12. 1月 2011 · (10) 自由音楽家としてのモーツァルト はコメントを受け付けていません。 · Categories: 聖フィル♥コラム · Tags: , ,

聖フィル第4回定期演奏会では、モーツァルト(1756〜91)の交響曲第39番を取り上げます。彼は1781年からウィーンで、フリーランスの音楽家として活動しました。それまでの音楽家の生き方と、比較してみましょう。

たとえばバッハは1717年以降、宮廷楽長としてケーテン公に仕え、多くの世俗曲を作曲します。新年祝賀用の世俗カンタータ《日々と年を生み出す時は BWV134a》も、1719年元日に演奏されました(『新年の音楽』のコラムでこの曲を思い出せなくて、ごめんなさい!)。しかし、公の結婚相手が音楽に興味が無かったことや、息子たちの大学教育のため、就活を開始。ブランデンブルク辺境伯に献呈した協奏曲集も、その一貫だったと考えられています。第1候補と第2候補が辞退したため、ライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(合唱長)職に無事採用されたものの、激務が待っていました。毎週日曜に行われる礼拝用の教会カンタータの作曲と演奏以外に、教会付属学校での指導や、ライプツィヒ市の音楽監督として、行事用音楽を作曲。口を出す市のおえら方と何度も衝突しつつ、亡くなるまでの27年間、この職に留まりました。

ハイドンも約30年間、エステルハージ侯爵家に仕えます。「制服着用」「食事は召使いの食堂で」などの条件が並んだ契約書(1761年)が物語るように、この時代の音楽家は「料理が得意な召使い=コック」や「庭仕事が上手な召使い=庭師」と同じ、「楽器演奏や作曲が得意な召使い」に過ぎませんでした1。ハイドンが侯爵家との契約から解放されたのは1790年。フリーになったハイドンは、ザロモンに誘われてロンドンで新作交響曲を発表し、大成功します(コラム(19)参照のこと)。

モーツァルトは父レオポルトと同様、生地ザルツブルクの宮廷音楽家で、コンツェルトマイスターとしてオーケストラをまとめたり、教会や宮廷で使われる音楽を作るのが仕事でした。彼が最も望んでいたのはオペラでの成功でしたが、カトリックの直轄統治領ザルツブルクには、オペラ劇場もありません。セレナードやディヴェルティメントなどの、祝祭や娯楽用「機会音楽」を作曲し続ける退屈な日々。ミュンヘンやマンハイム、パリでの就活もうまくいきません。

とうとう1781年に、自分を召使い扱いする上司コロレード大司教と決裂。宮廷音楽家の職を辞し、ヴィーンでフリーランス音楽家として暮らし始めます。主な収入源は、作曲やピアノのレッスンと、自作を披露する予約演奏会。売れっ子作曲家としての人気が下降線をたどる87年に、ようやくヴィーン宮廷作曲家に任命されたものの、4年後に亡くなるまでに、驚くほど多額の借金を重ねることになります。

第39番を含む「三大交響曲」を作曲したのもこの窮乏の時期ですが、音楽は生活の疲れなど全く感じさせませんね。定職を捨て自立した音楽家として生きた、誇り高いモーツァルト。彼の生き方は、召使いであり職人であった音楽家が、独立し自分の意志で自己表現のために作曲する、「芸術家」へと変貌する様を示していると言えるでしょう。