交響曲を器楽の最重要ジャンルと捉えている方はもちろん、前回の聖フィル♥コラムで「交響曲』シンフォニーアが演奏会の開幕ベル代わりだったと知った方も、1780年代末に書かれたというこの記述には、いささかショックを受けることでしょう。

「コンサートは(中略)交響曲で始まる。これらは必要悪とみなされている(あなたはとにかく何かを演奏することで、コンサートを始めなければなりません)。そしてこれが演奏されている間、人々はおしゃべりしています」1

「交響曲」が聞こえて来ると、ロビーで談笑していた人々(当時からコンサートは、社交の場でした)は客席に向かい、着席する。しかし、「交響曲」が終わってメイン・プログラムが始まるまでは、おしゃべりしていてもかまわない……。

それでは、18世紀の人々はいったい何を聴くために、コンサートに出かけたのでしょうか。1783年3月23日に、モーツァルトがウィーンのブルク劇場で開いた演奏会を例に考えてみましょう。彼は同月29日付の手紙で、皇帝も臨席し、大成功に終わった自分の演奏会の全プログラムを、父レオポルトに報告しています(カッコ内は補足)。

  1. ハフナー交響曲(第35番)
  2. ランゲ夫人2の独唱。《イドメネーオ》よりアリア『もし私が父上を失い』
  3. モーツァルト独奏によるピアノ協奏曲(第13番)
  4. アダムベルガーの独唱。コンサート・アリア(《話したのは私ではない》)
  5. フィナールムジークよりコンチェルタンテ(《ポストホルン・セレナード》第3楽章)
  6. モーツァルト独奏によるピアノ協奏曲(第5番)
  7. タイバー嬢の独唱。《ルーチョ・シッラ》よりシェーナ『私は行く、私は急ぐ』
  8. モーツァルトのピアノ(即興)演奏。小フーガと変奏曲2曲–パイジェッロとグルックの主題による
  9. ランゲ夫人の独唱。レチタティーヴォとロンド(《お前は知らないのだ》)
  10. ハフナー交響曲の終楽章

現代のプログラム構成に慣れた者にとっては、まず演目の多さに驚かされます(10試合!?)。さらに、交響曲やら独唱やら協奏曲やら即興演奏やら、脈絡のない雑多な内容! 実は、観客の様々な好みに合うよういろいろなジャンルの音楽を盛り込むのが、演奏会の常識でした3。この例からも明らかなように、当時の人々が聴きたかったのはソロ。独唱や、協奏曲の独奏パートや即興独奏をする、ソリストたちの音楽でした。

ハフナー交響曲の初演も、ここでは「非日常」の始まりと終わりを告げる、音楽会の枠組みに過ぎませんでした4。このような価値の低い「交響曲」シンフォニーアの位置づけが変化したのは、ハイドンのいわゆるザロモン交響曲あたりからと考えられています。果たして「交響曲」のメイン・プログラム入りは成るか? 次回はようやく、シンフォニーアから聖フィル第4回定演の曲目に、話がつながりそうです。

  1. 「一般音楽新聞」1800年10月22日号。森泰彦「ヴィーンの森の演奏会」『モーツァルト全集6』小学館、1991、74ページ。日本語訳は石多正男『交響曲の生涯』東京書籍、2006年、221ページより。
  2. 旧姓アロイージア・ヴェーバー、モーツァルトの初恋の相手。
  3. 1つのジャンルの作品だけで演奏会を開いたのは、今年、生誕200年を迎えるリストが最初だと言われています。彼はピアノ・ヴィルトゥオーゾとして絶大な人気を誇っていたので、ピアノ曲だけのリサイタルが可能だったのです。
  4. この音楽会では、ハフナー交響曲の冒頭3楽章の後にメイン・プログラムが置かれ、最後に残りの終楽章が演奏されたというのが定説です。しかし手紙には、最後がハフナー終楽章とは明記されているものの、1曲目はハフナー交響曲としか書かれていません。したがって、冒頭に全楽章が演奏され、しめくくりに終楽章だけがもう一度演奏された可能性もあるのだそうです。海老沢敏『交響曲:華麗なる祝祭の響き』モーツァルト全集第1巻、小学館、1990。