11. 2月 2015 · (224) 波瀾万丈ヴァーグナーの生涯:夜逃げ編 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags:

音楽史を教えていると、作曲家ってあまりお友達になりたくないタイプが多いなあと感じます。中でも、絶対に近寄りたくないタイプ(?!)が、リヒャルト・ヴァーグナー(1813ライプツィヒ〜83ヴェネツィア)。性格も難ありですが、生涯が波瀾万丈過ぎ。「ジェットコースターに乗ったような」一生でした。

本人のせいではないものの、生まれたときから問題が。「公式な」父親は、警察関係の保険計理士カール・フリードリヒ・ヴァーグナー。リヒャルトは第9子として、3兄5姉の後に生まれました。誕生からちょうど半年後に、フリードリヒが流行病で死亡。母ヨハンナは、俳優兼画家ルートヴィヒ・ガイヤーと再婚します。これが、前夫死亡のわずか9ヶ月後。ガイヤーがリヒャルトの実父ではないかという疑問が浮上します。8年後、継父ガイヤーも病死。リヒャルト本人も、終生真の父親が誰かわからないままでした(彼の作品の中にしばしば親子間の葛藤が織り込まれるのは、自分の親子関係と無縁ではないでしょう1)。

1831年2月、音楽を学ぶためにライプツィヒ大学に入学するも、「放埒にふけって中退」2(「大学生のワーグナーは酒びたりの生活を送り、賭け事にも手を出した。あるときなど懐にしていた母親の年金まで掛け金に使って(中略)」と書かれた本も3)。同年10月から、トーマス教会カントル(100年前に J. S. バッハが務めていた職)クリスティアン・テオドール・ヴァインリヒに作曲を学びました。半年ほどの短い期間でしたが集中的に学習し、ピアノ曲や管弦楽、声楽作品を残しています。

ヴァーグナーの最初の仕事は、ヴュルツブルク劇場の合唱長(1833)。マルデブルクの旅一座の指揮者(1834〜。36年に一座のミンナ・プラーナーと結婚)、ケーニヒスベルクのオペラ指揮者(1837、すぐ失業)を経て、1837年にはリガの劇場指揮者に(ロシア領リガって、現ラトヴィアの首都。遠い!)。この職も危うくなり、契約に関して口論したあげく、以前から成功の野望を抱いていたパリへ向かいます。

リヒャルトにもミンナも借金が嵩んで、パスポートを没収されていました。2人とペットのニューファンドランド犬は、武装コサック兵が見張る中、闇に紛れて国境の水路を這うように進み、プロシアの港ピラウ(現バルチースク)へ4。借金を踏み倒して、文字通りの夜逃げです。ロンドンに向かう小さな商船に乗り込み、密出国。順調であれば8日間の船旅が、途中大時化にあい、命からがらロンドンに着いたのは3週間後でした5。嵐の中の危険な航海や、ノルウェーのフィヨルドの岸壁にこだまする乗組員たちの叫び声などは、後に《さまよえるオランダ人》に活かされることになります。パリに着いたのは、1839年9月でした。

  1. Millington, Barry, ‘Wagner: (1) Richard Wagner,’ The New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 26, Macmillan, 2001, p. 931.
  2. 高木卓「ヴァーグナー」『音楽大事典1』平凡社、1981、145ページ。
  3. 三光長治『ワーグナー』新潮文庫、1990、31ページ。
  4. Barry、前掲書、932ページ。
  5. 三光、前掲書、40ページ。