17. 7月 2013 · (142) やかましかった! 指揮者のお仕事 (2) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , ,

通奏低音を受け持つ鍵盤楽器奏者か、ヴァイオリンのトップ奏者(あるいはこの両者)の合図で演奏していたバロック時代。兼業指揮(?!)体制はその後も続きます。たとえばモーツァルト。「コンセール・スピリチュエルの幕開けのために書いたぼくのシンフォニー(註《パリ》交響曲)は、前の晩、生まれてこのかた聴いたこともないひどい練習につきあって、心配と不安と怒りのあまり眠れないほどでした(中略)覚悟を決めました。もし、稽古のときのようにまずく行ったら、なんとしても第1ヴァイオリンの手から楽器を取り上げて、ぼく自身が指揮をしようと」(1778年7月3日付けレオポルト宛の手紙1。下線筆者。(115) 愛の楽器? クラリネット(2)も参照)。

ザルツブルク宮廷楽団のコンサート・マスターですから、オケを率いるのはお手のものだったのでしょう(幸い本番はとてもうまくいったので、彼が飛び入りする必要はありませんでした)。ハイドンのロンドン招聘を実現させた興行師ザロモンもすぐれたヴァイオリニストで、もちろん兼業指揮をしていました。

当時は「音が出る指揮(というか指示)」が多かったそうです。具体的には「手を叩く」「台を叩く」「足を打ち鳴らす」「叫ぶ」など。しかも「演奏の間中、ほとんどずっと」鳴っていた2。たとえばパリのオペラ座の「足を踏み鳴らす、あるいは杖や弓で音が出るように叩く」指揮は、1803年に「しばしば、間違いと同じくらい邪魔になる」と評されています3

メンデルスゾーンは1831年にナポリの歌劇場で、オペラの間中ずっとファースト・ヴァイオリン奏者がブリキのろうそく立てを4分音符の速さで(=1小節4つずつ)打っているのを聞いて「(オブリガート・カスタネットのようだけれどそれよりやかましく)歌よりもはっきり聞こえる。それなのに、歌声は決して揃わない」と書き残しているそうです4。オペラだけではありません。ヴァーグナーは、1832年にプラハで、「乾いたひどくうるさいつえの音の」ディオニス・ヴェーバーに自分の交響曲のリハーサルしてもらったと書いています5

指揮者が「オーケストラの中で唯一音を出さない(出せない)奏者」になったのは、それほど昔ではなかったのですね。現在の指揮者像は、19世紀後半以降に作られたものなのです。

  1. マーシャル『モーツァルトは語る』高橋他訳、春秋社、1994。
  2. Botstein, Leon, “Conducting” New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 6. Macmillan, 2001, p. 265.
  3. Koury, Daniel J., Orchestral Performance Practices, Univ. of Rochester, 1981, p. 76.
  4. 前掲書、p. 77.
  5. 同上。
09. 1月 2013 · (115) 愛の楽器? クラリネット (2) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , ,

オーケストラの4種の木管楽器の中で最も遅く、18世紀初めに誕生したクラリネット((113) 愛の楽器? (1)参照)。名曲を多く残したモーツァルトが、クラリネットを初めて知ったのはいつでしょう?

ヴィーン宮廷楽団に仕えたクラリネットの名手シュタードラーはモーツァルトの3歳上。五重奏曲(1789)や協奏曲(1791)は、彼のために作られました。《セレナード〈グラン・パルティータ〉》(1784)も、彼の演奏会用と言われています。フリーメイソンの盟友でもあり、プラハでの《皇帝ティートの慈悲》初演に友情出演。シュタードラーの優れた演奏技術から、モーツァルトは大きな刺激を受けました。しかし、クラリネットを知ったのはもっと前のことです。

  • 1778年(22歳)の就活旅行の際、パリで、クラリネットを用いた初めての交響曲を作ったとき?

パリのコンセール・スピリテュエルのオーケストラは、当時、モーツァルトが仕えていたザルツブルク宮廷楽団(オーボエ2+ホルン2+弦約20、時にトランペットやティンパニも。この時代の標準的な編成)の、ほぼ2倍。フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット各2+ティンパニ+弦約40の大編成!1 このオーケストラの演奏会用に作られたのが《パリ》交響曲です((11) 旅によって成長したモーツァルト参照)。しかし、クラリネットを知ったのはもっと前。

  • 同じ1778年、パリに向かう前に訪れたマンハイムでクラリネットが入った宮廷楽団に接したとき?

選帝候カール・テオドールが質・量ともに高めたマンハイムのオーケストラ。1758年という早い時期からクラリネット奏者が雇われていて、この楽器がオーケストラで定席を得るのに貢献しました。もしも、マンハイム楽派の祖ヨハン・シュターミッツ(1757年没)作と伝えられるクラリネット協奏曲の帰属が正しいならば、記録が残るよりも前から、優秀なクラリネット奏者が在籍したことになります。ただし、モーツァルトがクラリネットを知ったのはこのマンハイム滞在よりも前。

  • 15歳で初めてクラリネットを用いた作品を書いたとき?

1771年、第2回イタリア旅行中にミラノで作った、弦4部、クラリネット2、ホルン2のための《8声のディヴェルティメント変ホ長調(K.113)》が、彼の初クラリネット入り音楽2。しかし、モーツァルトはさらに前の1764年にクラリネットを使っています。

「西方への大旅行」中に長逗留したロンドンで、モーツァルトは当地で活躍していたアーベルの交響曲op. 7, no. 6を筆写。新しいジャンルである交響曲を学ぶためですね(上記 (11) 参照)3。でも、そのまま写したのではありませんでした。アーベルが書いたオーボエ・パートを、移調してB♭クラリネット用に書き替えているのです 4。このとき彼、8歳。

モーツァルトがクラリネットを初めて知ったのがいつかは、はっきりわかりません。このロンドンでかもしれませんし、あるいは、前年、ザルツブルクを発ったばかりの頃に立ち寄ったマンハイムでという可能性もあります。いずれにしろ、彼はこの新興の楽器が持つ大きな可能性に早い段階で気づき、亡くなる直前に協奏曲を完成するまで、生涯をかけてその魅力を引き出し続けたのですね。

それにしても、今回も「愛」の話は全く出て来ません。タイトルを変更したほうが良さそう……。

  1. 海老澤敏編著『図解雑学モーツァルトの名曲』ナツメ社、2006、21ページ。
  2. この曲には、オーボエ、イングリッシュ・ホルン、ファゴット各2の第2稿が存在。これを、第1稿のクラリネットとホルンに加えると考えると、同じ編成(オーボエ、クラリネット、イングリッシュ・ホルン、ホルン、ファゴット各2)のための2曲のディヴェルティメント(K. 166/159dとK. 186/159b)のように、第3回イタリア旅行のために書かれたことになります。一方、クラリネットが不要と考えると、奏者がいないザルツブルクで演奏するために書き替えられたことになります。竹内ふみ子『モーツァルト事典』東京書籍、1991、319ページ。
  3. ケッヘルは自筆譜に基づいてモーツァルトの交響曲第3番K.18とし、旧全集にも収められました。
  4. アーベルのオーボエ・パートを旧全集のクラリネット・パートと比較してみたところ、数カ所、音が違っていました。他パートとの平行進行を避けるためと思われる所もありましたが、理由がよくわからない変更もありました。
27. 6月 2012 · (87) 流行音楽メヌエット はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , ,

フランス起源の3拍子の舞曲メヌエット。17世紀半ばから18世紀末にかけて、フランス宮廷を中心に、貴族階級のダンス音楽として広く普及します。おだやかなテンポによるエレガントな踊りは典型的な宮廷舞曲で、市民層にも非常に人気がありました。

このメヌエット、18世紀初め以降、特にイタリア人作曲家たちによって、誕生間もない「交響曲」(シンフォニーア)に使われることがありました。(18)「赤ちゃん交響曲」誕生までに書いたように、シンフォニーアは 急―緩―急 の3楽章構成。その終楽章が、メヌエットの様式で作られたのです。しかし、1740年代になるとドイツ語圏では、緩徐楽章とフィナーレの間に第3楽章としてメヌエットが加えられ、4楽章構成の交響曲が主流になりました。急―緩―急 から 急―緩―やや急(メヌエット)―急 に変化したのです。

ドイツやオーストリアで、交響曲の中にメヌエットが定着したのはなぜでしょうか。それは、当時この地域でメヌエットが流行していたからです。要するに、聴衆サービス。18世紀の人々にとって「交響曲」は、コンサートで妙技を楽しむことができる独奏者をもたない、伴奏者だけで演奏する、おもしろみの少ない音楽でした。そこで、最も人気が高いダンスの音楽を取り入れて、聴衆が楽しめるようにしたのです。交響曲の途中で流れるメヌエットの舞曲を聴いて、人々は、自分が踊っているような気持ちを味わったのでしょう。ただ、ドイツ語圏と限定しなければ、18世紀末になっても交響曲の主流は、メヌエット無しの3楽章構成でした。モーツァルトがパリで作曲したいわゆる《パリ》交響曲ハ長調(第31番、1778)が良い例です。

さて、モーツァルトとメヌエットと言えばやはり、交響曲からは離れますが、オペラ《ドン・ジョヴァンニ》(1787)ですね。次回の聖フィル定演で演奏する序曲ではなく、第1幕フィナーレの「3つのオーケストラの場」。観客たちが、自らメヌエットを踊って楽しむ気分を味わったはずの場面です。ドン・ジョヴァンニとは、イタリア語でドン・ファンのこと(ドン・ファンはスペイン語)。従者のレポレッロが《カタログの歌》(第1幕第5場)の中で、犠牲になった女性は「イタリアでは640、ドイツでは231、フランスで100、トルコで91、スペインではもう1003」人と数え上げる、稀代の女たらしです。

彼は今、自邸での大宴会で村娘ツェルリーナを誘惑中。「音楽、再開!」という合図とともに、たくさんの客が自分の身分にふさわしいダンスを踊ります。最初に始まる音楽がメヌエットで、踊るのは仮面をつけたドンナ・アンナとドン・オッターヴィオ(ト長調、3/4拍子)。ドンナとドンという敬称からわかるように、2人は貴族。メヌエットにふさわしい踊り手です。演奏するのは、下の動画では舞台奥に並ぶ、第1オーケストラ(オーボエ2、ホルン2、弦4部)。

次いで、舞台右側の第2オーケストラ(ヴァイオリン2部と低弦。1’10″くらいに見えます)が、中流のための舞曲コントルダンス(2/4拍子)を弾き始めます(1’02″くらいから)1。踊るのはドン・ジョヴァンニとツェルリーナ。さらに、舞台左側の第3オーケストラ(ヴァイオリン2部と低弦)が、3/8拍子の、農民のためのドイツ舞曲を演奏(1’30″くらいから)。レポレッロはツェルリーナの婚約者マゼットと、無理矢理いっしょに踊ります。

ドン・ジョヴァンニによって別室へ連れ込まれたツェルリーナの悲鳴(1’57″くらい)によって中断するまで、拍子が異なる3種類の舞曲が同時進行。それぞれの舞曲が、踊り手の社会階級を示す場面です。芸が細かいモーツァルトは、遅れて加わる第2、第3オケの調弦の音まで書き込んでいます(1’17″くらいから、第3オケのヴァイオリンが、開放弦の和音を何回か鳴らしています)。

  1. ベートーヴェンの《12のコントルダンス集》WoO 14 第7曲は、《プロメテウスの創造物》や《エロイカ》終楽章の主題のもとになった曲でしたね。

モーツァルトの音楽を読み解くキーワード、「自由音楽家」に続くもう1つは「旅」です。35年という短い一生のうち、1/3近くが旅に費やされました。幼いヴォルフガンクの天賦の才能に気づいた父レオポルトは、それを人々に知らしめ、また正しく伸ばすことが、神に与えられた自分の使命と考えたのです。父が計画した旅行は、ベルリン、アムステルダム、ロンドン、ローマ、ナポリにまで及び、この時代に音楽活動が盛んだった地を網羅しています。

旅の目的は、神童披露→オペラ上演→就活へと変わりますが、ヨーロッパ各地への旅を通してモーツァルトは大きく成長していきます。今回は、交響曲に関連する2つの旅について書いてみます。

「西方への大旅行」と呼ばれる、1763年から3年半に及ぶ旅の目的地の一つロンドンで、モーツァルトは最初の交響曲(1764)を作曲しました。レオポルトが重い病気にかかり、ピアノを弾くことを禁じられたので代わりに作曲をしたと、同行した姉ナンネルが後に回想しています。イタリア風序曲型の「急—緩—急」3楽章構成や、明るくはつらつとした旋律などに、ロンドンで親しくなったヨハン・クリスティアン・バッハ(1735〜82。ヨハン・ゼバスティアンの末子)の影響が、はっきり現れています。ところで、この時モーツァルトは何歳?   1756年生まれだから……?  そうです。わずか8歳! でも、シンプルながらチャーミングな交響曲ですよ1

就活のために1777年から翌年にかけて滞在したマンハイムでは、ヨーロッパ随一と言われた宮廷オーケストラのレパートリーや優秀な管楽器奏者たちに、大きな刺激を受けました。新興の楽器クラリネットが加わった交響曲を聴き、父への手紙に、自分たち(のザルツブルク宮廷オーケストラ)にもクラリネット奏者がいたらなあ!と書いています。その足で向かったパリで、公開演奏会シリーズ「コンセール・スピリテュエル」用の音楽を注文されたモーツァルトは、初めてクラリネットを使った交響曲を作りました。ここのオーケストラにも、クラリネット奏者がいたからです。彼が初めからクラリネットを使った交響曲は、《パリ交響曲》と呼ばれるこの31番と、今回聖フィルが取り上げる39番の2曲だけです。

「旅をしない者は、まったく哀れむべき存在です」と、モーツァルトはパリから父に書き送りました。テレビやCDの無い時代。それぞれに異なった状況を呈していたヨーロッパ各都市の、さまざまな音楽に触れ音楽家たちに接し、それらを吸収しながら、モーツァルトの音楽は育まれていったのです。

  1. モーツァルト作曲交響曲第1番変ホ長調 K. 16の第1楽章 Molto Allegro は、ここから試聴できます。http://www.youtube.com/watch?v=lC6eQdeNOjU&feature=related