22. 1月 2014 · (169) 交響曲と歌曲:マーラーの《巨人》 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

アマ・オケ奏者のあこがれ、オケ・ファンが大好きなマーラーの交響曲。特徴は:

  1. 編成がでかい(「大きい」と言うより「でかい」だと思いませんか?)
  2. 曲が長い(交響曲1曲で演奏会が成立するものも。私、3番1曲だけの演奏会に、タッチの差で遅刻したことがあるんです。第1楽章が終わるまで40分近く、ロビーで呆然と立ち尽くしていました……)
  3. 交響曲と歌曲を近づけた

今回は3について。わかりやすいのは第2、3、4番交響曲。ベートーヴェンの《第九》のように歌付きの楽章が含まれます。自身が交響曲と呼んだ《大地の歌》は、オーケストラ伴奏付きの連作歌曲集。《一千人の交響曲》のニックネームをもつ第8番は、実質的に2部から成るカンタータです。

歌が含まれていなくても、歌曲と近い関係の交響曲があります。たとえば第1番。ソプラノ歌手ヨハンナ・リヒターへの失恋をきっかけに作られた歌曲集《さすらう若人の歌》と、密接に関連しています。4曲とも、マーラーが歌詞も書きました。

第2曲〈今朝、野を行くと〉は、さわやかな曲。第1曲〈いとしい人が結婚する時〉でダイレクトに歌われた失恋の痛みは、忘れられてしまったかのよう。朝の野を歩く自分に、ヒワや釣鐘草が「すてきな世界じゃないですか」と呼びかけます。でも、最後の第3節が進むうち、音楽は次第にテンポを落として切れ切れに。「いや、いや、自分の幸せは決して花咲くものか!」の最終行が、明るい響きの中に切ない余韻を残します。

マーラーの交響曲第1番をご存知の方は、これを聴いて驚かれたことでしょう。第1楽章に〈今朝、野を行くと〉の「旋律が使われている」という解説は、正確ではありませんよね。歌以外のほぼ全て(歌の旋律を楽器に移し、オーケストラごと)が、提示部に使われています。途中に、新しいフレーズを挟んだのかなと思われた方、歌曲の第3節(1’27〜)までお待ちください。第1主題の続きはこちら(1’39〜)。「歌が含まれていなくても、歌曲と近い関係」と書いた意味を理解していただけたと思います。

しかも、歌曲を交響曲に使うという単純なプロセスではなかったようです。マーラーがピアノ伴奏の《さすらう若人の歌》を作曲したのは、1884〜85年。オーケストラ伴奏にしたのは、1990年代。一方、交響曲第1番の第1稿(2部構成5楽章から成る交響詩)の作曲は、1884〜88年1。つまり、歌曲に基づいて交響曲を書き、さらにその交響曲を歌曲に転用したことになります。

一方を他方に組み込むという次元を越えて、両者を行ったり来たりする相互乗り入れの次元へ。第1番第1楽章においてマーラーは、相反する性格を持つ交響曲と歌曲を、「近づけた」と言うよりむしろ融合させたと言うべきかもしれません。

  1. この後もタイトルや副題を付けたり、それらを削り、4楽章構成にして交響曲に仕立て直したり(タイトルは削られたままなので、《巨人》と呼ぶのは正しくないのですが)と、改訂は続きます。