18. 2月 2015 · (225) 波瀾万丈ヴァーグナーの生涯:お尋ね者編 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , , , ,

リガでの借金を踏み倒し、パリにやって来たヴァーグナー((224) 夜逃げ編参照)。しかし、赤貧にあえぐ惨めな2年半(1839年9月〜42年4月)の後、この大都会での成功をあきらめ、《リエンツィ》上演が決まったザクセン王国の首都ドレスデンへ。大好評により、ベルリン初演の予定だった《さまよえるオランダ人》もドレスデンで初演されました(前作ほどの好評は得られず)。しかも、当地の宮廷歌劇場 第2指揮者のポストが空き、定職を手に入れます(43年2月)。29歳にしてはじめて生活が安定し、波瀾万丈を卒業。

彼の仕事は、オペラやオーケストラの指揮と、宮廷の特別な機会のための作曲。イギリスで亡くなったヴェーバーの遺骨が1844年12月15日にドレスデンに改葬された際、ヴェーバーの《オイリアンテ》の2つの動機による葬送曲(吹奏楽)や、《ヴェーバーの墓前に》という無伴奏男声合唱曲を作っています。宮廷家劇場では、グルックの《アルミーダ》や《オーリドのイフィジェニー》などを指揮。

さらに重要なのは、1846年の枝の主日(イースター前の日曜日)コンサートで、ベートーヴェンの交響曲第9番を取り上げたこと。《第九》は当時もまだ、近寄りがたい謎の作品とみなされていていました。当然、上層部は反対。でも、財政的にも芸術的にも大きな成功を収めることができました(ヴェーバー、グルック、ベートーヴェン、いずれもドイツ作曲界の重鎮たちですね)。相変わらず借金は多かったものの、《タンホイザー》や《ローエングリン》を完成。

彼を波瀾万丈な人生に引き戻したのは、1848年のパリ二月革命、ウィーン三月革命に影響された、ドレスデン蜂起(49年5月3日)でした。劇場改革や、国民劇場の計画(監督の選出、演劇学校の設立、宮廷楽団の充実、自主運営組織など)に関する提案が当局に却下され、不満が募っていたヴァーグナー1。ロシア人無政府主義者バクーニンに影響され、「あらゆる支配権をぶち壊す……権力を、法律の力を、私有財産を破壊する」というような物騒な檄文を書くのですが……2

図1:ヴァーグナーの人相書(1853)

図1:ヴァーグナーの人相書

国王軍の軍事力は圧倒的で、反乱はすぐに鎮圧。5月16日、首謀者の1人とみなされたヴァーグナーの逮捕状が出されます。「当時の宮廷楽長(ママ)リヒャルト・ヴァーグナーは、当市に起こった反乱に全面的に荷担したかどにより、取り調べを受けることになっているが、もっかのところ行方不明である……ヴァーグナーは37、8歳、中背、頭髪は茶色、眼鏡を着用」3。お尋ね者ヴァーグナーは、ヴァイマール宮廷楽長リストに匿われ、偽のパスポートでスイスに亡命。追放が完全に解除されたのは、1862年のことでした。

  1. Millington, Barry, ‘Wagner: (1) Richard Wagner,’ The New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 26, Macmillan, 2001, p. 934.
  2. 西原稔『クラシックでわかる世界史』アルテスパブリッシング、2007、247ページ。
  3. 前掲書、246ページ。

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