おかげさまで、聖フィル♥コラム100回目! いつも読んでくださる皆さま、今、初めて読んでくださっている皆さま、どうもありがとうございます。

毎日、編集者用の統計ページで訪問者数や閲覧数、オンライン中の訪問者数などをチェックしながら一喜一憂。アメリカからは週末を中心に、珍しいところではウクライナからたびたびアクセスがあります。いつも同じ方(方々)でしょうか。ツイートやいいね!ボタンを押してくださる方、お知り合いに紹介してくださる方、どうもありがとうございます。やはり、たくさんの方に読んでいただけると書き甲斐があります。今年11月の2周年、来年11月の3周年を目指して続けますので、どうぞこれからもご愛読くださいませ。

100回目の今回は、私の人生を変えた曲についてです。大学3年の時、ハイドンの交響曲を概観するゼミを受講しました。皆(20人くらい)で手分けして100余曲の基本データ(成立や資料の整理と、各楽章の調性・拍子・速度・小節数・使用楽器とその音域など)をまとめる一方、主要な曲を分担して特徴を調べ、譜例を用いて発表するという内容でした。予め成立年代順にリストアップしていた交響曲を、T先生が受講生の名簿順に機械的に割り当てたところ、私は45番の担当になりました。

《告別》というニックネームで知られる45番。作曲のいきさつは、(55) ハイドンの場合:管弦と管絃 part 3で説明したとおりです。「急―緩―メヌエット―急」の通常の4楽章構成だと思ったら、終楽章が速いまま終わらずに、拍子も調性も速度も異なる音楽が始まり、しかも奏者が次第に減ってしまいます。数あるハイドンの交響曲の中でも、背景や音楽内容が特殊なこの45番が当たる(!!)とは、なんてラッキー!

譜例1:ハイドン作曲 交響曲 Hob. I/45《告別》第4楽章 Adagio

第4楽章後半アダージォは、12声部で書かれています(譜例1)。最初にオーボエ1とホルン2、次にファゴットという具合に、短いソロをした後、ろうそくを吹き消して奏者が退場1。最後まで残るヴァイオリン1と2を弾いていたのは、エステルハージ候お気に入りのイタリア人コンサート・マスター、ルイジ・トマジーニと楽長ハイドン。弱音器をつけたヴァイオリン二重奏が静かに終了し、彼らも退場。真っ暗にという趣向。

ここで疑問に思ったのは、ヴァイオリン奏者の人数でした。4パートのうち、1と3がファースト、2と4がセカンドですが、各パート1人ずつで弾いていたのか、あるいは3と4のパートは複数の奏者から成り立っていたのか。規模については先生もご存知無く、私は翌週まで、当時のエステルハージのオーケストラの編成に関する資料を捜すことになりました。

幸いにも、ランドンの分厚い研究書の中に、この交響曲が作曲された1772年の楽士の月給リストを発見(表1)2。ヴァイオリン奏者は3人だけ!?! でもよく読むと、ヴァイオリンとヴィオラを弾ける者は全部で8名。そのうち2人がヴィオラを担当したとしても、トマジーニとハイドン以外に、ヴァイオリン3と4のパートを2人ずつ演奏できたはずとわかりました。2つのパートを計3人ずつで弾いていたのが弱音器を付けた2人だけに減るなら、寂しい感じが高まり、効果的です。

給料リストを載せた配布資料を見ながら、先生が「他に何かコメントは?」と尋ねてくださったので、ホルン奏者が6人もいる理由を説明しました。「当時は複数の楽器を演奏できる楽士が多かった→ホルン奏者は狩りのお供をする仕事もあり、給料が高かった→(少しでも)ホルンを演奏できる楽士は、最初に契約する際にホルン奏者として契約した」のだそうです(表1の右側に、他にも演奏できた楽器名を加えてあります)。

まるで、事件を解き明かしていく探偵みたい。資料を探して音楽に関する疑問を解決するリサーチって、おもしろいものだなと私が初めて感じたのは、この発表の時でした。これをきっかけに大学院進学を真剣に考え始め、後にはアメリカの大学の博士課程にも進むことになります。

もしも学籍番号が、あるいは受講生の数が1つでもずれていたら、私は《告別》の担当にならなかったはず。奏者の人数についての疑問も持たず、分担に必要な資料だけ読んで発表を終え、大学院には進まず、今頃、全く違う人生を歩いていたことでしょう(実際、後期に発表したもう1曲の方は、番号すら覚えていません)。ほんのわずかの偶然が、私を《告別》に引き寄せ、音楽学の楽しさを教えてくれたのです。そして現在、楽譜を音にする以外にもある音楽のおもしろさを、なるべく多くの人に伝えたくて、こうして毎週コラムを書いています。人生って本当に不思議です。

表1:楽士の給料リスト(1772年1月)クリックで拡大します

  1. チェロ以外は立って演奏していたので、退場も楽でした。(96) オーケストラの楽器配置参照。
  2. H. C. Robbins Landon, Haydn: Chronicle and Works, Haydn at Eszterháza 1766-1790. Thames and Hudson, 1978, p. 91. これは1月の支給額ですが、《告別》の作曲はおそらく同年11月後半です。前掲書、pp. 181-2.

貴族ではない職業的(=プロの)楽師が、部屋の外に座って打楽器を演奏している管絃の画像((52) なぜ管弦打楽と呼ばないのか:管絃 part 1)を見て思わずニヤリとした皆さま、笑っている場合ではありません。西洋音楽の世界において今でこそ音楽家は名士ですが、つい200年ほど前まで、作曲家や演奏家の地位はとても低かったのです。

1761年、ヨーゼフ・ハイドンがハンガリーの筆頭貴族エステルハージ家の副楽長になったときの雇用契約書の全14項目は、以下のような内容です1

  1. 楽長ヴェルナーは聖歌隊の音楽を担当するので、彼に服従すること。ハイドンはそれ以外の演奏やオーケストラ全ての指導権を持つ。
  2. ハイドンはエステルハージ家の従僕であるから、それにふさわしい行動をとること。部下の楽員に粗暴な態度をとらず、温和、寛大、率直かつ沈着であること。賓客の前で演奏するときは制服(白の靴下、白のリンネル、かつら)を着用し、本人や楽員全員が揃って見えるようにすること。
  3. 楽員を指導し、彼らの模範になるように不当な親交を避け、飲食、談話に中庸を保ち正しく行動し、平和を保つように部下を感化すること。
  4. 公に命じられた音楽を作曲する義務がある。それらを他の人に与えてはならない。また、許可無く他の人のために作曲してはならない。
  5. 昼食の前後には次の間に控え、公が楽団の演奏を希望されるか否かを伺うこと。希望の場合は楽員に伝え、彼らが時間を守るように注意・確認すること。
  6. 楽員たちの間に不和・苦情が起きたときは、調停すること。
  7. すべての楽譜と楽器を管理し、不注意・怠慢によって破損した場合は責任をとること。
  8. 歌手や団員を訓練すること。また本人も楽器練習に励むこと。
  9. 部下にこれらの義務を守らせられるよう、契約書のコピーを与える。
  10. 規則を遵守し、秩序ある楽団運営をすること。
  11. 年棒は400グルデン。年4回の分割払い。
  12. 従僕たちの食卓で食事をとるか、代わりに食事手当1日半グルデンを受け取ること。
  13. 3年契約とし、満了時に退職を希望する場合は6ヶ月前に届けること。
  14. これらを守るならば3年間の雇用を保証し、楽長に昇進させる可能性もあるが、反するならば公はいつでもハイドンを解雇できる。

ずいぶん細かく厳しく決められていますね。楽員たちに対して粗暴な態度を取らない(第2条)、飲み過ぎずしゃべり過ぎず、楽員たちがけんかしないように感化する(第3条)、もしもけんかが起きたら調停する(第6条)と、似たような内容が繰り返されていますが、これは要するに楽士たちが一般に、粗暴な態度を取ったり争ったりしていたということでしょう。この時代、楽譜は読めるけれど字は書けないというような楽士も多く、演奏会の後に酔っぱらって狼藉を働くこともあったそうです2

私たちは漠然と、音楽家は特別扱いであるようなイメージを持っていますが、ハイドンも料理人や掃除人、庭番、馬番など他の従僕たちと同じ場所で同じ食事をする(第12条)使用人でした。交響曲第45番《告別》(1772)にまつわる有名なエピソードも、彼の立場を映し出しています。

ヴェルサイユ宮殿を模して造営中のエステルハーザ宮はまだ完成しておらず、離宮で過ごすニコラウス公のお供の楽員たちは、ほとんどが単身赴任でした。ところが、6ヶ月の滞在が終わりに近づき、帰郷の日まであと少しという時期になってから、急に公が、滞在を2ヶ月も延長すると言い出したのです。ハイドンは、終楽章の後半で少しずつパートが減っていく交響曲を書きます。弾き終わった奏者が次々と、ろうそくを吹き消して退出し、最後は真っ暗に。作品の意図を汲み取った公は「彼らはみな立ち去った。したがって、われわれもまた去らねばなるまい」と言い、帰郷の命令を下したと伝えられています3

この時期、ハイドンは既に楽長に昇進。公が好んだバリトン(弓で奏する6、7本の弦の他に、9〜22本もの共鳴弦を持つ弦楽器)用のトリオをたくさん作り、時にはヴィオラを弾いてお相手も務めていました。でも、あくまでも従僕。「恐れながら申し上げます」と公に願い出(て、それが叶えられ)るような立場ではなかったのでしょう(それにしても、さすがハイドン! 楽員たちの希望を伝えるための、ウィットに富んだうまい方法でしたね)。

  1. 大宮真琴『ハイドン新版』(音楽之友社、1981)、60〜63ページを要約しました。(10) 自由音楽家としてのモーツァルトで、既に一部ご紹介しています。
  2. 1777年にレオポルト・モーツァルトは、音楽会後に酔った楽士たちが、ザルツブルク宮廷の広間のシャンデリアを壊してしまったと、息子に書き送っています。石井宏『反音楽史』(新潮文庫、2010)、43ページ。
  3. 大宮、前掲書、90〜91ページ。