29. 10月 2014 · (209) ドヴォルジャークとイギリス はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: ,

自作の交響曲の1つが《イギリス》として知られていたドヴォルジャーク((208)《イギリス》と呼んでいたのは日本だけ??参照)。彼にとってイギリスは特別な国になります。1841年生まれのドヴォルジャークが初めてイギリスを訪れたのは、1884年3月。ロンドンのフィルハーモニー協会から、自作を指揮するよう招かれたのです。ロンドンでは既に1879年にスラヴ舞曲集、1880年にスラヴ狂詩曲や弦楽六重奏曲、1882年に交響曲第6番、1883年に《スターバト・マーテル》が演奏され、彼の名は知られていました。イギリス音楽界はドヴォルジャークの訪英を最重要イヴェントと位置づけ、「当代の音楽ヒーロー」を熱烈大歓迎。指揮した演奏会は:

  1. 3月13日(アルバート・ホール):《スターバト・マーテル》
  2. 3月20日(セント・ジェイムス・ホール):序曲《フス教徒》、第6交響曲、スラヴ狂詩曲
  3. 3月22日(クリスタル・パレス):スケルツォ・カプリチオーソ、夜想曲ロ長調

フィルハーモニー協会により名誉会員に推挙されて、新作交響曲を約束。また、翌1885年のバーミンガム音楽祭と翌々年1886年のリーズ音楽祭のための合唱作品も期待されたドヴォルジャーク。この後さらに8回もイギリスを訪れ、いずれも暖かく迎えられました。

  1. 1884年11月:《スターバト・マーテル》(ウースター)
  2. 1885年4月:交響曲第7番 初演(ロンドン)
  3. 同年8月:カンタータ《幽霊の花嫁》イギリス初演(バーミンガム)
  4. 1886年10月:オラトリオ《聖ルドミラ》初演(リーズ)
  5. 1890年4月:交響曲第8番 イギリス初演(ロンドン)
  6. 1891年7月:ケンブリッジ大学名誉博士号を受ける(ケンブリッジ)
  7. 同年10月:レクイエム初演(バーミンガム)
  8. 1896年3月:チェロ協奏曲 初演(ロンドン)

ドヴォルジャークのイギリスでの大成功は、実は大きな意味を持っています。彼の祖国チェコは、当時ハプスブルク帝国の一部。ナショナリズムの高まりとともに、1880年代には政治的な緊張が歌劇場やコンサート・ホールにまで影響しました。ウィーンでは、チェコの作曲家の作品を重要視するのは賢明ではないと考えられたのです1。1880年末に行われるはずだった彼の交響曲第6番のウィーン初演はキャンセルされ、その後も何度か延期。1888年2月、ウィーンでの《スターバト・マーテル》演奏会も、(既にたとえばロンドンで高く評価されていたにもかかわらず)「反チェコ感情」の犠牲に。

しかし、大陸の政治的いざこざから遠く離れたイギリスでは、ドヴォルジャークの作品は純粋に音楽的に、正当に評価されました。またドヴォルジャークもイギリスで委嘱された作品では、(ドイツやオーストリアで持たれるような偏見を心配せずに)チェコの主題を取り上げることができました。《幽霊の花嫁》はチェコのおとぎ話、《聖ルドミラ》はチェコの伝説が題材。交響曲第7番も、序曲《フス教徒》と関連する動機が使われる、愛国的な内容を暗示させる作品です。イギリスにおける成功は、ドヴォルジャークの国際的な名声を高めました。そして彼の音楽を、チェコ国民楽派のレパートリーに留まらない普遍的な存在としたのです。

  1. Doge, Klaus, ‘Dvořák, Antonín,’ The New Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 7, Macmillan, 2001, pp. 780-81.

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