21. 10月 2015 · (256) かわいそうなメンデルスゾーン はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

生まれたときから亡くなるまで裕福だった作曲家って、もしかしたらメンデルスゾーンくらい? ただ金持ちだっただけではありません。祖父は高名な哲学者。両親や一流の教師たちの下で教育された神童で、ヨーロッパ各地に旅行し、さまざまな音楽や音楽家に接し、吸収したのは神童の先輩モーツァルトと同じ。自宅では私的な音楽会が開かれ、芸術家たちも出入りしていました。38歳の若さで亡くなりましたが、物質面・精神面においてかなり恵まれた一生だったと言えるでしょう。

ベルリンで J. S. バッハの《マタイ受難曲》を復活演奏したのは、1829年。バッハ再評価のきっかけになりました(この業績だけでも、私たちは彼に大いに感謝しなければなりません)。1835年にはライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に。1843年開校のライプツィヒ音楽院ではピアノと作曲を教えました。音楽界の第1人者として、生前そして死後しばらく、非常に高い評価を受けていたメンデルスゾーン。

しかし、その後現在に至る彼の音楽史における位置付けは、決して高いとは言えません。

ひとつに従来のヨーロッパの18〜19世紀のドイツ音楽史がともすればウィーンを中心とする南ドイツ、オーストリアにかたよりがちであり、北ドイツでの流れをしばしば不当に低く評価するか、ともすれば見過ごしがちであったこと(中略)一方、同世代のリストやショパンと対照的に、メンデルスゾーンは(中略)ロマン派特有の激しく燃焼するような劇的なものに欠けており、接する者を強くその作品や人となりへひきつける要素が少ない1

なんだか言い訳じみていますね。やはり一番の原因は、彼がユダヤ系だったことでしょう。19世紀後半以降の反ユダヤ主義の影響で、メンデルスゾーンや彼の音楽が不当に低く評価されたのです。ナチスによって彼の作品演奏が禁じられたことは知られていますが、それどころではないダメージをもたらしました(本人は1816年、両親も1822年にルター派プロテスタントに改宗したのですが)。第2次世界大戦後は、東西ドイツの分断により資料研究が遅れることに。かわいそうなメンデルスゾーン。

そのため、世間一般のメンデルスゾーンや彼の作品イメージは、「こんにちでも先入観に侵された表面的な理解が蔓延っている」2。確かに私も長い間、交響曲第4番の第1楽章は陽光あふれるイタリアを思い起こさせるとか、苦労せずに育った「ええとこのぼんぼん」的な(!?!)、伸びやかだけれどあまり深みが無い曲とか、通り一遍に捉えていました。

しかし、メンデルスゾーンが自作を徹底的に推敲し、納得したものしか出版許可を与えなかったことや、「イタリア」交響曲は没後出版で、納得どころか第1楽章(最も特徴的)を大幅に書き直すつもりであったこと((213) こんなはずではなかった?!  メンデルスゾーンの「イタリア」参照)、イタリア旅行中にインスピレーションを得たものの、本人は公の場では決してイタリアと結びつけて語らなかったこと((214) 「イタリア』ではなかった!! メンデルスゾーンの「イタリア」参照)などを知って、びっくり! もしも彼が、納得できない第1楽章のまま出版され、自分の意図に反して「イタリア」と呼ばれ、さらにそれが自分の代表作とみなされている現状を知ったなら、どれほどショックを受けることか! 一方で「満足できる形で後世に残す」という彼の志やそのための努力は、現在ほとんど知られていないのです。かわいそう過ぎ。

聖フィル第14回定期演奏会では、メンデルスゾーンの交響曲第3番を取り上げます。この機会に、メンデルスゾーンや彼の音楽の理解を、少しでも正当な方向に近づけたいと思います。まずは、交響曲を正しく理解しよう!というわけで、突然ですが質問です。生誕200年の2009年に出版されたメンデルスゾーン作品総目録にリストアップされたメンデルスゾーンの交響曲は、全部で何曲でしょうか?(続く)

  1. 吉田泰輔「メンデルスゾーン」『音楽大事典5』平凡社、1983、2521ページ。
  2. 星野宏美『メンデルスゾーン:交響曲第3番イ短調作品56、ミニチュア・スコア解説』音楽之友社、2010、ivページ。

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