通奏低音を受け持つ鍵盤楽器奏者か、ヴァイオリンのトップ奏者(あるいはこの両者)の合図で演奏していたバロック時代。兼業指揮(?!)体制はその後も続きます。たとえばモーツァルト。「コンセール・スピリチュエルの幕開けのために書いたぼくのシンフォニー(註《パリ》交響曲)は、前の晩、生まれてこのかた聴いたこともないひどい練習につきあって、心配と不安と怒りのあまり眠れないほどでした(中略)覚悟を決めました。もし、稽古のときのようにまずく行ったら、なんとしても第1ヴァイオリンの手から楽器を取り上げて、ぼく自身が指揮をしようと」(1778年7月3日付けレオポルト宛の手紙1。下線筆者。(115) 愛の楽器? クラリネット(2)も参照)。
ザルツブルク宮廷楽団のコンサート・マスターですから、オケを率いるのはお手のものだったのでしょう(幸い本番はとてもうまくいったので、彼が飛び入りする必要はありませんでした)。ハイドンのロンドン招聘を実現させた興行師ザロモンもすぐれたヴァイオリニストで、もちろん兼業指揮をしていました。
当時は「音が出る指揮(というか指示)」が多かったそうです。具体的には「手を叩く」「台を叩く」「足を打ち鳴らす」「叫ぶ」など。しかも「演奏の間中、ほとんどずっと」鳴っていた2。たとえばパリのオペラ座の「足を踏み鳴らす、あるいは杖や弓で音が出るように叩く」指揮は、1803年に「しばしば、間違いと同じくらい邪魔になる」と評されています3。
メンデルスゾーンは1831年にナポリの歌劇場で、オペラの間中ずっとファースト・ヴァイオリン奏者がブリキのろうそく立てを4分音符の速さで(=1小節4つずつ)打っているのを聞いて「(オブリガート・カスタネットのようだけれどそれよりやかましく)歌よりもはっきり聞こえる。それなのに、歌声は決して揃わない」と書き残しているそうです4。オペラだけではありません。ヴァーグナーは、1832年にプラハで、「乾いたひどくうるさいつえの音の」ディオニス・ヴェーバーに自分の交響曲のリハーサルしてもらったと書いています5。
指揮者が「オーケストラの中で唯一音を出さない(出せない)奏者」になったのは、それほど昔ではなかったのですね。現在の指揮者像は、19世紀後半以降に作られたものなのです。