10. 8月 2016 · (288) ライプツィヒとバッハ はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , , ,

ドイツのライプツィヒと言われて思い浮かべる作曲家は? 1835年にゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者になった、メンデルスゾーン? 長くライプツィヒで活動したシューマン? ライプツィヒ生まれのヴァーグナー? 縁の作曲家は多いのですが、ヨハン・ゼバスティアン・バッハも忘れないでください。1750年に没するまでの後半生を、ライプツィヒで過ごしました。

図1:ライプツィヒ

図1:ライプツィヒ

ケーテン公の宮廷楽長から、ライプツィヒ市主要教会のひとつトーマス教会のカントルに転職。社会的地位はカントルより宮廷楽長(カペルマイスター)の方が上。さらに、前任者ヨハン・クーナウ(1660〜1722)の死去に伴い、ライプツィヒ市参事会が後任の第1候補にしたのはゲオルク・フィリップ・テレマン(1681〜1767)、第2はクリストフ・グラウプナー(1683〜1760)でした。2人が辞退したため、3番目のバッハがカントルに。

トーマスカントルの職務は2種類。ひとつは、トーマス教会付属学校で教えること。バッハは音楽は自分で教えましたが、ラテン語の授業は自費で代理を雇っていました。もうひとつは、ライプツィヒ市の音楽監督。礼拝における教会カンタータの演奏の他、結婚式や葬式などにも音楽を提供しました。

1723年5月末にライプツィヒに移ったあと、バッハは初めの6年間に、教会暦5年分の教会カンタータを作ったようです(激務に関しては (159) バッハの一週間参照)。カンタータは1年間で約60曲必要ですから、5年分でおよそ300曲1!!!(散逸が惜しまれますね)。カンタータの他に、《ヨハネ受難曲》(1724)や《マタイ受難曲》(1727)も作曲。1729年以降は、コレギウム・ムジクムの活動を精力的に行いました。

私事で恐縮ですが、一昨年夏のボストン、昨夏のロンドンとフィレンツェ、今春のローマとパリ((271) ヴァティカン図書館で調査してきた!!参照)に続いて、今夏はライプツィヒで資料研究をしてきます((249) 今と同じ?! 16世紀の楽譜参照。研究費をいただけるのは今年度が最後)。短い滞在ですが、州立図書館で写本調査をしながら、バッハやメンデルスゾーンが暮らした街を目に焼き付けたいと思います。ライプツィヒの後、ブリュッセルとコペンハーゲンの王立図書館でも資料調査するため、聖フィル❤コラムは3週続けてお休みさせていただきます。みなさま、どうぞ良い夏をお過ごしください。

  1. Stauffer, George B., ‘Leipzig,’ The New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 14, Macmillan, 2001, p. 314.

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