストラが誕生したのは意外に遅く、1842年。ウィーン宮廷歌劇場オーケストラのメンバーによる、フィルハーモニッシェ・アカデミー(音楽愛好アカデミー。ここでもフィルハーモニーですね。現在のウィーン・フィルの前身です)。自主運営で、歌劇場での仕事の合間に演奏していたので、42年から48年までに14回の演奏会を催しただけ。定期演奏会が開かれるようになったのは1860年以降です。

  1. 《第九》の作曲を委嘱したロンドンのフィルハーモニック協会オーケストラは、上述のようにプロだけのオーケストラですが、1825年にこの曲を初演した後、1837年まで再演しませんでした。ベートーヴェンの他の8曲の交響曲をほぼ毎年取り上げていたのとは大違いです。
  2. Winter, Robert, ‘Schubert.’ The New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol.22. Macmillan, 2001, p. 671.
  3. 現在の楽友協会ホールが建設されたのは1870年。
  4. 前掲書、p. 674.  (33) シューベルトの未完成交響曲たちへのコメントので、エスブリッコさんがこれについて触れておられますが、「貧乏絶頂期」というネットからの転載部分は誤りですね。
18. 9月 2013 · (151) 生きてる? オーケストラ演奏会のプログラム (2) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

(150) 歌が不可欠? オケ演奏会のプログラム (1) でご紹介した、ロンドンの同じ会場で行われた2つのオーケストラ定期演奏会。70年を経て、全体の曲数が減った以外の大きな違いとは? ヒントは作曲家です。各コンサートで取り上げられた作曲家は:

1、ザロモン予約演奏会、1791年5月27日

ロセッティ(1750〜91)
ザロモン(1745〜1815)
ハイドン(1732〜1809)
アンヌ=マリー・クルムフォルツ(1766〜1813)

2、ロンドン、フィルハーモニー協会定期演奏会、1861、3、18

†ヘンデル(1685〜1759)
†ベートーヴェン(1770〜1827)
パチーニ(1798〜1867)
メルカダンテ(1795〜1870)
†ヴェーバー(1786〜1826)
†メンデルスゾーン(1809〜47)
ベネディクト(1804〜85)
ロッシーニ(1792〜1868)

違いは歴然ですね。1の演奏会では、まだ生きている作曲家ばかり。一方2の演奏会では、生きているのは半数。声楽曲の作曲家が記録されていないザロモン演奏会と条件を合わせるためにパチーニとベネディクトを除くと、2/3(†印)が亡くなった作曲家です。

現在、聖フィルに限らずアマ・オケの演奏会で、存命の作曲家の作品を演奏することはほとんどありませんよね。ショスタコーヴィッチやハチャトゥリアンでも亡くなって30年以上経ちますし、聖フィルが今回取り上げるモーツァルトとハイドンは、200年以上! プロ・オケでも、特別なシリーズや委嘱作品を除くと、ほとんどが亡くなった作曲家の曲ばかりです。

でも、18世紀のコンサートは最近の音楽を聴くもので、古い作品を聴くという発想は一般的ではありませんでした1。したがって、生きているか、あるいはついこの前まで生きていた作曲家の作品が演奏されたのです。1781年に発足したゲヴァントハウス管弦楽団が1780年代の定期演奏会で取り上げた曲の中で、亡くなった作曲家の割合はわずか11%2。この割合が徐々に高くなり、1870年代には76%に。19世紀に設立されたパリ音楽院管弦楽団や、ロンドンのフィルハーモニック協会の定期演奏会でも同様で、1870年代にはそれぞれ78%と85%が、亡くなった作曲家の曲になります 3

変化の原因は? 18世紀まで作曲家は「職人」であり、曲は命令・注文されて、あるいは特定の機会のために作るものでした。このような(「交響曲」を含む)機会音楽は、多くの場合ほぼ使い捨て。また、オーケストラ演奏会における声楽曲や協奏曲は、曲を楽しむ以上にソリストの妙技を楽しむものでした。次々に新しい作品が求められたのは当然です。

これを変えたのが、ベートーヴェン。彼によって、開幕ベル代わりだった「交響曲」は、持てる力を全て注ぎ込んで、それまで誰も試みなかったような作品を作る記念碑的なジャンルに変貌しました。このように作られた9曲は、演奏会においてユニークな地位を得ます。

ゲヴァントハウス管弦楽団の定期演奏会では、1807年という非常に早い時期に、休憩後は交響曲(《エロイカ》)1曲だけという現在のようなプログラム構成が試みられました。他の交響曲も《第九》以外は1818年までに演奏され、その後、少なくとも3年に1度は取り上げられているそうです4

ロンドンのフィルハーモニック協会コンサートでも同様でした5。1825年(やはり第2部が1曲のみというプログラム構成で、《第九》のロンドン初演が行われた年。もともと、このオーケストラの委嘱がきっかけで作曲されたのでした)から34年までの計80回の定期演奏会中75回で、ベートーヴェンの作品(交響曲、協奏曲、室内楽、歌曲)が1曲以上取り上げられています。交響曲は全部で64回! 第5、6、7番は、この10年間、毎年欠かさず演奏されていました。ベートーヴェンと彼の交響曲の特別視する傾向は、1827年の没後に衰えるどころかますます盛んになり、19世紀を通して続きます。

生きている作曲家の作品中心から、亡くなった作曲家の作品中心へ。交響曲の在り方を変えたベートーヴェンは、音楽を享受する側の意識も変えました。プログラムの変化は、繰り返し演奏し試聴する「芸術作品」の成立の反映でもあるのです。

  1. ロンドンの Antient (sic.) Music コンサート・シリーズは例外的。「古代」と言ってもヘンリー・パーセル止まりでしたが。Weber, William, The Great Transformation of Musical Taste. Cambridge University Press, 2008, p. 70.
  2. 前掲書、p. 169.
  3. 同上。
  4. 前掲書、p. 175-76.
  5. Foster, Myles Birket, History of the Philharmonic society of London 1813-1912. London: John Lane, 1912. Internet Archive, http://archive.org/stream/historyofphilhar00fost#page/n0/mode/2up.
12. 12月 2012 · (111) 《第九》とトルコ行進曲 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , , ,

《第九》終楽章にはトルコ風の音楽が含まれています。独唱や合唱が「歓喜に寄す」を第3節まで歌った後、急に静かになるところ。ファゴットとコントラファゴット、大太鼓が、低い音域でぼわっ、ぼわっと出て、シンバルとトライアングルも加わる八分の六拍子「行進曲風に」のところ。これは、メヘテルハーネによるトルコ音楽(のパロディ)です。

16世紀前半から18世紀後半まで、オスマン帝国はヨーロッパにとって大きな脅威でした。ヴィーンも1529年と1683年の2度、包囲されています。メヘテルハーネは、そのオスマン帝国の精鋭部隊イェニチェリ(トルコ語で「新しい軍隊」)が伴った軍楽隊。士気を鼓舞したり、儀式でスルタンの威光を表したりするのに使われました。図1は、1720年にオスマン帝国の宮廷画家によって描かれた細密画です。色とりどりのコスチュームが鮮やか。しかも大編成!

図1:メヘテルハーネ(Abdulcelil Levni, 1720)クリックで拡大します

右側のパネル中央に黒い管楽器ズルナ(チャルメラのようなダブル・リード属)奏者が8人、続いて2つ一組の小型太鼓ナッカレが5人。左側のパネルでは、胴がオレンジ色の大太鼓ダウルが8人、その後ろにズィル(シンバル)が6人、パネル左端にボル(トランペット)が6人。向こう側には、2つ一組の鍋形太鼓キョスが3人も。ズィルとナッカレは宗教的な用途でも使用されたそうです1

メヘテルハーネは、大音量のエキゾティックな音色と、目をひくコスチュームでヨーロッパの人々に大きなインパクトを与えました。18世紀半ば、各国の軍楽隊はトルコの楽器を加え始めます。まず大太鼓。その後、シンバルとトライアングル。18世紀末にはターキッシュ・クレセント(1番上に三日月型の飾りがついている、錫杖のような打楽器)も。ピッコロも付きものでした。

この響きと、1拍目の強いアクセントを利用した音楽が流行します。《第九》のようにオーケストラに大太鼓やシンバル、トライアングルを入れたのが、モーツァルトの《後宮からの逃走》序曲や、ハイドンの交響曲第100番《軍隊》(聖フィル第1回定期で演奏しました)。

打楽器を使わない例も。モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番の終楽章では、弦楽器の弓の木の部分で演奏するコル・レーニョ奏法を用いて打楽器を模しています。有名なモーツァルトのトルコ行進曲(実はピアノ・ソナタの終楽章)でも、左手が Alla Turca(トルコ風)。長調部分では、アルペジオの装飾音で1拍目が強調されます。

ただ《第九》の八分の六拍子の部分は、シンバル、トライアングル、大太鼓を単なる東洋趣味として取り入れたのではないでしょう。「走れ、はらからよ、君たちの道を、喜び勇んで、勇士が勝利へと向かうように(土田英三郎訳)」という歌詞の、戦いや勝利のイメージとリンクさせているように思われます。

メヘテルハーネの響きのサンプルとして、最もポピュラーな《ジェッディン・デデン Ceddin Deden》の動画をあげます。祖父も父もみんな英雄だったという歌詞。中央にキョス(行軍ではないので、床に置いています。叩き方にも注目。図1の動きですね)。左側にターキッシュ・クレセントを鳴らしながら歌う人々、奥にズルナ。1分過ぎくらいから右側にナッカレ、ズィル、ダウルも見えます。イェニチェリは1826年に廃止され、その後、ヨーロッパの軍楽が逆輸入されたため、メヘテルハーネの音楽は残念ながら、このような博物館的存在になってしまったそうです2

  1. Pirker ’Janissary music,’ The New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., 12, Macmillan, 2001, p. 801.
  2. 柘植元一「メヘテルハーネ」『音楽大事典5』平凡社、1983、2515ページ。他に、小泉文夫記念資料室ホームページの「アジアの楽器図鑑」を参考にしました。

《第九》第1楽章のオープニング。セカンド・ヴァイオリンとチェロのかすかな刻みの上に、ファースト・ヴァイオリンが第1主題の断片を「ちゃらーん……ちゃらーん……」と繰り返します。「ちゃらーん」の「ちゃ」は32分音符。8分音符の1/4の音価(音の長さ)です。一方、かすかな刻みは6連符。四分音符に6つですから、八分音符の1/3の音価。伴奏なのに「ちゃ」と微妙にずれています。空虚5度の響き(どのパートもラとミだけ。真ん中にドかド♯が加われば、長調か短調かはっきりするのですが)と相まって、この先、何が始まるのかわからない、なんとなく落ち着かない雰囲気が続きます。

落ち着かない3分割で思い出すのが《魔王》。病気の息子を抱いた父親が嵐の中、馬を走らせるというゲーテの詩に、シューベルトがつけたピアノ伴奏は、最初からずーっと3連符。疾走する馬の描写ですが、それだけではありません。左手の3連符による上向音階とともに、心急く様子、不気味さ、ただならぬ雰囲気を醸し出しています。もしも16分音符だったら(速過ぎて弾けないのはともかく)、これほどの切迫感は得られなかったでしょう。

2本足で歩く私たちには2拍子系の拍子は身についています。特に日本人は、地面にどっしり足をつけた農耕民族。3拍子には縁がありませんでした(騎馬民族なら、早馬のリズムから3拍子を体感できた?)。民謡はもちろん、唱歌・軍歌・童謡もほとんどが2拍子系。ぱっと思い浮かぶ例外は、「ぞーうさん、ぞーうさん、おーはながながいのね」の《ぞうさん》(團伊玖麿作曲)くらい。1拍を3等分する3連符は、さらに人工的で不安定に感じられます。3拍子の舞踏が珍しくないヨーロッパにおいても同様なはず。単に、8分音符ではもの足りなくて16分音符では細かすぎるから3連符にするわけではありません。《第九》のオープニングや《魔王》のピアノ伴奏も、3分割特有の不安定さをうまく利用しています。

ところが!! 西洋音楽の歴史において最初に生まれたのは、3分割でした(と突然、アマ・オケ奏者のための音楽史 (9) に変身)。3はキリスト教の三位一体を象徴する神聖な数。このため3等分は、より完全な分割法と考えられたのです。それに対して2分割は、不完全分割と呼ばれました。

グレゴリオ聖歌の記譜に使われたネウマは、音高を示すことはできます((82) 1000年前の楽譜参照)が、音価を示すことはできませんでした。音符の形によって音価を表す現在のような記譜システムが考えられたのは14世紀。音符は長い方から、マキシマ、ロンガ、ブレヴィス(■)、セミブレヴィス(◆)、ミニマの5種類。ブレヴィス1個をセミブレヴィスに分けるとき、3つに完全分割することと、2つに不完全分割することが可能でした。そのセミブレヴィスをミニマに分けるときも、2種類。これらを組み合わせた4種類の体系が図1です。

図1;ブレヴィスの分割(クリックで拡大します)

各分割を表す記号、メンスーラ記号も考え出されました(図1の最上段)。円は完全を表す記号で、1番左の⦿は、ブレヴィスからセミブレヴィスへも、セミブレヴィスからミニマへも完全分割であることを示します。左から2番目の○は、ロンガからブレヴィスへのみ3分割でブレヴィスからセミブレヴィスは2分割の印です。一方、ロンガからブレヴィスが不完全分割の場合、右側2つのように円ではなく右側が欠けた半円の記号が使われました。

あれれ、1番右側の記号?! そうです。現在、4分の4拍子の記号として使われている C は、アルファベットの C ではありません。14世紀に、不完全分割を表す記号として工夫された半円形です。それ以来何百年もの間、2分割=不完全であることを示し続けているのです1

  1. 14世紀の音楽家や理論家たちは様々な記号を考えましたが、その中で生き残ったのがこの4つです。金澤正剛『中世音楽の精神史』講談社選書メチエ、1998、211−2(図1も)。実際に楽譜に使われるようになったのは、もっと遅いようです。
19. 11月 2012 · (108) 熱狂の理由:《第九》の初演 (5) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , ,

1824年5月7日に行われた、《第九》初演やミサ・ソレムニスのヴィーン初演(3つの楽章のみ)を含む、ベートーヴェンの大音楽会(アカデミー)。演奏の出来にはかなり問題がありましたし、皇帝や貴族たちは不在((107) 練習は何回?参照)。でも、ヴィーン音楽界の多くの有力者が出席し、大変な盛況でした。聴衆は熱狂! ベートーヴェンにとって、生涯最大の芸術的勝利となりました(ただ、総収入2,200グルデンから写譜代700グルデンなどの経費を除くと、作曲者の利益はわずか300グルデン1。経済的勝利にはなりませんでした)。

演奏に不備があったのに、聴衆は何に熱狂したのでしょうか。もちろん、ベートーヴェンの音楽自体に感動したのでしょうね。歌詞がわかりにくいため、シラーの詩500部が当日配布されました(印刷することが決まったのは前日)2。歌詞に込められた歓喜、自然、兄弟愛、自由、平等などの理念を、聴衆も理解できたはずです。

新しい交響曲への関心も高まっていました。ベートーヴェンはそれまでの8つの交響曲を、あまり間隔をあけずに作曲・初演しています。でも、交響曲第8番を作曲したのは1812年。1814年2月の初演から数えても、すでに10年が経過。彼の交響曲に対する渇望感があったのでしょう。

そして、「2月嘆願書」が、新作への期待をさらに煽ることになります。ベートーヴェンは諸事情により、《第九》をベルリンで初演することを考えました。それを知ったリヒノフスキー伯爵らベートーヴェンの支持者たちが、ヴィーンで初演するよう運動を開始。1824年2月に30人もの連名で、ベートーヴェンに嘆願書を出しました。この「2月嘆願書」が4月に『一般音楽新聞』や『劇場新聞』で公開され、人々の興味をかき立てたのです3

でも、人々が熱狂した最大の理由はおそらく、そこにベートーヴェンがいたから。当日のプログラムの下方には、「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン氏自ら全体の指揮に参加」と大きな活字で強調されています(図1)4。ヴィーン市民にとって、彼らのヒーローが姿を見せることに大きな意味があったのでしょう。

図1:1824年5月7日の演奏会プログラム

このため当日は、「シュパンツィク氏はヴァイオリン・パートで統率(=コンサート・マスター)、楽長のウムラウフ氏が指揮棒を執り、作曲者自ら全体の指揮に加わった。すなわち彼は(中略)自分の原スコアにあたりながら、各々のテンポの入りを指示したのである(『一般音楽新聞』7月1日号)」 という、三重の指揮体制になりました5。演奏の不備にふれつつ、『一般音楽新聞』は続けます。「だが、感銘はそれでも筆舌に尽くしがたいほど大きくて素晴らしく、崇高な楽匠に力の限り示された歓呼の声は熱狂的であった。彼の尽きることのない天賦の才は私たちに新しい世界を開き、未だ聴いたことも予感したこともない聖なる芸術の奇跡の神秘を露にした」6。ベートーヴェンを大絶賛していますね。

でも実は、総指揮者ウムラウフが演奏者たちに、ベートーヴェンのテンポ指示を無視するよう(!!)言い渡していました7。作曲家はそこに「いただけ」だったのです。

  1. 児島新(構成・解題:平野昭)「ベートーヴェン《第九交響曲》の初演について:会話帳に見られる新事実」『ベートーヴェン全集10』講談社、2000、205ページ。
  2. 同上。
  3. 土田英三郎「神話の醸成」『ベートーヴェン全集9』講談社、1999、142ページ。
  4. 土田、143ページ。児島氏はこれを、プログラムとは別の、初演当日の劇場広告と書いています。
  5. 土田、144ページ。
  6. 土田、145ページ。
  7. 土田、143ページ。
11. 11月 2012 · (107) 練習は何回?:《第九》の初演 (4) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , ,

1824年5月7日に行われた「大音楽会」、演奏する方はさぞかし大変だったことでしょう。《第九》交響曲 op. 125 は世界初演1。《ミサ・ソレムニス 》op. 123 は半月前の4月18日にペテルスブルクで全曲初演されましたが、ヴィーンでは初めてです。曲が長くて難しいうえ、《ミサ・ソレ》と《第九》終楽章は合唱と独唱とオーケストラのアンサンブル。しかもその合唱やオーケストラは、ヴィーン楽友協会のアマチュアたちも加わった混成部隊でした((84) 倍管は珍しくなかった参照)。

いったいどれくらい練習したと思いますか? 『一般音楽新聞』はリハーサルが3回と伝えていますが、全員による総練習(ゲネラルプローベ)は2回だけでした2。当時の演奏会の総練習は1回ということもあったそうですから((22)《運命》交響曲の初演参照)、これでも念入りな方!?

  • 4月20日頃     初演用パート譜、作成終了
  • 5月2日 9〜14時 最初のオケ総練習、声楽(独唱者を含む)のパート別練習(女声は少年合唱)
  • 5月3日 午後     合唱練習、アマチュアのオケ・メンバー練習
  • 5月4日(時間?)劇場合唱団の練習
  • 5月5日 9〜14時 劇場オケと合唱団の第1回ゲネプロ
  • 5月6日 9時〜? 第2回ゲネプロ(管楽器第2奏者が初めて加わる)
  • 5月7日     本番

初演の日程は何度も変更されました。当初の予定では4月8日3。しかし、パート譜作成に時間がかかり(長いうえに、大編成ですから)、初演日を4月27日、28日に変更。楽譜の校正作業も必要で練習時間がとれず、再び延期せざるを得ませんでした(校正したにもかかわらず、第2楽章スケルツォの反復記号が抜けていて、5日の第1回ゲネプロで混乱が起こっています)。

ベートーヴェンは、皇帝が5月5日にヴィーンを離れる前に演奏会を開きたいと強く希望していました(5月1日付け『一般音楽新聞』に「5月4日」という誤った予告が掲載されたのは、そのためかもしれません)。でも、この日程を見ると、練習が間に合わなかったのは明らかですね。結局、5月7日金曜日午後7時という最終的な初演日時が告知されたのは、本番2日前だったそうです。ヴィーンの演奏会シーズンはすでに終了。皇帝一家の臨席は叶わず、ルドルフ大公をはじめ多くの貴族たちも領地に戻っていました。

肝心の演奏の出来は? 各楽章の途中や終わった後で大喝采があったとか、第2楽章スケルツォではアンコールも求められたとか、アルト歌手のカロリーネ・ウンガーが、歓呼に気づかないベートーヴェンの袖を引いて客席の方を向かせたとか、聴衆の熱狂ぶりが伝えられますが、演奏自体は不備であったと報告されています。『一般音楽新聞』は、「少なくとも声楽パートに関しては決して十分に仕上がっていなかった」と書いていますが、先を読むと仕上がっていないのは声楽パートだけではなかったことが伝わって来ます4。また、16日後に行われた再演の評は「あちこちに改められるべき余地が多々認められた」5

当時の曲としては(私たちにとっても ?!)長く、複雑で、途方もなく難しい《第九》。作曲者の生前にヴィーンで演奏されたのはこの2回と、亡くなる11日前の演奏会の、計3回だけでした。

  1. 《献堂式序曲》op. 124 の初演は、1822年10月3日でした。訂正しておわびいたします(12/11/13 追記)。
  2. 土田英三郎「ベートーヴェン《第九交響曲》作品史のための資料」国立音楽大学『音楽研究所年報』第17集(2003)。同研究所ホームページの研究報告より。
  3. 児島新(構成・解題:平野昭)「ベートーヴェン《第九交響曲》の初演について:会話帳に見られる新事実」『ベートーヴェン全集10』講談社、2000、202ページ。
  4. 土田英三郎「神話の醸成」『ベートーヴェン全集9』講談社、1999、144ページ。
  5. 同上、148ページ。