1824年5月7日に行われた、《第九》初演やミサ・ソレムニスのヴィーン初演(3つの楽章のみ)を含む、ベートーヴェンの大音楽会(アカデミー)。演奏の出来にはかなり問題がありましたし、皇帝や貴族たちは不在((107) 練習は何回?参照)。でも、ヴィーン音楽界の多くの有力者が出席し、大変な盛況でした。聴衆は熱狂! ベートーヴェンにとって、生涯最大の芸術的勝利となりました(ただ、総収入2,200グルデンから写譜代700グルデンなどの経費を除くと、作曲者の利益はわずか300グルデン1。経済的勝利にはなりませんでした)。
演奏に不備があったのに、聴衆は何に熱狂したのでしょうか。もちろん、ベートーヴェンの音楽自体に感動したのでしょうね。歌詞がわかりにくいため、シラーの詩500部が当日配布されました(印刷することが決まったのは前日)2。歌詞に込められた歓喜、自然、兄弟愛、自由、平等などの理念を、聴衆も理解できたはずです。
新しい交響曲への関心も高まっていました。ベートーヴェンはそれまでの8つの交響曲を、あまり間隔をあけずに作曲・初演しています。でも、交響曲第8番を作曲したのは1812年。1814年2月の初演から数えても、すでに10年が経過。彼の交響曲に対する渇望感があったのでしょう。
そして、「2月嘆願書」が、新作への期待をさらに煽ることになります。ベートーヴェンは諸事情により、《第九》をベルリンで初演することを考えました。それを知ったリヒノフスキー伯爵らベートーヴェンの支持者たちが、ヴィーンで初演するよう運動を開始。1824年2月に30人もの連名で、ベートーヴェンに嘆願書を出しました。この「2月嘆願書」が4月に『一般音楽新聞』や『劇場新聞』で公開され、人々の興味をかき立てたのです3。
でも、人々が熱狂した最大の理由はおそらく、そこにベートーヴェンがいたから。当日のプログラムの下方には、「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン氏自ら全体の指揮に参加」と大きな活字で強調されています(図1)4。ヴィーン市民にとって、彼らのヒーローが姿を見せることに大きな意味があったのでしょう。
このため当日は、「シュパンツィク氏はヴァイオリン・パートで統率(=コンサート・マスター)、楽長のウムラウフ氏が指揮棒を執り、作曲者自ら全体の指揮に加わった。すなわち彼は(中略)自分の原スコアにあたりながら、各々のテンポの入りを指示したのである(『一般音楽新聞』7月1日号)」 という、三重の指揮体制になりました5。演奏の不備にふれつつ、『一般音楽新聞』は続けます。「だが、感銘はそれでも筆舌に尽くしがたいほど大きくて素晴らしく、崇高な楽匠に力の限り示された歓呼の声は熱狂的であった。彼の尽きることのない天賦の才は私たちに新しい世界を開き、未だ聴いたことも予感したこともない聖なる芸術の奇跡の神秘を露にした」6。ベートーヴェンを大絶賛していますね。
でも実は、総指揮者ウムラウフが演奏者たちに、ベートーヴェンのテンポ指示を無視するよう(!!)言い渡していました7。作曲家はそこに「いただけ」だったのです。