1808年12月22日、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で、ベートーヴェンのハ短調交響曲が初演されました。作曲者本人の企画による、彼の作品のみで構成された大演奏会です。1809年1月25日号の『一般音楽新聞』によると当日のプログラムは(かっこ内は補足):

第1部

  1. 田園交響曲第5番(第6番)、絵画というよりむしろ感情の表現
  2. アリア。独唱はキリツキー嬢(《ああ、裏切り者》op. 65)
  3. ラテン語の歌詞による讃歌(ミサ曲ハ長調 op. 86 からおそらくグローリア)
  4. ピアノ協奏曲(第4番)。ベートーヴェンによる独奏

第2部

  1. 大交響曲ハ短調第6番(第5番)
  2. ラテン語の歌詞による聖歌(ミサ曲ハ長調からおそらくサンクトゥス)
  3. ピアノ独奏のための幻想曲(ベートーヴェンによる即興演奏)
  4. ピアノ、管弦楽、最後に合唱が加わる幻想曲(《合唱幻想曲》 op. 80)

《運命》が第6番、《田園》が第5番と書かれているのは、単に演奏順序によるのかもしれません。12月22日とはずいぶん寒い時期ですが、クリスマス前はオペラや芝居の上演が禁止されていて、競合しないからです。ちなみにこの意欲的な演奏会は、大失敗に終わりました。先の新聞は「演奏に関しては、あらゆる点で不十分であった」と評しています。主な原因は練習不足1

ベートーヴェンは、交響曲で始まりその後に独唱や協奏曲、即興演奏が続く、伝統的なプログラム構成を踏襲しています。客席の照明を暗く、ステージを明るくして開幕を知らせることができなかったロウソクの時代に、「交響曲」シンフォニーアは、オペラやコンサートの開始を告げる曲でした。しかし《田園》と《運命》交響曲は、序曲の役目を果たすには、成長し過ぎました。この演奏会のメインとして新たに作曲された《合唱幻想曲》よりも、冒頭に置かれた2つの交響曲の方が、音楽的にはるかに複雑で重要な意味を持つのは明らかです。

ベートーヴェンの9作品により、交響曲は「作曲家が1曲ごとに、持てる力をすべて注ぎ込んで作る」「作曲家の力量を推し量る指標となる」ジャンルにまで高められました。このような変化を反映し、1830年代には「序曲→協奏曲(またはアリア)→交響曲」という、今日まで続くプログラム構成が珍しくなくなったと言います2。交響曲の歴史においてこの1808年12月のベートーヴェン演奏会のプログラムは、現代まで続く交響曲像が完成する直前の、18世紀的な概念と19世紀的な実像の矛盾を映し出す好例と言えるかもしれません。

  1. 最後の《合唱幻想曲》では途中で演奏がずれて、もう一度初めからやり直さなければなりませんでした。当時、オーケストラの総練習は1回というのが普通だったそうですが、この演奏会では曲目が多過ぎて、全部を通す時間さえなかったと言います。ベートーヴェンは、同じ日に他の劇場でハイドンの作品によるチャリティー・コンサートが行われ、優秀な演奏家を取られてしまったと書き残していますが、彼の革新的な書法は、仮に演奏家が優秀であったとしても難かしかったことでしょう。11/11/24 追記:(56) アドヴェントと音楽もご覧ください。
  2. 森泰彦「ベートーヴェン時代のウィーンの演奏会」『ベートーヴェン全集5』講談社、1998、105ページ。13/09/18 追記:少なくともフィルハーモニック協会定期演奏会の、20世紀初頭までのプログラムをたどる限り、このような構成はかなり稀のようです。(150)・(151) 参照のこと。